「…大丈夫ですか」

「あ…、」

壁に背を預け、呆然とこちらを向いた瞳は困惑の色に揺れている。やがてか細い声で小さく、はいと呟かれた。そう呟いた彼女の指先へ目を向ければ、真っ白になるほどに握り締められ小刻みに震えている。私はゆっくりと瞑目し、溜め息を吐き出した。

「怖かったのなら素直にそう言っていいですよ」

私の言葉に、弾かれたように天城さんは顔を上げる。見開かれた瞳が私を映し出し、じんわりと瞳の端に涙が溜まる。潤んだそれが幾度か瞬けば、やがて溢れるように零れ落ちた。

「リョウ、さん…」

「………………」

「…こ、怖かった…だって、まさか…あんなこと思われてるなんて…殺したい程、憎まれてるなんて…思わなかったの…っ」

ポロポロ唇から零れる言葉は、取り留めもない彼女の感情だろう。不安、恐怖、理解できない敵意、天城さんの胸の内にそれらが渦を巻いている。そう、彼女は知らなかった。敵意も殺意も、向けられるようなことが今までない世界で生きてきたのだ。誰かがいつも庇護してくれて、綺麗な心のままで生きていけばそれで良かった。穢れを知らない彼女を、だから私達は天女と呼び、崇めて守って、そして妬むのだ。

「…天城さんは、くのいちがどういう生き物かを知っていますか」

唐突な問い掛けだった。私の言葉に、キョトンと首を傾げると、おずおずと言葉を発した。

「女の子の、忍者とは違うんですか?」

「それもある意味正解です。しかし私達は忍者とは使う忍術が異なります」

「え、そうなの?」

「私達は、"色"を使います」

「……色?」

確かめるように返した天城さんへ、悠然と微笑み返す。カサリと風が地面の落ち葉を巻き上げ、どこかへ連れて行く。

「色と云うのは、疚しい心や本能、つまり欲です。それを自分自身の身体を使って掻き立て利用し、手玉に取って忍務を行うのが、私達くのいちの忍術なのです」

「…だって、それって…」

天城さんの顔が驚愕に染まる。私へと無意識に走らせたであろう視線が頭頂から爪先を舐める。その後に浮かんだ悲痛な面持ちに嘲笑を返しながら、天城さんを覗き込む。

「汚らわしいと、軽蔑しますか?」

「……そんなことっ…!」

「けれど、それがくのいちなのです」

その言葉と共に天城さんを真っ直ぐ見据えると、僅かに怯えたように顔を歪める。私の瞳が、さっきの彼女達を彷彿させるのだろう。青褪めたその表情を一瞥し、スッと表情を緩めて彼女へ微笑む。

「あの子達を、どうか憎まないでやってください」

「え、…?」

「この学園には止むを得ない事情でこの道へ進んだ子が多くいます。男に媚びて、愛の言葉を容易く売り、自分の心を殺して体を張って忍ぶ。そんな、女として屈辱的なくのいちという将来を恥じた子達は、綺麗なあなたに嫉妬するしかないのです」

くのいちの特性は色の術だ。腕力も体力も男には劣る女忍者にとってはそれが切り札であり、そして男への唯一の対抗手段。くのいちだって骨法術や剣術、遁術等基本である忍術は習うが、それでもやはり男には敵わない。だから、色とそれらを組み合わせて打ち勝つのである。それを恥じるなんて、私達上級生にはあるまじきこと。

うっすら、天城さんの瞳に涙の膜が張っている。同情的なその表情は、恐らく敵意を向けたあの子達へなのであろう。そして、恐らくくのいちという生き物に対しての。彼女の、無意識下の同情の念だ。

「…あの子達も、女の子だものね…辛いに決まってる…」

「………………」

「…リョウさんは、辛くは無いの?」

天城さんの問い掛けに一瞬虚を突かれるが、ふと笑い飛ばして足元に転がる苦無を拾い上げる。恐らくさっきの後輩が落としたものだろう。よく手入れされたそれを眺めながら、表面に鈍く写る自分自身を覗き込んだ。

「辛いなんて思ってたら、今ここにいませんよ」

私ももう十五だ。武家や公家の娘ならとっくにどこかに嫁がされてるだろうし、ややの一人を孕んでいてもおかしくはない。けれど、そんなのは私には関わりの無い話だ。私は初めから最後までくのいちとして生きて、そして死んでいくつもりだ。この生き方を恥じたことなど一度もないし、私にとっては誇りだ。辛いと思う心も感情も、それを上回る何かにいつも掻き消されてしまっていた。だから、私はここにいる。

「天城さん、今日のことはどうか忍たまには内密に」

「う、うん」

「忍たまにいらぬ心配を掛けるのも、それを元にあの後輩達と諍ってもいけませんから。それに…あの子達も好いていた男に恨まれるのは辛いでしょうから」

「…うん、分かってる」

指先を立てて唇に当て瞳を細めれば、理解したのか天城さんも柔らかく微笑んで返す。私が口にしたのは建て前で、本音はこのことをあまり大事にするのはこちらの不利を公表しているようなものだからという理由だ。『天城鈴』というあいつらにとって絶対的な存在を逆手に取られて、敵討ちなんて大義名分を振り翳されたらそれこそこちらの分が悪い。しかし彼女が私達を非だと言わない限り、あいつらは手の出しようがないのだから。葬るのならば、綺麗さっぱり跡も残らず誰がやったかも分からずまるで神隠しのように。それはきっと、まだ下級生の彼女達には無理な話だ。

「リョウさん、それってさっきの…」

「ああ、苦無ですか?」

ぽんと手の上で弾いて、興味深そうにそれを見つめる天城さんへ刀身を向ける。さっきまで自分に向けられていた得物をそんな風に見れるとは、彼女も案外図太いのかもしれない。

「わぁ…すごい、よく切れる?」

「まぁ、刃物ですし…これはよく研いで手入れされてありますからね」

「ちょ、ちょっとだけ持ってみてもいい…?」

彼女の申し出に一瞬虚を突かれる。まさか自分から触ってみたいと言い出すとは、内心驚きながらも刃の部分には決して触らないように告げて彼女へ苦無を手渡す。わぁー、現代にいたときからちょっと触ってみたかったのー!とよくわけの分からない歓声を上げながら、天城さんは掌に苦無を受け取る。

「わぁ、小さいけど結構重いんだねー」

「小さくても鉄ですから」

「これ、ちゃんと当てたいところに当てれるの?」

「鍛錬次第でしょうか」

「ふふ、リョウさん文次郎君みたいなこと言うのね」

「………………」

頭の中を奇声を発しながら駆け抜けてくギンギン男が横切り、私の顔は全力で引きつった。あれと一緒ってのは、ちょっと心外だ。バレないように漏らした溜息にも気付かず、天城さんは投げるフリや刀身をしげしげと見つめたりしている。そういえば、と懐の金槌の存在にようやく気付く。ああ、そういえば私これを渡すっていう理由でこんなとこに来たんだった。すっかり本来の目的を忘れていたと、意識が金槌に向いていたその時だった。

「っ痛…!」

小さく響いた悲鳴に、パッと意識を引き戻される。カランと乾いた音がして、地面に苦無が転がる。天城さんは指先を押さえながら、顔を歪めていた。だから気をつけろと言ったのに。

「切りましたか?」

「うう〜…痛い〜…」

「ああもう、見せてください。ああ、結構深く切りましたね…保健室に、」


「…そこで何をしてんだ…っ!」


押し殺したような殺気と声に、その場の空気が冷えるように下がる。視線を走らせれば、そこに立っていたのは怒りに肩を震わせた用具委員長、食満留三郎だった。はぁ、と若干のややこしさに思わず溜息をつく。地面に転がった天城さんの血で濡れている苦無を拾い上げ、ゆっくりと食満へと向き直る。真っ直ぐ視線を向ければ、相手を睨み殺しそうな勢いで食満が見つめ返していた。ちょうどいいから、この金槌も渡しておこうか。

「…てめぇ、リョウ…絶対許さねぇぞ」

何を許さないのか、というか事情を知りもし無いくせにいきなり激怒とはとんだお笑い種だ。こんな面倒くさいことにならないようにって、後輩をさっさと引き上げさせたのに。私が引っかかるなんて、何たる不覚。

どいつもこいつも、忍者としての冷静な判断を一体どこへ置いてきた。私は逆にそっちの方が同じ忍術を学ぶ身として腹立たしい。背後で天城さんが私と食満の一触即発な雰囲気に息を呑む音が聞こえる。きんと張り詰めた空気がその場を満たした。私も無意識に身構える。武闘派らしい食満とやりあうのは正直疲れそうだから私としては穏便に片付けたいところだが。まぁ、相手の出方次第というこうか。


だから私は以前お前に言ったんだ。
この浅慮の愚か者め。




壇上の愚者





踊らされるは主か己か。





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