あれからひと月の歳月が流れた。 リョウと兵助の得た情報を元に、準備は滞りなく進められ、作戦が練られた。忍頭率いる数人の忍者が七方出に扮して敵国へ潜入し、先行して奇襲を掛けるというものだ。身の軽い忍ならば、兵士達よりも早く仕掛けることが出来る。そこへ遅れて到着した兵が畳み掛けるようにして制圧。そのために、兵助を含めた一部の忍は奇襲が予定される日の少し前である本日早朝、この城を発つこととなる。 「留守は任せたぞ、殿達を守れよ」 「お頭も、お気をつけて」 商人へと扮している頭へリョウは力強く微笑む。満足そうに頷き返し、頭は他の忍達へと声を掛けて回った。そんな様子を眺めていると、ふと傍らに気配を感じて振り返る。 「兵助」 山伏の格好に身を包んだ兵助が、どこか硬い表情でリョウを見つめる。当たり前だ、これから戦を仕掛けに行くのだから。兵助だって、緊張したり不安になったり、するに決まってる。ふ、とリョウは柔らかく微笑み、兵助の頬へ手を伸ばす。 「兵助、必ず帰ってきて。兵助達の帰ってくる場所は、私達がきっと守る」 「リョウ…」 「大丈夫、だって約束したでしょう」 この戦が終われば、夫婦になろう。 ひと月前に交わした約束は、今もこうして希望になっている。リョウの言葉に、兵助は一度だけゆっくり目を伏せてそして顔を上げた。頬に添えられたリョウの掌を握り締める。そしてそのまま唐突にリョウを引き寄せて腕の中へ閉じ込めた。 「っわ…!?」 「必ず帰るよ、リョウの隣に」 ぎゅうっと兵助の胸に押し付けられ、思わずリョウの顔に血が上る。耳に兵助の心音が響く。しどろもどろになりながら、どうにか「う…うん」と返事を返せば、満面の笑みを浮かべた兵助が顔を覗き込んだ。 「お頭!!」 抱きしめながら兵助が突然に大声でそう叫ぶ。何事かと固まっていれば、するりと兵助の指先が頬を撫でて顔を上げさせられた。え?え?と戸惑うも一瞬、唇の柔らかい感触と視界いっぱいに広がった兵助の顔にリョウの思考が停止した。 「…――――っ!??」 無意識にリョウの手が兵助の装束をきつく握り締める。周りから囃したてる様な声が沸く。思い返してみればここにはこの城中の忍が集まっているのだ。理解した途端に顔から火が出そうになったリョウは、兵助を離そうとするも力が入らない。恥ずかしくて、けれどそれ以上に幸せで、堪らなくなってぎゅうっと堅く目を瞑る。視界を閉ざす寸前、頭の穏やかに笑った顔が見えた気がした。 「ぅ、っはぁ……」 ようやく解放されて文句を言ってやろうとするが、ぱくぱくと唇は戦慄くばかりで言葉が出てこない。口付けだけでこんな目に遭わされるなんて、くのいち失格じゃないのか。兵助に縋り付くようにしてやっと立っている自分に、リョウは何だか穴があったら入りたい気持ちでいっぱいになった。 「やるなぁー兵助〜!」 「見せつけてんじゃねぇ〜!」 周りの声にますます赤面していくのが分かる。場所を考えなさいよあんた!そう言ってやろうかとリョウが口を開いた矢先である。視界が突然大きく揺れて、文句よりも先に飛び出したのは「うわぁ!?」という情けない叫び声だった。 「ちょ、ちょちょ…兵助ぇぇ!??」 抱き上げられて不安定になる身体を支えるために、無意識で兵助の首に飛びつく。何やら晴々とした表情のまま、兵助は頭へと視線を向けた。辺りは笑いに満ちている。頭は笑い皺の特徴的な目元を緩ませて、幸せそうな表情でこう叫んだ。 「帰ったら、みんなで兵助とリョウの祝言を挙げるぞ!!」 頭の言葉に、周囲がわっと歓声を上げる。死地へと向かう者、居場所を守る者、全てが幸せそうに笑いあう。戦乱の世とは掛け離れた光景がここに広がっている。誰もが幸せを祈る、泰平の世とは斯くも美しき世界だろうか。晴れ渡る早朝の空に、明けの明星が輝いた。 「必ず生きて帰れよ、出発だ!!」 「おお!!」 鋭く響く戦の火蓋の掛け声が、城に満ちる。ゆっくりと地面へと兵助はリョウを下ろし、両手で掌を握り締めた。 「ったく…時と場所を考えなさいよね」 「うん、ごめん…でもやっぱりしばらくリョウに会えないと思ったら、つい」 「ここで、この城で、みんなの帰りを待ってる」 触れるだけの口付けを交わして、力強く互いの瞳を見つめて笑いあった。 「ご武運を」 「……行ってくる」 繋いだ指先が、縺れて、やがて離れる。小さくなっていく人影を目に焼き付けて、リョウは祈るように瞳を閉じた。 どうか、どうかどうか皆が無事に帰ってきますように。帰って来るべきこの場所は、私達が必ず守るから。 やがて太陽が、東の空を染め上げるように昇る。真っ赤な朝焼けが炎のように揺らめいた。 花に風 兵助達が敵国へと攻め込んだその夜、彼らの城は炎に包まれた。たった一つの願いすらも、焼き尽くしながら。 ← |