崩れ落ちそうになる身体を、何度も何度も奮い立たせて駆けた。白と黒ばかりが流れていくその景色の中で、まるで自分自身すらも飲み込まれそうな感覚に陥りながら、それでも色の無い景色の中を、俺の荒い呼吸だけが響いた。心臓の音が五月蝿い。帯びる熱は熱いのに、指先や身体の中心、そして脳髄はまるでひやりとするほどに冷え切っている。その先を見るのが、怖かった。お頭の背中を追いながら、俺は何度もそんな自分を叱咤して頭を無にした。

考えるな、最悪の状況を。
きっと大丈夫だ、
だって、約束したんだ。


白黒の景色に、やがて光の切れ間が見える。
城を一望できる、山の淵。
頬を緩やかに汗が流れ落ちていく。


今でも、俺はあの時のことを何度も何度も夢に見る。色褪せそうな時間の中で、それでもあの時の光景が目に焼きついて離れない。





それは、今の俺がある理由そのものなのかもしれない。







板張りの廊下を、俺は駆け抜けていた。慌てる子どもは廊下で転ぶなんて張り紙を尻目に、押さえ切れないぐらいの喜びと驚きを伴って、俺の足は前へ前へと進む。忍たま長屋を突っ切り、自分の部屋の障子を壊れそうな勢いで開け放った。

「勘ちゃん!」

「うわっ、びっくりした兵助…なにそんな息切らせて」

部屋に飛び込んだ瞬間、ごろごろと畳の上に寝そべっていた勘ちゃんが小さく飛び上がる。驚かせて申し訳ないと思いつつも、そんなことよりも俺の脳内を占めていたこの知らせに気を取られてしまう。興奮した心持のままに寝そべっていた勘ちゃんへ飛びつくように捲くし立てた。

「聞いてくれ勘ちゃん!」

「だ、だからなんだってば」

「就職先の城…俺、リョウと一緒だった!!」

喜びで上擦る俺の声が、部屋の中に木霊する。一瞬ぱちくりと目を丸くさせながら勘ちゃんは呆けていたが、やがてじわじわとその顔に笑みを浮かべて俺の肩を思い切り叩いた。

「やったじゃん兵助!」

「卒業してからもリョウと一緒なんて…、勘ちゃん俺嬉しくて泣きそう」

「ははは、男がそう簡単に泣くなよ兵助〜」

そう笑いながらからかい混じりの笑みを浮かべて、勘ちゃんは俺の肩を何度も叩く。勘ちゃんは、俺がどのくらいリョウのことをずっと思ってきたかを知ってる。そしてささやかながらずっと応援してくれた大切な大切な友人だ。リョウが、誰とも恋愛関係になるつもりがないことも承知だし、俺がそれでも諦められないことも、全部知ってる。知ってて、それでもずっと俺を応援してくれる。ゆったりと細められた勘ちゃんの両目が、俺を覗き込んだ。

「兵助、諦めるなよ。お前が諦めなければ、絶対届くから」

「…うん」


卒業間近、風に春の暖かさが混じり始め、生命が長い長い冬からようやく息吹こうとする春の始まり。それと同時にくのいちとして将来を有望視されたリョウを結局諦めきれず、ひたすらに思い続けた俺にとって何よりも希望に満ち溢れた始まりの日。そんな柔らく、穏やかなあの日を思い返すのが、今はひどく苦しい。

それは、俺にとって運命の歯車が回り始めた日だったのかもしれない。






「兵助!」

どんな雑踏でもその声だけを聞き分ける俺の耳に内心苦笑しながら、その声の主を振り返る。今までの見慣れた桃色の制服から闇に溶け込みそうな紺色の装束へ袖を通したリョウは、何処か別人のように見えた。けれど表情だけは昔からちっとも変わらず、相変わらずくるくるとよく変わる。軽い足取りで俺へと向かってくるリョウに向き直ると、リョウはへぇー!と声をあげながら、俺の頭から爪先を見回した。

「やっぱり、学生とは違うねー!本当に忍者って感じだよ兵助!」

「…あのな、俺達本当も何も忍者だからな」

「わかってるって!兵助大人っぽく見えるからつい」

ケラケラと楽しげに笑う様子に、何だかくすぐったさを覚えてしまうが誉められてるのだから悪い気はしない。

「それにしても兵助と同じ城に就職することになるとは思わなかった」

「俺も」

「ね、腐れ縁ってやつかな」

腐れ縁でも何でも、リョウと繋がっている縁なら何だって構わないと密かに思いながら、相変わらず笑っているリョウへそうかもなと相槌を返す。俺の言葉にリョウは嬉しそうに一瞬瞳を細めて笑みを深くして見せた。しかしやがて眉を寄せ、その表情が僅かに曇ってしまう。

「でも、兵助にはなるべく見て欲しくなかった気がする」

「……何を?」

「私が、くのいちだってところ」

リョウの言葉に、一瞬冷水を浴びせられたように鳩尾が冷えて、息が止まりそうになる。リョウの言葉の意味することは、くのいちではない俺にだって分かる。くのいちは色を以ってして情報や暗殺を行う女の忍者だ。そのためには自分自身の身体を使う。リョウはつまり、俺にくのいちの自分を見られたくは無かったと言っているのだ。

唇が戦慄きそうで、うまく言葉を綴れなかった。実際を言えば、そんなの俺だって嫌だ。その時の自分が冷静に動けるのかすら考えられないし、忍務だってまともに行えるのか危うい。六年も忍術学園で学んできて何を今更と言われても仕方がないが、こればっかりはどうしようもないのだ。俺は、リョウのこととなると冷静さというものを何処かへ忘れてきてしまうのだから。


一番最初にそのことを身に沁みたのは、卒業後のリョウとの初忍務の時のことだった。知りもしない男がリョウの肌に触れるのを見ただけで、もう頭の中が沸騰しそうになった。目も、耳も、何もかもを覆ってしまいたくなる。くのいちなんて、やめてくれ。そう叫びだしたくなる自分自身を必死で留めた。それを言ってしまうのは、俺はリョウの誇りを傷付けてしまうこと以外の何でもない。だから、必死で頭の中を真っ白にして、何も考えないようにして俺は掌を真っ赤に染めた。

ぼんやりと突っ立ったままの俺の掌を、リョウがゆっくり握り締めた。体温がなくなるように冷えて感覚のない指先が、じんわりとリョウの熱に溶けていく。その瞬間にポタリとリョウの掌から零れ落ちた雫は、俺の掌から零れ落ちたそれと同様に真っ赤だった。リョウの掌が赤に染まる。けれどもリョウはそれを厭うでもなく、ただ強くしっかりと俺の掌を握り締めて、そっと笑ってくれる。新月の夜でも一寸先も見えないようなどんな暗闇でも、俺にとっては眩しい太陽のようだった。ずっとずっと昔、同じように俺へと手を差し伸べてくれたあの時のように。変わっていく色々なものの中で、それでも変わらないものがリョウの中にこうして残っている。この温もりがこうして隣にいてくれるなら、俺はそれ以上を望むべきじゃない。初めての忍務の日、俺はひっそりと自分自身の感情に蓋をした。



それから幾度目かの季節は流れて、俺もリョウも戦国乱世と呼ばれるあの時代を必死に生きた。俺がリョウに心のうちを伝えることもなかったし、相変わらず関係は何も変わらなかったけれど。それでも、リョウはあの時もずっと俺の隣で生きていた。時々冷静さを欠いてしまう俺を諌めながら、それでも隣で笑ってくれるあの日々が、俺にとっては何よりの幸せだった。




魂に焼き付いた記憶が、まるで映写機のようにぐるぐると時を巡る。既に何百回と見続けたこの夢だけが、俺と過去を繋ぐ唯一の架け橋だ。

まるで、忘れるなと言うように。





「リョウが、好きだ」

溢れる感情が、そのまま言葉になって口から零れ落ちた。俺のその一言に、ゆっくりとリョウが目を見開き、一瞬泣きそうに顔を歪める。その表情にぎゅうと胸が締め付けられるように痛むけれど、リョウの唇が何度も音を紡ごうとする様子をただひたすらに祈るような気持ちで見つめる。俺の背中をそっと押したお頭の言葉が脳内に蘇って、何度も俯きたくなるような俺の心を浮上させた。ずっと隠し続けてきた思いが、まるで堰を切ったかのように止まらない。好きで、好きで好きで好きでどうしようもなかった。諦め切れなくて、でも傍にいてほしくて、だから何も言えなくて。そんな卑怯で臆病な俺を真っ直ぐにリョウが見つめ返す。

「本当は…兵助のこと、私もずっと好きだった」

こぼれ落ちたその言葉に、ゆっくりと俺の両目が見開く。リョウの掌に力が込められ、俺の掌をしっかりと握り返した。言葉が詰まって、何も言えなかった。それは、ずっと諦め続けていた言葉だった。聞くのが怖くて、けれどリョウの口から聞きたくて、何度も何度も切望した感情だった。太陽の光が、柔らかく世界を照らす。

「でも、私はくのいちだから…普通の女の子が憧れるような幸せなんて、夢のまた夢だと思ってた。だから諦めようとしたの。兵助が好きだって気持ちに蓋をして、傍にいられるだけでいいってそう納得してたの」

あぁ、同じだったんだ。心の中でそう呟きながらリョウを見つめ返す。俺とリョウは同じ平行線の上で逆方向を見つめているかのように、同じ感情の元にすれ違い続けていた。それなら、リョウ自身の気持ちはどうなのだろう。例えば逆方向を見つめていたのだとしても、同じ感情の元にあるのなら、きっと辿りつく結論だって同じはずだ。俺達は、自分の感情を殺しすぎた。苦しいともがいていた俺自身が息を吹き返す。

俺は、リョウが好きだ。
例えばどんなにリョウがその手も身も汚したんだとしても、心が綺麗だってことを俺は知っている。この掌がどれだけ温かくて優しいかを俺は知っている。

「だから、一つ俺と約束をしてくれ」

「約束?」

俺にとっての太陽は、リョウ
この掌を、もう離したくはないんだ。



「この戦が終わったら、夫婦になろう」



俺の言葉に、リョウはその表情に驚きを滲ませながら目を見開く。断られたら、どうしようか。けれど同じ感情がそこにあると知ったならもう諦めることはできない。リョウの掌を離さないように握り締めて、リョウの表情を覗き込む。どうか、頷いてくれ。そう思っていた俺に反して、リョウの瞳からぽろりと一筋涙が零れ落ちた。

「……リョウ、?」

「あれ、…やだ、ごめん兵助」

「…リョウ、もしかして…嫌だった?」

予想外の涙に、繋いでいた手をパッと離してその涙に濡れた頬に手を伸ばす。どうしたらいいのだろうと焦る心と、ズキリと音を立てるような胸の痛みを隠しつつ、震える指先がその涙を拭う。けれど、やがてリョウは涙を流しながらくすくすと嬉しそうに笑った。その表情に、呆気に取られたその一瞬だった。リョウが俺の腕の中へと思い切り飛び込んでくる。ぐらついた身体をどうにか支えながら、腕の中の体温にまるで夢じゃないかと一瞬疑った。リョウの腕が、俺の背中へ回ってぎゅうと抱きしめられる。ああ、夢じゃない。ずっと求めてた温もりが、リョウが、ようやく今ここにいる。情けなくも震える掌が、同じようにリョウを抱きしめ返す。涙が出そうなほど幸せだった。戦乱の世に生きているなんて、まるで嘘だと思えるほどに俺は幸せすぎた。

約束を交わす。
二人で生きていこうという約束を。
永遠に離れない約束を。

腕の中のこの温もりを、決して失わないように。




ある時は、二人で城下へ出掛けた。
真朱の玉飾りの付いた簪を贈ると、少し照れくさそうに微笑んでいた。ある時は、二人で夜の闇を駆けた。
学生の時みたいだねと笑うリョウに俺も笑い返した。

ある時は、二人で隠れながらずっと一緒にいた。
多分お頭にはばれていたけれど、お頭も笑っていた。

まるでそれまでの時間を取り戻すように俺はリョウとの時間を過ごしていた。醒めて欲しくないその夢は、いつか壊れるんじゃないかという俺の不安を余所に日々の形を変えながら俺とリョウを通り抜けていく。だから、ずっとこのまま続くんだと思っていた。待っていると、そう真っ直ぐ俺へと返したリョウの指先を、最後に握り締めてゆっくり離した。あの時、離れなければ一体どういう結果が待っていたのだろう。あの時浮かべたリョウの笑顔が遠い。今考えても仕方の無いことかもしれないけれど、俺は何度も何度もその時を思い返しては崩れ落ちそうになる。


リョウ達城の者と別れ、七方出へと扮して敵国へ向かう。この戦が終われば、リョウと祝言を挙げる。逸る気持ちを押さえながら、しかしそれでも決して油断しないように、気を張り詰めながら敵国へ潜入するためにいくつかの山を越えた。城を出てから数日後、お頭達と闇に乗じて敵国へ奇襲を掛ける。きっとそのうち城から遅れて出発した兵士達も到着する頃だろう。そうしたら畳み掛けるように城を攻めればいい。そうすれば、戦は終わる。そうしたらリョウに会える。



城へと攻め込んだその夜、城からの知らせがお頭の下へと届く。鷹の足に括りつけられたそれを開きながら、お頭はざぁっと顔を青くする。なんだなんだとお頭を見つめる俺達を見回しながら、そのいつもの柔和な笑みが消え去った無表情なお頭が、呆然と俺達へと言葉を紡いだ。


それは、俺達の城が別の国に攻め込まれたという凶報だった。





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