知らないこと、知りたいこと、知りすぎたこと、知らなければよかったこと


私はただ、元気だろうかと彼の近況を知りたかっただけだった。真っ白な紙に踊る文字の群れが、私の思考を掻き乱す。ほろほろと崩れ落ちる何かが、血の気の失せた指先から力すらも奪ってしまう。ハラリと地面に落ちた一通の手紙に、私の涙が零れ落ちた。それは、故郷の友人からの一通の便りだった。



『リョウちゃんの許婚が、どこかの女と駆け落ちして行方を眩ませた』



そんなこと、知りたくもなかったのに。




「あ、リョウ先輩起きた?」

ぼんやりとぼやける視界に、見知った顔が写り込む。二、三瞬きを繰り返して、霞んだ目を擦った。目の前に広がった古い色を残した天井と、鼻をつく薬草の香りにくらくらする。目を擦っていた掌をそのまま額に押し当てていれば、その手を急に握り締められて、暖かい体温が私の掌を包み込んだ。途端に引き戻された意識に、慌てて上体を起こして辺りを見渡す。

「ほ、保健室…?!」

視界の端に紺色の装束が映った。

「ここに運ばれたこと覚えてないの?」

丸い目を更に丸くして驚いている様子のその人物に、ようやく視線を向ける。カチリと視線が合った瞬間、柔らかく微笑んでみせた彼にようやく頭が冴え渡った。尾浜勘右衛門、所属する委員会の後輩である。

「ごめん、ちょっと…驚きのあまり…」

「いいっていいって!それよりリョウ先輩が目覚ましてよかったよ〜」

「それなんだけど…私、もしかして…」

「うん、俺が運びました!」

にこっと眩しいまでの笑顔を向けられて、全力で布団に蹲りたい衝動に駆られる。前傾姿勢で布団に埋もれた私の視界に、自分自身の少しばかり痩せた手首が映った。零れそうになる溜息を噛み殺して、ぎゅうっと目を瞑る。あれから一月が経った。いい加減に受け入れなければいけないと思いながら、未だに一歩も進めずにいる自分がいる。

「リョウ先輩、」

尾浜君の声に、ゆっくりと顔を上げる。貼り付けたような笑顔を浮かべた尾浜君の瞳が私を映していた。

「……なに?」

静かな空間に、彼の衣擦れの音が響いて、伸ばされた指先が私の目元を擦る。ざらついた指先が、目元から頬を辿った。その指先が顎先を捉えて、俯きかけた視線を上げさせられる。射止められたかのように真っ直ぐ向けられた視線から何故か逃げられない。尾浜君がまるで秘密の話をするように、唇を耳に寄せた。

「最近の先輩の、泣いてる理由はなに?」

心臓が弾かれたように高鳴る音がした。

「………え、」

「今日倒れたのだって、最近まともに食べてないからでしょ?泣いた跡だってずっと消えない」

「……………………」

「隠せてたと思ってた?」

振り払うように顔を俯かせた拍子に、固く握り締めた掌に涙が落ちる。肌を滑り落ちていくそれがどうにも不快で、ぐいっと拭う。泣くなんて、違う。まるで負けたみたいじゃないか。そんなの、絶対に嫌だ。それなのに、拭っても拭っても雨のように降り注ぐ。決壊してしまった涙腺から、私の感情達が零れ落ちる。ああ、もう馬鹿だ。もう誰にもぶつけることの出来ない悔しさばかりが私の中で膨れ上がって、行き場をなくす。言ってやりたい言葉も、殴りつけたい衝動も、私の中でまだ燻り続けている。許婚だった筈だ。私は、あの人と一緒に生きていくつもりで、ずっとずっと、信じていたのに。

「まさか尾浜君に知られるなんてなぁ…」

掠れた私の声が静かに落ちる。手を目に押し当てて、口元だけで笑う。暗闇に閉ざされた視界の向こうで、尾浜君がふっと笑うのが分かった。

「笑えるでしょ、生まれたときからずっと、この人と添い遂げるんだって言われてた許婚が、この間、どこかの女と駆け落ちしたんだって…」

「うん、」

「笑えるよね、本当に…笑うしか…ないでしょうよ…こんなの、」

「うん、」

「…ねぇ、笑ってやって…尾浜君…っ」

次から次に溢れる涙を押し留めようと、掌を目にぎゅうっと押し当てる。小さく零した私の呟きには答えないまま、尾浜君がゆっくりと私の後ろ首に手を回して引き寄せる。目に押し当てた掌が冷たい指先に取り払われ、至近距離に近付いた尾浜君が私を静かに見下ろしていた。瞬くたびに私の頬を涙が流れ落ちていく。こんな情けない姿、見られたくなかった。強い力で私を引き寄せて、彼の肩にぐっと顔を押し付けられる。ぎゅうと抱き締めたその腕が、後輩だった筈なのにまるで知らない何かのようで、息が止まる。

「本当、笑える」

「……………………」

「これで、リョウ先輩のこと諦めなくていいんだから、嬉しくて」

「…………え、?」

顔を上げようとした私の後ろ頭をぐっと押さえつけて、彼はくつくつと肩だけで笑う。

「さっきリョウ先輩、俺に知られるなんてって言ってたでしょ」

「………………」

「だって、見てたんだ。ずっとずっと、先輩のこと、どうしても諦められなくて。故郷に許婚がいるってことも、知ってた。それでも諦められなくて、ずっと。見てるしか、できなかったんだ」

掠れた彼の呟きが、何度も何度も私の思考を揺さぶる。問い掛けたいことも驚かなくちゃいけないことも、たくさんあるはずなのに、言葉にならない。まるで全身で大切だと言っているように、尾浜君が私をきつく抱き締めた。肌を掠めた彼の髪が、静かに揺れる。囁くような吐息が、零れ落ちる。

「ずっと、好きだったんだ」

「…私、」

「リョウ先輩の心に、まだその許婚がいても、いいよ」

彷徨う私の指先が、ぎゅうと紺色の装束を握り締める。暖かい熱が布越しに私へと伝わった。馬鹿みたいに私の心臓の音が早いのが、彼に伝わってしまってはいないだろうか。この熱と同じように。ゆっくりと指先で胸を押して、少しばかり距離をとる。いつの間にか乾いていた涙の跡が引き攣った。顔を上げられない。俯いたままゆっくりと距離を取ろうとした私の腕を捕らえ、額が寄せられる。驚いて固まる私へと困ったように笑いながら、彼が額を合わせて顔を覗き込んだ。

「先輩、困らせてごめん」

「いや、あの…困るっていうか驚いたというか…」

「知ってる、好きになっちゃってごめんね先輩」

「……尾浜君、」

「でも、覚悟してて」

私の両目を見つめながら、いつものように彼が意地悪そうに微笑んだ。


「先輩の中の許婚の居場所なんてないくらい、俺が今度は先輩の中に居座るから」

「……っ」

「だから、覚悟してて」



燎原の火



焼き尽くすように、その熱を知ってしまった私の心を、君が焦がす。
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -