例えるなら、俺は大地で君は空。
例えるなら、俺は火で君は水。

届かないと分かっていても、俺は何度もその掌を空へと伸ばす。空はそんな大地を見下ろしながら、時折優しく涙を流す。そして、俺の中で燻るこの火が燃え広がらないように彼女の穏やかな流水のような言葉が、浸食を許さないと言うかのようにいつだって俺のその思いを殺させる。だからこうして、俺はただ彼女に恋焦がれるようにひたすらに胸に焼きついたこの思いを、辿ることしかできないのだ。


くのいち教室五年、佐々木リョウ
”くのいちに恋心は不要なのだ”と、

五度目の春、彼女は笑ってそう言った。





「兵助!」

桜の舞う、五年目の春の季節のことだった。呼び声に振り返れば、それより早く俺の後ろ首へガシッと衝撃が加わる。思わず前のめりになりかけたところを寸でのところで踏ん張り、勢いも考えずに肩を組んできたその人物を睨み上げた。

「…三郎、勢いってもんを考えろ」

「悪い悪い、それより兵助聞いたぞ!」

ちっとも悪びれた風もない三郎に俺は仕方なく諦めると、にんまりと意地の悪い笑みを浮かべた三郎に俺は何故か背筋を冷たいものが走るような嫌な予感がしていた。

「お前、同級生のくのいちの色実習の誘い、断ったんだってな」

嫌な予感が的中したとでも言うべきか、三郎の言葉に俺は一瞬頭が真っ白になり掛けるが、次の瞬間引っ掴むようにして三郎の胸倉を引き寄せた。

「ななっ…なんでお前がそんなこと知ってるんだ!?」

「噂だよ噂、女の情報網ってのは怖ぇよなー。一瞬で広がるんだからな」

ケラケラと三郎は可笑しそうに笑っているが、俺にとっては笑い事ではない。女の情報網ってことは恐らく情報源はくのいちなのだろう。ということはこの話は、くのいちでは既に周知の事実ということだ。さぁっと無意識に俺は血の気が引いていくのを感じた。くのいちに広がるということは、彼女の耳にも届いた可能性が高いということだ。

「それにしても兵助、私は感心したぞ」

「な…何が、」

「お前、本当にあいつのこと好きだよなぁ」

ピッと三郎の指し示すその指の先へと俺は視線を走らせる。その姿を見つけたその瞬間、体中を甘い痺れが駆け抜けるように体中が硬直して、血液が逆流するかのように熱くなる。俺の中の燻っていた火が燃え広がるようだ。くのいち教室五年の佐々木リョウ、名前をこうして心の中で呟くだけでもう苦しくて堪らなくなるのだから俺は重症かもしれない。けれど目がどうしても追ってしまう。走り出したいようなこの感情を、押し留めるのはいつも彼女のあの言葉だった。将来有望なくのいちであるリョウは、誰とも恋には落ちないのだそうだ。

そんな彼女に出会ったのは、かれこれ一度目の春のことだった。






丸く切り取られた青空を見上げながら、俺は途方に暮れていた。まるで鼓動のようにズキリと痛む足へどうにか体重を掛けないようにこの土壁へと手を掛けてみるが脆く崩れるばかりで一向に這い上がれる気はしない。一年目の春、忍術のいろはのいすら習ってもいない俺は、この蛸壺へ落ちて足まで捻挫という状況をどう打開するべきか困り果てていた。助けはさっきから何度も呼び続けたせいで、声も掠れる様に嗄れ始めている。自分の土汚れた掌と真新しかった装束を見下ろして、溜息を付く。入学早々とんだ災難だ。あの不運だと呼ばれる保健委員でもなんでもないというのに、この運の悪さは一体どうしたことだろう。確かにここは人気のない場所だったし、落ちた時も周りに誰もいなかったこともよく覚えてる。だからと言って、ここまで誰の助けも来ないとなると次第に胸に不安が降り積もってくるのだった。このまま誰も来なかったら、なんてそんなもしものことばかりぐるぐると考えては精神的にも体力的にも追い詰められていく。泣くなんて体力の無駄だということは当時の俺でも理解していたらしく、泣くまいと唇を噛み締めてはいたが、そろそろそれも限界だ。頭上で太陽が輝いているらしく、穴の中へも煌々とした光を差し伸べている。穴の中へ落ちた自分自身の影を見つめながら、そんなに遠くから見守るくらいなら助けを呼んできてくれればいいのにと、どうしようもない事をぼんやり考えていた、次の瞬間だった。

”何か声がすると思ったら、こんなとこにいた”

サッと俺の頭上に影が掛かり思わず振り仰ぐ。太陽を背に穴の中を覗き込む誰かの姿に、俺は眩しさのあまり思わず目を眇めた。降り注ぐ光を一身に受けて、同い年らしいくのいち教室の制服を身に纏った”彼女”は、穴の上から俺を覗き込んでいた。途端に、俺の中で堪えていた何かが決壊する。

”穴に落ちて…足捻って登れない”

”……うん”

”たすけて”

ポロポロと零れ落ちる言葉に比例するかのように、俺の瞳からもボロボロ涙が零れ落ちた。そんな俺に彼女は一瞬ギョッとした顔をしてみせるけど、すぐさま視線を一巡りさせて思案するような表情を浮かべた。

”足、捻ってるの?”

”うん”

”立てそう?”

”…片足でなら”

”そっか…”

眉を寄せて、少しばかり困ったような表情を浮かべる彼女に、俺の中で一瞬浮上した気持ちが再び暗雲に捉われる。まさか見捨てられはしないだろうか。先輩も友人も、くのいちは恐ろしいと言っていた。くのいちである彼女もまた、あっさりと俺のことを見捨ててどこかへ行ってしまうということも考えられる。ざわざわと胸を浸食していく不安に、俺の涙はますます留まることを知らずに溢れるのだった。

”多分、私一人じゃあんたのこと引き上げられない”

”え、”

予感が的中と言うのか、想像していた通りの返答に思わず俺は顔を歪める。その時、余りにも俺が情けない顔をしていたのだろう。少しばかり苦笑を向けた後、強くて真っ直ぐな視線を俺に向けて彼女はこう言った。

”だから、誰か助けを呼んでくる”

”…本当に?”

”必ず助ける、約束する。だから待ってて”

力強いその言葉と眼差しに、沈んだ気持ちが再び浮上する。頭上で輝く太陽が彼女の後ろで光を降り注ぐ。一縷の希望である彼女へと、俺は無意識にこの掌を伸ばしていた。土で汚れた掌を太陽へ翳して、彼女を見つめ返す。彼女はぎりぎりまで穴へ手を伸ばすと、僅かに触れた俺の指先を土で汚れるのすら構わずに、ぎゅうっと握り締めた。

”諦めなかったあんたは偉い、一人で頑張ったね”

そうして笑う。
太陽のように。
繋がった掌が熱い。
太陽のように。
その言葉が、声が、眼差しが。
俺に温もりを、強さを、優しさを惜しみなく分け与える。



まるで、太陽のように。





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