「……この間の満月の日、小平太が随分殺気立って帰ってきた」

「……ふーん」

ぱらりと本を一枚捲り、背中合わせに聞こえた言葉に適当に相槌を返した。私も向こうもそう多弁な方ではないから再び沈黙が訪れる。背中の熱が僅かに身じろいで、後ろ頭に視線を感じた。仕方なく私も文章を追っていた視線をこの図書室の主へ向ける。穏やかに、しかし僅かに呆れを含んだ瞳が静かに私を射抜いた。

「…あまり無茶はするな」

「中在家ぐらいだよ、そんなこと言ってくれるのは」

中在家長次、唯一私と普段から交流のある忍たま六年生。資料や文献を探す際にお世話になることも多い。そして、何故か天城さんに対してそこまで強い恋慕の心を感じさせず、ただただその行く末と流れを眺めるある意味で氷の女王様と同じような傍観者だ。

「…リョウは天城さんが嫌いか?」

「いいや」

「………五年生、」

「言わずもがな、鬱陶しい連中だ」

こうして静かに本が読めるのも、私が自由を手に入れることができたのも、全てが変わったのもあの日を境にだ。誰を敵に回そうが、この平穏な日々には代えられない。七松や潮江の威嚇など可愛いものだ。だから私は、この日々をどうしても守りたい。それに、

「あいつらにとっても、今のままが一番なんだよ」

「……?」

「私みたいなくのいちにハマるなんざ、どう考えたって明るい未来なんかない。それなら今だけでも、ここで…学生の間に甘い夢くらい見ておかないでどうする」

パタンと本を閉じる。くのいちにとっての最大の武器である"色"。本能を揺さぶるその技術を如何にして最大限発揮するのかという指南書。こんなものを頭に詰め込んで、そして呼吸と同じように当たり前にそれを駆使する"くのいち"という生き物。ある者は汚らわしいと言うだろう。しかし私達はそれが誇りで唯一なのだ。そうして生きている私に恋慕の情なぞ向けられたところで返すはずもない。それを利用して私は生き抜くのだ。

「中在家、心配無用だありがとうな。いざとなったらこの身と培った経験で、なんとかするさ」

用済みになった書物を棚へ片付け、そのまま図書室を出て行く。背中合わせに伝わってきた中在家の体温は、どうにも心地が良かった。

(あのままだと寝そう……)







「だそうだが………尾浜、」

本に視線を落としていた長次が、まるで独り言のようにポツリと呟いた。するとそれに反応してか、ストッと天井裏から人影が降ってくる。

「なるほど…ご協力ありがとうございます中在家先輩」

「………不破の頼みだ」

「あは、後輩にはやっぱり優しいですね中在家先輩!」

「……リョウは優秀だが、やはり尾浜には気付けないな」

「そうなんですよ、だから他の皆は留守番で今日は俺だけ!」

「………あまり自棄を起こさせるな」

「リョウ先輩のことですか?」

にんまりと不敵に笑う尾浜に嘆息しつつ、先程まで背中合わせに座っていたリョウの言葉を中在家は思い返した。何だかんだと言いつつ、彼女は氷の女王には僅か遠い。利己的でしたたかな目的のすぐ裏側にほんの僅か見え隠れする"人の情"があるのだ。ほぼ九割九分九厘は己のために。しかしたったの一厘に、自分を慕う後輩の未来を思っての情がある。

だから、どんなにリョウが引き離そうと躍起になろうとも、彼らはリョウから離れないのだろう。

「………自棄を起こす以前に、そんな余裕もう与えてあげません」

「………………」

「そろそろ休戦はおしまいですよ」

ニコリと尾浜は笑った。恐らく彼らが天女の虜であると確信しているリョウが知ったら、全力で青ざめて次の作戦に移るに違いない。厄介な連中に好かれたものである。

リョウの先程まで読んでいた指南書へと視線を向ける。男の本能へと訴えかける"色の術"。それを操るがくのいち。

誰もを虜にする甘い声にその美貌。今度のリョウの色の術は天女様を利用したもの。彼女に恋い焦がれない男はいない。何故なら男なら誰もが彼女のような女を手に入れたいと渇望するから。六年間くのいちとして男という"生き物"を学び続けたリョウには一目で分かることだった。


しかし忍は人である。
人の心とは十人十色。己にしか分からず己のみが支配できるもの。

リョウのたった一つの誤算。


それは、彼らが上辺だけで恋に落ちると彼らの"心"を浅く捉えすぎたこと。


美しく優しく儚い天女様
強く気高く艶やかなリョウ


「………人の心を掌握するのは至難の業だな」

「そのとーり!」


おどけて答える尾浜を見遣りつつ、再び視線を本へと向ける。しばらくしたらまたリョウが顔色を変えて資料を読み漁りに来るに違いない。

しばらくの平穏を今のうちに。



うつりにけりな

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