(ここのところ、あいつの姿を見ないな) いつだったか、数日前を最後に男がすっかり音沙汰を無くした。少しばかり鮮やかさが失われた椿の花に手を伸ばし、そんなことをふと思う。ようやくうるさいのが来なくなったと思う反面、どこか心に隙間が出来たような心持ちがするのは何故だろうか。 「あいつの言うとおり寂しいと思ってるのか」 この私が。 苦々しい表情を浮かべながら、椿に顔を寄せる。この苦しいほどに薫る椿の香に混じって、薬草の仄かな香りがいつもここには満ちていた。今、それはどこにもない。さわりと吹き抜けた風が、女の黒髪と年老いた大木を揺らす。男がここへ来なくなるなら、それでいい。今まで通りに戻るだけだ。妖怪に執着の心などない。だから、これでいい。瞳を閉じた、その時だった。 「おい!!古椿の化け物!!」 静寂を切り裂くような荒々しい男の声が響く。草木を掻き分け、葉鳴りの音と共に一人の男が姿を現す。精悍な顔に焦りと若干の恐怖心を滲ませながら、それでも隠しきれない怒りに顔を歪ませている。女は男へとゆっくりと顔を向けると、妖しく微笑んでみせた。 「化け物とは随分な言い草だ」 嘲笑を浮かべながら、男へと歩み寄る。女の一挙一動に警戒の色を見せながら、男はやがて重々しく口を開いた。 「…お前、伊作という男を知ってるか」 思いも寄らない男の言葉に、女の柳眉が思わず動く。 「…知ってるが、それがどうかしたのか」 「やっぱりか…お前…!!」 女の言葉に、男は怒りと憎しみを露わにする。恐怖などまるで吹き飛んでしまったかのように、女へと詰め寄る。乱暴に女の胸倉を掴むと、力強い視線で睨み付けた。 「伊作が…伊作が死んだらお前のせいだぞ!」 「…どういうことだ?」 男の言葉が、視線が、まるで突き刺さるように女へと向けられる。ヒヤリと冷水が背筋を流れるような感覚が女の感情とは別物のように生まれる。 「伊作は、数日前に倒れたんだ」 「………………」 「今もまだ、一向に回復の兆しをみせない。それどころか衰弱していく一方だ」 胸の中心のその奥に、吐き出せない何かが渦巻いている。徐々に大きくなっていくそれは、思考も何もかもをも奪い去っていきそうなほどに女の心の中心を圧迫していた。この感情を、何と呼ぶのか。 「半年前から変だと思ったんだ。突然ふらりといなくなって消えたかと思えば、少し疲れて帰って来る。伊作は…、お前に会いに行ってたんだろ」 女の胸倉を掴む男の手から、ゆっくりと力が抜ける。うなだれるようにして俯いたその表情は見えない。男を静かに見下ろしながら、ゆっくりと女は目を細める。「半年前から変だと思ったんだ。突然ふらりといなくなって消えたかと思えば、少し疲れて帰って来る。伊作は…、お前に会いに行ってたせいですっかり気を吸い取られて、今は床に伏しちまったよ」 「…………あの馬鹿め、だから来るなとあれほど言ったんだ…」 苦々しく女の口から小さな呟きが零れ落ちる。瞳が苦しげに細められた。恐らく自分自身の生命を保つのが難しくなるほどに、生気を吸い取られたせいだろう。妖怪である本能は、無意識のうちに瑞々しい生気を吸い取っていく。女の意思とは無関係に。 「…なぁ、返してくれ古椿…!あいつは優しい奴だから、お前が妖怪だろうと何だろうと自分から歩み寄ろうとする…自分のことも省みないで」 「………………」 「伊作は、病気でもなんでもない、お前に殺されるんだ…!!!」 劈くような声が、突き刺さるかのように響き渡った。ああ、そうか妖怪である私に、あの男は殺される。そうか、そんなことは分かりきっていたことじゃないか。何百年も前から繰り返してきたことだ、今更なんの問題もない。それなのに、今私へと浴びせた言葉で、どうして目の前のこの男がひどく傷付いたような顔をしているのだろう。 「そんなに、あいつは大切な友人なのか」 「当たり前だ…もうずっと昔からの腐れ縁なんだ」 「…………そうか、」 女はゆっくりと瞳を閉じる。風が、女の髪と椿の枝を揺らす。噎せ返りそうなほどの甘い香りが立ち込めた。ぞくり、と男の背筋が粟立った。女の瞳が冷たく男を射抜く。 「小僧、調子に乗るなよ。そもそも私はそういう妖怪なんだ、何の問題がある?」 「っな……!?」 引きつった表情を浮かべた男に、女はゆるりと妖しく微笑む。 「ああそうだ、あいつが来なくなったせいで私の椿達もすっかり元気をなくしている。お前を養分にしてやってもいいんだぞ?あいつの代わりに」 女の冷ややかな言葉に男は唇を噛み締めて戦慄く拳を握り締める。そんな男の様子にくすくすと鈴のように笑う。人でない冷たい美しさと妖しさ、そしてまるで人間のように優しげな瞳が、諭すように男へと向けられた。 「さっさとお帰り人間、ここはお前達の来るところじゃない。あいつみたいになりたくなければ、二度と私に近付くな」 「それじゃ伊作が…!!!」 「帰れ、二度目はないぞ」 「………………っ」 逆らえない女の空気に、悔しげに男の顔が歪められる。やがて諦めるかのようにその場で踵を返すと、振り向くこともないまま木々の奥へと走り去っていく。女は男の姿が見えなくなるまでじっとその場で立ち尽くすと、やがてその白い指先を椿の花弁へと伸ばして、木々の遥か向こうに見える空を仰いだ。 リョウは、天邪鬼だから そんな声が聞こえた気がして、女の口元がそっと緩んだ。 ハッと、朦朧とする意識の中で、誰かの声が聞こえた気がして唐突に目を覚ます。薄暗い天井が広がる頭上、少しばかり冷たさを孕んだ空気をゆっくりと吸い込めば、ゴホリと肺が悲鳴をあげた。苦しげな呼吸の合間で、赤色が脳裏を過ぎる。あの柔らかな場所へはもう久しく行っていない。彼女は元気にしているだろうか、とその場所の主である女へと思いを馳せる。顔を見せると、いつも顰め面をしてまた来たのかとつっけんどんな口調で返す。それなのに、こちらに背を向けたその時だけは、まるで隠すように赤い顔をしている。何百年も前から生きているのに、まるで年相応のような恥ずかしがり屋の妖怪だった。あの場所には、いつだって女は一人きりだった。 「リョウは、寂しがりやだからなぁ…」 思わず零れた呟きに、思わず男は小さく笑う。その拍子に思い切り咳き込み、ヒューヒューと唸る気管に顔を顰める。蹲るように荒く呼吸を繰り返す男の背中に、優しげに誰かの掌が添えられた。 「誰が寂しがりだ」 木々のざわめきの中で聞いていたあの声が、男の背後からかけられる。温度のない掌が、言葉とはまるで正反対に優しく男の背を撫でた。目を見開いて、ゆっくり背後を振り返る。まるで、その椿のように真っ赤な着物。そして、艶やかな黒髪。甘い、椿の香り。久しく会っていないその姿が、目の前にいた。 「…リョウ、なんでここに」 掠れた声をどうにか搾り出しながら、男は思わず呟く。男の問い掛けには答えもせずに、女の指先が男の火照った額へと伸ばされた。氷のように冷たい熱が、男の額からじわりじわりと広がっていく。 女の瞳が、辛そうに細められた。 「だからあれほど、私には近寄るなと言っただろう。こんなになるまで私に生気を吸い取られなきゃ分からないのかこの馬鹿」 「リョウ…?」 「お前は私を寂しがりだと言うけどな、私は妖怪だぞ。何百年も一人で生きているんだ、寂しいなんて今更思うわけないだろう」 男の言葉を遮るように、ゆっくりと額の指先が男の視界を覆う。真っ暗な視界の向こう側で女がどんな表情をしているかは、男には分からなかった。振り払う力すらなく、男は掌の下でゆっくりと瞳を閉じる。椿の香りがする、あと少しで木々のざわめきすら聞こえそうな気がした。 「…私と違って、お前達は弱いし短い命なんだ。くだらないことに使って、犬死なんてするな」 精一杯の、女の優しさだった。視界の向こうで女は一体どんな表情をしているのだろう。腕に力が入らない、人間である自分は、なんともこんなにも弱い。唯一動いた唇が、搾り出すように言葉を紡ぐ。 「…それでも、」 半年前のあの時、あの場所で、出会った。道に迷ったという自分へと女は笑って休んでいけと手招いた。始めから、人間でないことは分かってた。それが女の甘い罠なのも分かっていた。それでも、どうしても、たった一人であの場所で、空を仰いで立ち尽くすその姿に、惹かれない筈がなかった。 「それでも、何百年も一人ぼっちは、誰だって寂しいだろう」 「………………」 日差しの中で日に日に移り変わる表情が、ただ愛しかった。 「リョウは、…っ、天邪鬼だから…、寂しかっただろう」 体が悲鳴をあげている。喘ぐように呼吸が乱れる。気管が熱い。ぐるぐる回る視界と熱に浮かされた体を唯一この世に引き止めてくれているのが、まるでこの冷たい掌のような気がした。男の視界を塞ぎながら、女は唇を噛む。 「どうしようもない馬鹿だな、お前は」 温度のない身体から滑り落ちた温かい雫が、頬を滑る。顎先から零れ落ちたそれが、赤い着物にポツリと濃く染みを作った。女は、その感情の名前を、知らなかった。 「もう、お前みたいな馬鹿に付き合うのは懲り懲りだ。いいからお眠りな、」 「リョウ……」 「目覚めたら、きっと全て忘れているから」 男の耳に唇を寄せて、女は静かに微笑んだ。 「最後に、これだけ言わせておくれ」 扉の隙間から漏れる朝日と、鳥の囀りに緩やかに意識を覚醒させられる。閉ざしていた瞳を開けば、いつもと同じ天井が目の前に広がっていた。むくりと起き上がって、辺りを見渡す。長い長い夢から覚めたように頭はぼんやりと霞んでいるが、身体は嘘のように軽かった。起き上がろうと、布団を退ける。その拍子に、視界に赤い何かがちらついた。 それは、一輪の椿の花だった。 「どうしてこんなところに、」 そっと、その花へと手を伸ばす。鮮やかな赤が指先に触れたその瞬間、ぼろりと男の目から涙が零れ落ちた。 いくつものいくつもの思い出が蘇る。山奥の誰も来ない木々の向こう、空を見上げて誰かが立っている。こちらを振り向いて、少し怒ったように顔を顰めて、そして照れ隠しに背を向ける。高い木の上から、こちらを見下ろして、悪戯そうに笑う顔。気だるそうに枝に背を預ける姿、時折微笑む表情は、まるで人間のようだった。 「……リョウ、」 天邪鬼なその女が、最後に言い残した言葉が男の脳裏に蘇る。 (優しいあんたが嫌いでした) 「本当に、リョウは天邪鬼だなぁ…」 泣きながら笑った男の涙が、まるで朝露のように椿の花弁を揺らした。 ← |