「リョウ、リョウ」

ああまた来たのか、愚か者め。思考を揺さぶったその声に女は閉じていた瞳を開く。青空へとまるで溶けてしまいそうに鮮やかな緑が、視界一面に広がる。女はしかめ面のまま地面を見下ろすと、へらりとした笑顔を浮かべた優男が女へ向けて手を振っていた。

「はて…もう来るなと言った筈だが」

溜め息を吐き出しながら、そう木の上から言葉を投げかける。枝に寝そべりながら見下ろせば、葉がザワザワと音を立てて風に揺れた。

「リョウは寂しがり屋だからね」

男は微笑みながら頭上の女へそう返すと、木の根元に座り込む。能天気に「今日もいい天気だなぁ〜」と零している男へ、わざと聞こえるような大きさで溜息を吐くが、恐らくなんの嫌味も通じないのだろう。女は諦めたように顰め面のまま肩を竦めると、ひらりと枝から男の真横へと降り立った。

「伊作…お前は私が古椿の妖怪だと分かってないだろう」

古椿の妖怪であるこの女と伊作と呼ばれた人間の男が出逢ってもう半年になる。男は異形を「見る」ことのできる人間らしく、半年前にこの場所で出会った。始めは女も若い人間の男の気を吸ってやろうという気で男の呼びかけに返してみたものの、今ではひどくそれを後悔する羽目となっている。自分が妖怪だと言っているのに、男はまるで意にも介さないのだ。何百年もの長い年月を生きてきたが、こんな人間に出会ったのは女にとって初めてのことだった。初めてのことだからこそ、どうすればよいか分からない。人間よりも遥かに長い時を生きた女にとって、分からないことがあるというのは何とも悩ましく、そして新鮮なことでもあった。

「リョウが妖怪ってことなら、一番初めに会った時に聞いたけど?」

「だからそうじゃなくて…ああもう、いい。勝手にしろ」

苛々としてしまいそうになるのをどうにか堪え、早々に女は諦めの姿勢を顕わにした。この男には既に何度も何度も同じ問答を繰り返している。恐らくまるで意味のないことなのだろう。だったら調子を乱された方が損なのだ。そう結論付けてさっさと諦める方が利口だということに女が気が付いたのは、つい最近のことだった。

「今日も綺麗に咲いてるね」

「どっかの誰かさんが頻繁に顔を出すお陰でな」

木から枝垂れ落ちる女の分身へと柔らかく微笑みながら、男はそっと花弁に触れる。その瞬間、思わず呼吸を止めてしまったのは恐らく無意識だろう。軋みそうになる心のどこかが、木々と同じ音を立ててざわついた。真っ赤な花弁が、男の指先の熱を取り上げるように艶やかさを増す。ハッとなって慌てて椿の花から男の掌を叩き落とした。

「馬鹿、気安く触るな」

叩き落とされた手を擦りながら、男はしゅんと肩を落とす。毒々しいまでに鮮やかに色付いている椿を見つめながら、ぽつりと呟いた。

「こんなに綺麗なのに…」

椿は本来匂いがほとんどない。それは色の鮮やかさだけで虫や鳥を引き寄せることができるから、強い匂いを発する必要がないからなのだそうだ。しかし、この古椿からは強く甘い香りが発せられている。色の鮮やかさも然ることながら、馨しく思考力を鈍らせるような濃く甘い香りを持っているのは、偏にこれが妖花であるからである。虫や鳥を誘き寄せるためではない。これは人間という獲物を引き寄せるための甘い罠であるからだ。

だからこの男も、そうやって今まで引き寄せられた人間と同じように、ただの獲物だった。そうだった筈だが、男は怖がることもしないで、女をリョウと名付けて呼んで、そして微笑み掛けてくる。今までとは何もかもが違った。違ったからこそ、分からなくなった。矛盾する行動に思考が付いてこない。獲物である筈の男の手を叩き落とすなど、どうしてそんな人間染みた行動をしてしまったのか、女には理解ができなかった。

「綺麗でも何でも、私はただの椿じゃないんだよ」

だから、何度も何度もこうやって女は男と距離を取る。絶対超えられない境界線を目の前に敷いてやる。人間と妖怪、本来は相容れない存在なのだから。

「人間の気を吸い取って何百年も生き続ける、お前達人間にとっては恐ろしい古椿の妖怪だと何回言えばお前は分かってくれるんだろうね」

冷たい光を湛えた黒い瞳が、男に向けられる。女の漆黒の髪が、風に揺られてその赤い着物に散った。木の根元に胡坐を掻いたまま、男はそんな女を真っ直ぐに見つめると、やがて陽だまりのように優しく微笑んで見せた。

「恐ろしくないよ。リョウは妖怪でも、こんなに優しいだろう」

「…………………」

男は自分の指先を撫でながら、瞳を細める。

「それに、リョウは古椿の妖怪なのに内面は天邪鬼だからね」

「あ、天邪鬼…!?」

思わずあんぐりと口を開け、素っ頓狂な声で叫びかける。天邪鬼、思ってることと反対のことを口にする妖怪。カッと女の白い頬に朱が差した。

「だ、誰が天邪鬼だ!!あんな奴らと私を一緒にするな!!」

「あはは、照れてる照れてる」

「違う!!怒ってるんだ私は!!いい加減にしないとお前なんぞ喰っちまうぞ!」

「怖いなぁ」

「そんな満面の笑みを浮かべて何が怖いだ!ったく…」

女の怒涛の文句すら、男には何一つ届いていないかのように楽しげに笑っている。暖簾に腕押し、そんな言葉がぴったり当てはまった気がして、女は深く溜息を吐き出した。やや疲れた表情を隠しながら、男に背を向けるとしっしと掌で追いやる。

「ほら、もう帰れ。じきに日も暮れるぞ」

「うん。リョウが寂しくないように、また明日も来るよ」

「誰が寂しがるか!来なくていい、来るな」

「うそ、リョウは天邪鬼だからね。待っててね」

「ああもう!………お前なんか誰が待ってるものか」

負け惜しみのように女が男に背を向けたまま小さく吐き捨てる。女の長い黒髪が、その背中で風に踊っていた。肩越しに見えるその頬は赤い。男は気付かれないように静かに笑みを残すと、そっぽを向いたままの背中に小さくそれじゃあまた明日と声をかけてその場を立ち去る。男の薬草の香りが甘い椿の香に混じってその場に留まった。





「伊作、お前顔色が悪くないか」

「…え?」

とある昼下がりだった。いつも通りに男は女のもとを訪ね、椿の木の根元を陣取っている。顰め面のまま男を覗き込んだ女に、一瞬ぼうっとしかけていた思考が引き戻される。驚いて女を見返せば、ますますその柳眉を顰めて男の様子を窺うように見据える。まるで死人のように白いその指先が男の頬に伸び、そっと触れる。氷のように冷たい体温が、ぼうっと虚ろになりかける思考を引き締めた。口にはせずともこれは彼女なりに心配をしているのだろうか、男は頬に掛かったその指先を握り返すと誤魔化すように言葉を返した。

「大丈夫だよリョウ、少し仕事が忙しいだけだから」

「体調が悪い癖にどうしてこんなとこに来るんだお前は…家で寝てろよ」

「だって、リョウが寂しがるもの」

そう言って笑う男に、女はひくりと口元を引きつらせると首筋までその着物の赤と同じ色に染め上げる。握り締められてた指先をバッと振りほどき、目を吊り上げて男へと怒鳴りかけるものの無駄な労力だと悟ったその瞬間に全身を妙な脱力感が襲った。こんなことでいちいち怒っていては身がもたない。こんな人間の若造に何百年も生きた妖怪である自分が翻弄されるなどあってはいけない事実だ。小さく咳払いをする。

「余計な気遣いをするな人間如きが」

いつもより少し青白い顔で、それでも男は女へと優しく微笑む。指先で椿の花を撫でながら、横目でそんな男の様子を窺う。やはり、どこか具合が悪そうだ。鮮やかに色付いた椿の花に目を落としながら、何処かもやもやとした曖昧な不安が女の胸に押し寄せる。花はこんなにも妖しいまでに美しい。それはつまり。そこまで考え至った結論に、いやまさかなと女は自分自身で否定を送る。それに、もしも例えそうだったとして、一体何が悪いのだ。そういう存在だと公言していたのは女自身だった。

「お前なんか来なくたって、寂しくはない」

いつも通りの答えを返してみせる。すると男はきっと綺麗に笑って言うのだろう。いつものように、暖かな笑顔を向けながら。

「本当に、リョウは天邪鬼なんだから」

その言葉にチクリと胸が刺すように痛む。痛みの理由も、胸を騒がせるその原因も女にはさっぱり分からない。まるでひだまりに溶けてしまいそうなほどに儚かった男の姿を最後に、その日からパタリと女の前から姿を消した。




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