「そうです、ゆっくり力を抜いて…いいですその調子」

白紙の上を滑らかな漆黒の墨が走っていく。筆を握り締める白魚のような手はどうにもたどたどしい様子が覗えるが、しっかりと字面を見据える真剣な瞳には好感が持てる。最後のとめまできっちりと終えると、天城さんはようやく詰めていた息を吐き出した。

「っはぁ…緊張しちゃった…」

「お疲れ様です、お上手ですよ」

「ほ、本当!?」

途端にぱぁっと顔を明るくして見せる天城さんへ私も頷いてみせる。少々不恰好なところはあるが、天城さんらしい丁寧な書体だ。白い半紙へと書かれた『忍』という字に目を落としながら、私は墨を顔のそこ彼処に付けて笑う天城さんの頬へ手を伸ばした。

「墨、付いてますよ」

すうっとなぞる様にその白磁のように滑らかな頬を指先で擦れば、天城さんが驚いたようにその場所を掌で探る。本当はそこだけじゃなくて他にも付いているのだけど…というか習字をしただけでここまで墨を顔に付けるって彼女は本当に筆の扱いと言うものには慣れていないらしい。

「ちょっと顔洗ってこようかな…」

「それがいいですよ、他にもたくさん付いてますから」

「ええ!?恥ずかしいなぁもう…ちょっと待っててね!」

恥ずかしそうに早足で井戸へと向かう天城さんの姿を見送りながら、再度天城さんの手習いの数々へ目を遣る。『忍』に『卵』、それから『くノ一』私が手本を書いて、それを見本に天城さんが習字をする。天城さんのそれを手にとって、綺麗に折りたたんで懐へ仕舞い込む。もしかしたら高値で売れたりするかもしれない。天城さんが書いたと言えば買い付ける馬鹿がいるかもしれない。その辺は一年の敏腕アルバイターに相談してみるか。

「……あんまり恨めしそうな視線で私を見るな、七松に平」

背中へ突き刺さる視線の主へ向かって、そう呟く。隠れているつもりは恐らく微塵もなかったであろう七松と隠れていたつもりらしかった平の慌てた声が背後から響いた。

「ちょ、ば、バレバレじゃないですか七松先輩…!」

「そこの隠れるつもりが微塵もない男のせいだからそう慌てるな、平」

「く、くのいち二大双璧…佐々木リョウ先輩、!」

チラリと視線を向ければ、びくっと小さく飛び上がったように身を竦ませている。まるで人を化け物か何かのように怖がられても困るんだけども…。私自身は特に平に被害はまだ与えていないつもりだけど、噂が一人歩きしているのかはたまた例の悪名高き女王様のお陰なのか、初対面の忍たま相手にビビられることもそう少なくはない。まぁ、そんなことはどうでもいいことである。

「なんだ七松、言いたいことがあるならハッキリ言え」

「じゃあ言わせてもらう!」

「な、七松先輩…!」

「早く言え、私は忙しい」

「リョウばかりずるいぞ!私も鈴さんに手習いしたい!!」

隠す様子もなくスッパリ言い切った七松の横で、平は頭を抱えている。まぁそう言うだろうとは思っていたが、そんなことで私と天城さんの様子をじっくり監視されてたんじゃくだらなすぎてもういっそ溜息が零れた。

「お前には無理」

「何故だ!」

「字が汚い、七松の字ならまだ天城さんの方が丁寧だ。そんな相手に一体何習うっていうんだ…勢いの良さか?」

「それなら負けないぞ!」

「確かに勢いの良さが大事なこともあるが、お前の場合は無意味だ阿呆」

そう言い捨てて、さっさと硯や筆を片付けに取り掛かる。背後で七松が何かを言い返そうとうんうん言っているが、傍で宥めている後輩の為にもそろそろ切り上げた方がいいと思う。


そもそも、何故私が天城さんの手習いなんぞ教えているのかと言えば、筆を習いたいと言う天城さんの一言から始まったのである。その一言に、当然の如く我こそはと忍たま共は名乗りをあげる。普段字なんぞまともに書きもしないだろう男達までもがこぞって天城さんの手習いの先生、またの名を二人きりの時間と言う甘い蜜を吸える役得を巡って競うことは目に明らかだった。目を爛々と輝かせた男達に迫られた天城さんも、これには困り果てて、そこを通りかかったシナ先生に助けを求めた。群がる忍たま共を牽制しつつ、天城さんから騒ぎの一連の流れを聞きつけるとまずシナ先生はそこを偶然通りかかったあの氷の女王へ声を掛けたらしい。シナ先生は頼む相手を間違えている。当然の如くさわやかな笑顔で、「すみません先生、私これから用事があって…そういえばリョウが教室にいましたよ。彼女は字も上手だし教え方も丁寧で良いと後輩が以前言ってましたので打って付けかと思いますが」と見事に私へ面倒を押し付けて颯爽と去っていったそうだ。ちなみに後輩へ書の手習いをしたことなど私は一度もない。やりやがったあの女。教室でせっせと掃除をこなしていた私はシナ先生から命を受け、こうして手習いをすることになったというわけである。私も誰かに押し付ければよかったと思ったが、シナ先生のあの有無言わさない笑顔を断れる猛者は氷の女王くらいだろう。

「下級生には勝ったから、後は六年同士で決着を付けるだけだったのに…横からまさかリョウに掻っ攫われるとは思わなかったぞ」

「私だってまさか自分がこんな羽目になるとは思ってなかったさ。大体お前ら六年の癖して大人気ない…下級生には勝ったって当たり前じゃないか馬鹿だろう、なぁ平」

「え、いや…ええと!?」

恐らく平も名乗りを上げた一人なのだろうが、七松の表情をチラチラ覗いながら言い難そうに口ごもっている。まぁ七松はそんなこと気にも留めていないんだろうが。相変わらず男はどうしようもないということだ。こんな愚かな男ばかりだと私たちくのいちはとっても任務を遂行しやすいからこのまま腑抜けでいてくれてもこちらは一向に構わないけれども。

「ところで平は、書は得意か?」

ふとうろたえた様子のままだった平へそう尋ねる。私の問いにキョトンと一瞬目を瞬かせていたが、次の瞬間たちまち今までが嘘だったかのように自信に満ち溢れた表情へ変わる。

「当然です!この平滝夜叉丸、千輪を使わせても超一流ですが書の道に関してはリョウ先輩には決して引けは取らないと自負しております!そうは言うのもこの何をやらせても忍術学園ナンバーワンの腕前を誇る私ですが、手習いに関してはぐだぐだぐだ」

「そうか、じゃあ一筆書いてみろ」

「…へ?」

はい、と筆を手渡して半紙を揃えて平の前へと並べる。状況がよく分かっていないのか筆を持ったままぽかんとしている平へ視線だけで半紙へ向かうように促す。恐る恐るといった様子で半紙の前へ座り込むと、窺わし気に私を見上げた。

「あの…何を書けと」

「好きな文字」

「そうざっくり言われましても…」

「いいよ、そんな気張らなくて。自分の心に浮かんだ一文字を書いて見せて」

「はぁ…」

「リョウ!私も書きたい!」

「七松お前は外の地面にでも木の棒で書いてこい」

「ひどい!」

ぎゃあぎゃあうるさい七松をいなして、戸惑う平へと視線を向ける。筆を持ちつつ困り果てた様子も見せていたがそのうち腹でも括ったのか筆先を墨へ浸して半紙へとゆっくり滑らせた。迷いなく美しい一文字が半紙を横切る。確かに口ばかりペラペラ驕っていただけでなく実際に書も心得があるらしい。丁寧に、しかし思い切りよく筆が流れる。七松も感心したようにほうと覗き込む。最後のはらいまで気を抜くことなくゆっくり筆が紙面を離れる。『美』の一文字が何とも平らしいとも言えるが、文句なしに美しい。

「い、如何でしょう!」

「ほおー、上手じゃないか滝夜叉丸!」

「確かにいい字だな」

誉められたのが嬉しいのか何なのか、そうでしょうそうでしょうと鼻高々に平は満足そうにしている。そこへ、パタパタと軽い足音が響き渡った。

「お待たせリョウさん」

「あ、天城さん…!!」

「おー!鈴さん会いたかったぞ!」

「お帰りなさい、墨綺麗に落ちましたね」

「あれ、滝夜叉丸君と小平太君…?いつの間に」

満面の笑みで天城さんを出迎える二人の姿に、天城さんは驚きを見せながらも相変わらずの美しい笑顔を浮かべた。そんなデレデレとした二人を余所に、私は平の書いた書へと向き直る。迷いなく美しい一字だ。上級生にはやはりどうしても勝てないせいか、平のような実力があっても渋々引き下がるを得ないということも少なくはないのだろう。平はまだそれでも自己主張が激しいからいいけども、他の後輩なんてどうしたものか。後輩に花を持たせてやるのも、先輩の役目だとは思わないか?

ゆっくりと、その書を手にすると立ち上がった。

「天城さん」

「あ、はい?」

二人に囲われニコニコと会話をしていた天城さんへ声を掛ける。彼女の目の前にすっと平の書が記された半紙を翳す。途端に平のあっという声と天城さんのわぁっという歓声が同時に響いた。

「すっごく上手!」

「そうでしょう?」

「リョウ先輩、それは…!」

「なんだなんだ?それはさっき滝夜叉丸が書いたのじゃないか?」

七松の言葉に、天城さんが感心したようにじいっと文字を見つめる。その隣で平は珍しく顔を赤くしてもじもじしている。そんな様子にくすりと笑えば、平がぎょっとしたように私を見て真っ青になった。ああ、またか…。ゴホンと咳払いをして誤魔化して、その書を新しい半紙の隣へと並べる。

「平、私の代わりに天城さんの手習いの先生をやりな」

「…えええ!?」

「滝夜叉丸君が、私の先生?」

きょとんと私を見返す天城さんへ頷いてみせれば、七松が食って掛かる。

「なに!?ずるいぞ滝夜叉丸!」

「ひいい七松先輩落ち着いてー!」

「黙れ七松、私が決めたんだから口出し無用」

ぴしゃりとそう言い放ち、今にも平と取って代わりそうな七松を睨みあげる。びくびくと七松へと視線を送っている平を天城さんの横へ座らせて、七松の首根っこを引っ掴むとそのまま引きずる。

「天城さん、書は本当に美しい字を書く者に習った方が上達するってもんです。その点、平は実に良い字を書きます。教えることが好きなようなので、平が適任かと思いますので、私はこの五月蝿い奴を追い出してきて後は平に任せます。平も、せっかく天城さんに教えるのだから自画自賛は控えてやるんだよ」

「ありがとうリョウさん!」

「リョウ先輩…!あ、しかし…っ」

「大丈夫だ、他の誰かが邪魔してこようとしても私がそうはさせないさ。だから安心してやりな。分かったね七松、お前たまには後輩に花を持たせてやったらどうなんだ見苦しい」

「痛い痛い痛い!!分かったって!邪魔しないから!覗くだけは…」

「お前の場合は覗くこと自体が威圧だっつってんだよ、他の六年共連れて来ようなんて馬鹿な真似考えるなよ。いい加減にしないと私も怒るからな」

喚く七松を引きずって、部屋を後にする。同じように様子を覗っていた奴らがいたがギラリと睨みつけてやればすぐさま逃げていった。ったく、七松も本当に読めない奴だ。



「…それで、矢羽音まで使って後輩にいい思いさせてやろうってお前はどういう風の吹き回しだ?」



周りの気配がなくなってしばらく後、引きずっていた七松の首から手を離しそう問い掛ければ、にんまりと笑いながら廊下へ座り込んだ七松は私を見上げた。

「別に、滝夜叉丸は字が上手だからな!自分の委員会の後輩に少しくらいいい思いさせてもいいだろう」

「わざわざ矢羽音で『滝夜叉丸と変わってくれ』って言うから何事かと思ったぞ。別に普通にその場で言えばいいものを…あんな小芝居まで打たせやがって」

「あそこで普通に交代したんじゃ、他の奴らがどうせ押しかけてまたモメるだろう?私みたいな六年も手が出せないくのいち二大双璧の佐々木リョウが目を光らせてるってことにしとけば、そうそう下手に手出ししないだろう?さっきはバッチリ私を引きずり回すっていう鬼の所業も見せ付けたしな!」

「あのなぁ…お前がそういうこと言うから見ず知らずの忍たまに私はビビられるんだぞ、ったくお前は馬鹿なんだか狡賢いんだか分からんな」

はぁ、と溜息を吐けばますますいい笑顔を七松は浮かべる。まぁ、でもそういうところは嫌いではないが。この私を利用しやがったってことがどうにも気に入らないけども。実際、私も面倒から解放されて万々歳だ。ああいうのはやりたい奴がやるべきだろうし。と、そこまで考えてあああと頭を左右に振る。

「どうしたんだ?」

「いや…、これからは積極的になろうと思ってたんだがすっかり忘れてた」

「…まさか鈴さんにまた何か企んでるのか」

「企んでちゃ悪いか?前にも言ったはずだぞ、私の為に使えるものは何でも使う。それを邪魔するなら容赦はしない。だからこのことにも口出し無用。別に危害を与えるつもりはないから精々お前らは蝶よ花よとあの人を愛でていればいい」

それだけ言い残して、さっさとその場を立ち去ろうと背を向ける。後は七松が自分で平と天城さんの手習いを他の誰にも邪魔させないようにどっかで見張ってるだろう。私の役目は終えた。とりあえず今日は疲れたからもう終わりだ、終わり。

「なぁリョウ」

七松の呼びかけに、足を止めて振り返る。座り込んだまま、真っ直ぐな七松の視線が私を射抜く。静かにそれを見返す私。私と七松の間に流れる空気は、いつも穏やかとは言い難い。うんざりする。

「リョウは、誰かを好きにはならないのか?」

唐突過ぎる質問に思わず面食らうが、ぷっと吹き出して冷えた笑みを浮かべる。馬鹿馬鹿しさの余り笑えてきた。何を今更、くのいちに向かって何て馬鹿な問いをするのだろうかこの男は。嘲笑を返しながら、吐き捨てる。

「なるさ、その必要があればな」

恋心すらも私にとっては使える手札の一つだ。必要ならば、本当に恋に落ちた女のようにもなってみせよう。それでもしも私に利益があるのならばだ。だから私は、今は恋する女になんかならなくてもいい。必要がないからだ。

「リョウ…お前、いつか氷の女王みたいに心を亡くすぞ」

「別に良いさ、彼女に近づけるなら本望だ」

そう言って、もう一度笑ってみせる。苦い顔の七松は、随分と珍しい気がする。忍たまには分からない感情なのかもしれないね。甘さなんて捨てなきゃやってこれなかったんだよ、この六年間。だから、そう。これで正解。私たちにとってはね。



間違い探し




誰が間違ってるかなんて、答えはないよ。
だって、人それぞれなのだから。
間違い探しは終わらない。
彼女へ恋する彼らも決して、間違いではないだろう。
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -