「兵助、落ち着け!」

落ち着いてなんかいられなかった。咄嗟に踵を返した俺を止める誰かの声も耳に入らない。騒ぎ立てる心が、急げと身体に命令を下す。だって、信じない。数日前にあの笑顔を見たんだ。温もりだってまだちゃんと残ってる。覚えてる。肩を羽交い絞める腕から逃げ出そうともがく俺と、それを止める仲間。やがて、静かなお頭の声が響く。

「…私は、今から城へ引き返す。お前達は恐らくもう到着するだろう城からの兵士と合流して、こっちを一段落させてから帰って来るんだ」

「お頭!」

「兵助、お前も私と来なさい」

「……っはい!」

「後のことは頼んだぞ。きっと、残っている者達が城を守ってくれている。心配するな」

すぐさまそう返した俺を伴い、お頭はそう言い残すと素早く身を翻す。お頭の背中を追い掛けながら、祈るような気持ちで俺も闇の中を駆け抜ける。今だから分かる。きっとあの時のお頭は、城がもう助からないことをきっと分かっていた。分かっていて、きっと動揺を広げないようにああやって言ったに違いない。まだ戦の真っ最中なんだ。放り出していくのは簡単だけども、きっと今更引き返すに引き返せないところまでこの戦は始まってしまっている。とんぼ返りした俺達を狙って攻め返されるかもしれない。そうなればもっと被害は大きくなる。けれど、城も無くしてしまったら、これは一体何のための戦なのだろう。誰のために戦って誰のために血を流すのだろう。今考えたって、それは分からない。けれど、お頭は優しい人だから被害を最小限に食い止めたかったに違いない。だから、敢えてあんなことを言うしかなかったのだろう。

「兵助、大丈夫だ」

「………お頭」

「リョウと約束したんだろう?必ず帰ると、待ってると。リョウがきっとあの場所を守って待ってくれている。だから、今は何も考えずに走りなさい」

「………はい、」

お頭の言葉に、掠れそうな声で答える。ようやく俺は自分が呼吸すらも上手くできていなかったことに気がついた。ゆっくり吐いて、そして吐き出す。頭がまるで麻痺したように、なにも考えられない。前を見据えて、再びただこの山道を駆けることだけに没頭する。心臓が、まるで耳元にでもあるんじゃないかと思えるほどに大きく響く。胸をざわめかせるこの不安を振り払うように、俺は必死で走った。


待ってると、その声が何度も蘇る。
居場所なんか、例えばなくなってしまってもいい。
そんなことより、リョウがいてくれるなら、
何度だって、そこが俺の帰る場所だ。


夜も朝も昼も城への道を駆けた。
身も心もどうしようもなく限界に近付いていたけれど、それでも城の者達のことを思えばじっとなんてしていられなかった。お頭の背を追いながら、歯を食い縛る。流れていく景色には、もう色など見えなかった。ただ白と黒の景色が後ろへと流れていく。木々の切れ目に光が差し込む。もうすぐで、この山を抜ける。あの切れ目から、いよいよ城も城下も一望できる程に近付く。きっと城は無事だ。残された者達だって、決して弱くはない。それに、俺達には同盟国もある。何かあれば、駆け付けてくれているはずだ。

だから、信じろ。


「兵助、森を抜けるぞ」

「……はい…!」

ざざざ!と葉鳴りの音を響かせ、高い木の枝へ降り立つ。眩しいほどに降り注ぐ朝日が、俺達へと夜明けを告げている。一瞬、その光で目の前が弾けて真っ白になる。手を翳して目を細める。


厳かな城郭に、光を受けて真っ白に輝く城壁。そして空を遮るが如く天高く聳え立つ天守。城下を囲う総構えがぐるりと町を覆い、その内に立ち並ぶ家々と人が活気付く。

「…ねぇ、お頭」

「………………」

「俺は…夢でも見てるんですか」



そんなもの、どこにも残ってはいなかった。



焼け落ちた城壁が無残にも煤汚れて崩れ落ちている様が、夜明けの中に浮かび上がった。残り火だけがチラチラと瞬き、そこから立ち上る真っ黒な煙が鈍色の空を浸食してしまう。活気に溢れていた町は、影も形も残っておらず、ただ道々に横たわる亡骸がその凄惨さを物語っている。昇る太陽が、ゆっくりと光と影を落としながらその地獄みたいな景色を照らしている。城は最早、跡形もないと言っていい。

ガクリと、膝の力が抜けた。
その俺の隣で、お頭もただ声も無く立ち尽くしている。見開いた俺の目の前に写るこの光景は、悪い夢なのだろうか。だったら、早く覚めてくれ。

立ち上がろうと、震える指先で地面を握る。ポタリと頬を伝った汗が地面へと雫となって零れ落ちた。身体の真ん中で冷え切っていた何かが、全身を凍りつかせる。

「…なぁ、兵助」

「………………」

「私達は、ほんの数日前まで…私達がたった今嘘だと思った光景を、作ろうとしていたんだな…」

お頭の言葉に、まるで針の筵に放り込まれたかのような感覚を覚える。そうだ、俺達は、たった数日前まで、同じことをしていたんだ。今嘘であってくれと願ったことを、どこかの誰かに強いていたんだ。

途端に、まるで込み上げるような吐き気が胸を焼く。はっはっと短い息を漏らしながら、爪先が地を掻く。真っ黒な感情が渦を巻くように鬩ぎあった。苦しい、悲しい。けれど、それこそがこの世界で生きていくということであって、誰も責める事の出来ない人間の愚かさなのだ。誰かが笑えば、その裏で誰かが泣く。そんなの分かり切っていることだ。そして俺達は今、誰かが笑っているこの現状で、泣きそうなほどに絶望を強いられている。それが自業自得だということも、生きるということだともよく分かっている。けれど、じゃあ、笑っている筈だった彼女は今どこで泣いている?


「…リョウ、」

「…兵助?」


ふらりと、傾きそうな身体が歩み出す。聞こえない声を追って、俺の身体がもう一度動く。待ってるとそう言ったリョウの言葉を頼りに、ゆっくりと駆け出した。

「待て!敵兵がいるかもしれない!」

「お頭…だってリョウが、!」

「落ち着け!こっちに抜け道がある!」

山を下り、抜け道から城下へと入り込む。跡形も無くなった町を抜け、燻った炎と煙の立ち上る無残な城跡へとひたすらに走る。重傷者を集めた一角を通り抜け、驚きに目を瞠る生き残った仲間の間をすり抜け、崩れ落ちた虎口を横切る。

「兵助!」

耳に届いたその声に、思わず足を止めて振り返った。

「…勘ちゃん…」

「お前何でここに…、もしかして引き返してきたのか?」

驚いたように目を瞬かせる勘ちゃんに、後から追い付いてきたお頭が事情を説明している。勘ちゃんは、同盟国の忍だ。恐らく駆けつけてくれたのだろう。その腕に巻かれた包帯へ視線を向けながら、ハッとなって俺は縋りつくように尋ねた。

「勘ちゃん、リョウは…?!」

「っ…!」

「どこにいるんだ?無事なんだろ?さっきから探してるんだけど、見つからないんだ」

重傷者の中にも、あちこちを駆け回っている仲間の中にもどこにも、その姿は見えない。声を探しても、聞こえない。縋るように握り締めた勘ちゃんの装束もボロボロだった。勘ちゃんならきっと知ってる。きっと心配して探してくれた筈だ。けれど、その俺の思いに反して、勘ちゃんはその顔を歪めた。唇を噛み締めて、その瞳が伏せられる。

「…いないんだ」

「…え…」

「どこにもいないんだ、リョウは…殿と姫を逃がして、たった一人で炎の城内に残ったらしいんだ…それ以来、誰もその姿を…見てないんだ…っ!」

ぽろりと勘ちゃんの目から涙が零れ落ちる。音も、色も、何もかもが消えてなくなる。温度も、感覚も、バラバラと崩れ落ちていくように失っていく。凍りついたように身体が動かない。瞬きも忘れたこの目が、風に散る勘ちゃんの涙を追うように揺れる。戦慄く唇が、引きつったような音を奏でて声が零れ落ちる。

「…嘘だ」

ポツリとそう呟いた俺自身の声に、次の瞬間弾かれたように身体が動き出す。背後で響く勘ちゃんとお頭の声も届かずに、ただその城壁へと駆け寄る。まだ煙が燻っていて、目に染みる。きっと、生きてる。だってそう約束したじゃないか。ここで待ってるって言ったじゃないか。滲んだ景色で前が見えなくなって、何度も瓦礫に躓く。その度に立ち上がって、掻き分けるように彼女の姿を捜す。あの声を、笑顔を、指先を、掌を、何度も目を凝らして探し回る。信じない、絶対そんなことは信じない。これ以上の最悪なんて、俺は信じない。

「リョウ!!」

なのに、見渡す限り広がるこの瓦礫のどこにも、彼女はいない。

「…っリョウ、リョウーっ!!」

叫んでも叫んでも、その声は返ってこない。

「リョウ、返事してくれ…っ!!」

縺れた足にグラリと身体が傾く。勢いよく倒れこんだ地面に横たわったまま、掌が幾度も砂利を掴む。倒れた身体を起こそうと何度も力を込めるのに、どうしても身体に力が入らない。唇を噛み締めれば、じわりと血の味がする。気がつけば、指先は小刻みに震えていた。何に対してか分からない。真っ白に血の気が失せた指先が、瓦礫に力無く伸ばされる。その掌を掬い上げるように、誰かの掌がぐんと俺の身体を引き上げる。その腕を辿れば、泣きながら眉を顰める勘ちゃんがいた。

「兵助、俺だって…捜したんだよ…!何度も何度も…何度も!でもいないんだ!あの日から何日も捜したんだ!でも、声も姿も、どこにもないんだ…!全部、」

「…………っ、」

「全部、炎に焼かれて消えたんだ!!!」

劈くような、悲鳴のようなその声が突き刺さる。ガクンとへたり込む様にその場に崩れ落ちた。ポタリと零れ落ちたそれに、頭上を見上げても、ただ鈍色の空は夜明けを告げているだけだ。雨なんて、どこにも降っていない。俺にしか、降り注いでいない。空知らぬ雨が地面を濡らす。最後まで認めたくなかったその現実を、ゆっくりと心が理解していく。でも受け止めるなんてことは最後までできなくて、何度もそれを否定しては悉く自分の中でその可能性が潰されていく。

「兵助」

お頭の、押し殺したような静かな声が投げ掛けられる。涙で滲んだその姿をゆっくり振り仰げば、真っ直ぐに俺を見据えるその視線と鉢合った。一切の感情を消したその瞳から、たった一筋涙が零れ落ちる。重々しく開かれた口が、俺にまるで断罪のようにその事実を突きつけた。



「リョウは、死んだんだ」





”諦めなかったあんたは偉い、一人で頑張ったね”

「…リョウ、」

”本当は…兵助のこと、私もずっと好きだった”

「嫌だ、嫌だ…嫌だ嫌だ嫌だ…っ!!」

”約束だからね、兵助。この戦が終わったら、私は兵助と生きていく”

「…、いやだ…ぅあ…っ」

”兵助、必ず帰ってきて。兵助達の帰る場所は、私達がきっと守る”

「リョウが…いないんじゃ、意味がないじゃないか…っ!!」

”大丈夫、だって約束したでしょう”

「…………っ!!」



その笑顔が、声が、温かい掌が、遠ざかる。
もう、届かない。



”ここで、この城で、みんなの帰りを待ってる”



「…うぁあああぁあぁあぁああ…!!!!」



叶わなかった約束も彼女の亡骸すらも焼き尽くして、煙は空へと立ち上る。太陽は、それでも俺達に朝を告げるし、俺達は今日という日を過去にして、そして明日も明後日も、生きていく。何て、残酷で美しい世界だろう。巡る命の終わるその日まで、そしてきっとその先も、太陽はずっと変わらない。投げ掛けるその光も熱も姿も、例えば雲に隠れても夜の闇にその姿を隠しても、必ず朝はやってくるし太陽は昇る。

未来永劫、変わり果てたこの地上でも、それだけはきっと変わらない。


なぁ、神様。
いるなら聞いてくれないか。
神様、もう一度だけ。
もう一度だけでもいい。

どうか、
どうかもう一度出会わせてくれないか。
来世でもいい、あの世でだっていい。
天上だって地獄だって、どこだっていい。


ただ、約束を果たしたいだけなんだ。
あの笑顔にもう一度、俺は会いたいんだ。
好きなんだ、大好きなんだ。
この掌が、太陽に届かなくても。
あの優しい掌に届くなら、俺はそれがいい。
何度だって伸ばすから。
何度だって呼ぶから。
今度こそ、守るから。

約束も、その声も、魂も。



だから、俺の世界を、返してくれないか





そして世界が終わる







魂は、再び巡って、この世へ生まれる。白と黒の景色のまま、日常は過ぎ去っていく。この記憶が苦しくて、そして何度も過去の夢に苛まれる夜を経て、それでも白黒の世界でリョウを捜す。どこにいるかなんて、姿も何も分からない。太陽だけが昔と何一つ変わらずに頭上に昇って、そして沈んでいく。そして一日、一日と時は巡り、白黒の中で生きていく日々が、唐突に色付く。桜色の中で、振り返るその姿は、モノクロの景色の中で唯一鮮やかに俺の目を惹く。風がその声を拾い上げて、俺の元まで届かせる。太陽の光が涙で滲んで、目の前で弾けるように輝く。

その名前を呼んで、俺は駆け出す。
あの日追い付けなかった君へと、今度こそこの指先を伸ばすため。

あの日、俺の世界はもう一度息を吹き返した。


「リョウ!!」

「うへぇえ!?」



今度こそ、この約束に、結末を。





「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -