植え込みの陰でしゃがみながら息を殺す。私を探す声が響きわたっているけれど、聞こえないフリを決め込んで私はゆっくりと細く溜め息を吐き出した。視界に写る華やかな振り袖も頭にこれでもかと飾られた簪も私には到底似合わないものだ。

今日は、私の顔も知らない許婚との見合いの日だった。

親同士が勝手に決めた縁談。向こうの相手だって私のことは知らない筈だ。顔も知らない相手と本日今時この瞬間から夫婦となるべく話を進められる。冗談やめてくれと真っ青になって隙を見て逃げ出したのがつい今し方。縁側から草履を手に裸足で駆け出しちゃうお転婆娘なんて言ったら聞こえは良いが、家人総出で捜索されてるこの現状は微塵も笑えない。生きる(逃走)か死ぬ(結婚)かの瀬戸際である。少なくとも私にとっては。

「…………」

結婚が嫌だとかそういうわけではない。ただ、見ず知らずの相手だというのがただ気に入らなかった。この御時世、絵草紙のように恋女房がどれほど夢のまた夢かなんてことは私にでもわかる。けれど、せめてこうして逃げてる間だけでもいい。夢を見させて欲しかった。



私は、恋をしたことがないのだ。



「リョウー!どこにいるんだ諦めて出てきなさい!」

「!」

父上の声がする。じっと身を強ばらせて縮こまるがここも時間の問題だ。もういい。こうなれば意地である。逃げ切ってやる。そうと決まれば、ここから抜け出さなくては。着物の袂を帯に突っ込み、上前と下前を割る。むき出しの素足なんかを晒したこんな格好を母上が見たらぶっ倒れるだろうがこの際四の五の言ってはいられない。簪を引き抜いて、飾り立てられて動かしにくい髪を解放する。石垣に足を掛け、木を伝いながらよじ登る。こちとら小さい頃は猿も驚く身軽さを誇ったのだ。ついた呼び名は猿お嬢。なにそれ嬉しくない。

「…よっと!」

よじ登った石垣から見える外の世界のなんて清々しいこと。屋敷から出ることも最近はままならなかったから一層心地いい。地面へと着地して、とりあえず辺りを伺う。よし、誰もいない。逃げるならば今が好機。逃げてその後どうするかなんて考えてすらいないが、明日は明日の風が吹くってことでなるようになるだろう。手に持っていた草履を履き、にんまりと口に笑みを浮かべると走り出す。父上、母上お許しください。私は恋がしたいのです。許婚だか糠漬けだか知りませんが、顔も存じ上げない殿方との婚姻なんぞ私は真っ平御免被ります。

猿お嬢の名に相応しく、素晴らしい速さで屋敷から遠ざかる。屋敷で働く若い女中さん達も話していた。この人が格好いい、あの人は優しい、恋に恋するなんて小娘の浅はかな考えかもしれない。けれど、私だってまだまだ世の中を知りたい。出逢いだって、どこにあるかなんて分からないのだ。この曲がり角を曲がって、その先に何があるのだろう。現実から逃げてるだけだってこと、そんなのは言われなくても分かっている。私の唯一の反抗だ。

ただひたすらに駆ける。四つ角を左へ曲がれば、隣村へと続く道に出るはずだ。迷いなくその角を左へと曲がったその時だった。

「うわ、危ない!!」

「…ぎゃっ!」

誰かの慌てた声と、馬の嘶き。そして足元で響いたブチッという不吉な音と、地面に倒れ込む衝撃。一度にいくつもの出来事が目の前で起こり、チカチカと脳裏で点滅するように目に映し出す。打ち付けたお尻をあいたたた…と撫でていれば、サッと私を影が覆った。

「うわぁ…ごめん、大丈夫か?」

降ってきた声は、私と同じような年頃の青年のものだった。

「あ、はい…すみません私こそ飛び出して…」

「怪我とかしてないか?ごめん、俺急いでたもんだからつい、」

スッと差し出された手のひらを遠慮なく掴みながら立たされる。どこか傷だらけのその手は、日に焼けていてやけに逞しい。スッと視線を首筋から顔へと向ければ、精悍な顔付きの青年が心配そうに眉を下げてこちらを見つめていた。立たされた時に握られた手のひらが熱い。

「怪我は…」

「ないですないです、大丈夫」

「そっか」

ふと微笑んだその顔は向日葵のように暖かく柔らかい。世の中には随分と好青年がいるものだ。ほら、やっぱり私お見合い逃げ出して正解だったんだ。

「…ってこうしてる場合じゃない!」

「え?」

「すみません私先を急ぐのでこれにて失れぃ…ぎゃ!!」

再び駆け出そうとしたその瞬間、私は思い切り地面へと倒れ込む。足元に感じた妙な違和感に思わずあちゃーと頭を抱えた。青年はぎょっとした様子でこちらを見ていたが、すぐさま駆け寄ってくると私を再び助け起こした。

「ちょ、大丈夫か!?」

「いたたた…た、多分鼻緒が…」

助け起こされ、足に絡みついている草履を見れば、案の定。やはりブッツリと切れていた。さっき角でこの青年とぶつかりかけた時に変な音がしたからまさかとは思ったんだ。ブランと鼻緒の切れた草履を見つめながらあああと肩を落とす。これじゃ歩けない。いや、裸足でいけるか…。っていうか気力的なものが一気に殺がれてしまった。だってこんなの不吉すぎる。地面へとうなだれた私に、青年の慌てた様子が伝わってきた。

「ごめん!これ、俺とさっきぶつかりかけた時の衝撃で、だよな…ホントごめん!」

「もう…いいの…」

「え、」

「諦めろってことだと思うから…だから、もういいんです」

鼻緒の切れた草履が地面に横たわって、うなだれた私の肩から乱れまくった髪が一房零れ落ちる。もう、何もかもボロボロ。上手くいかない。恋なんて知らなくてもいいと、神様は私へ告げている。

「あーあ!あなたのお陰で大失敗!私の人生お先真っ暗、どうしてくれるんですか?」

「えぇ!?」

諦めて笑ってみせながら零せば、青年が瞳を丸くしながら驚いていた。傍らで馬がカツカツと地面を掻く。青年の徐々に青くなる顔色が可笑しくて、つい吹き出して冗談だと告げれば幾分かホッとしたように胸を撫で下ろす。ほら、これで私の逃走劇は終わり。短い自由だったなぁ。

「私、親の決めた相手との縁談が嫌で、お見合いから逃げてきたんです」

「お見合い…?え、逃げた!?」

自嘲しながらそう呟いた私の言葉に、ギョッと青年が声を上げる。

「でも、それも終わり。大人しく帰って親の決めた見合い相手に謝ってくることにします。ごめんなさい迷惑掛けてしまって、少しでもいいから自由な空気を味わってみたかっただけなんです」

「……………………」

「草履の鼻緒も見事に切れてしまったし、どっちにしろもう遠くには行けないから。見ず知らずの方に時間を取らせてしまって、ごめんなさい」

鼻緒の千切れた草履を手にし、よいしょと立ち上がり振袖の乱れを整える。とは言っても振袖で木登りやら何やらやったから既に乱れまくっているのだけれども。足袋が汚れてしまうことも厭わずにもう片方の草履も脱ぐと、ペコリと青年に頭を下げた。

「それでは、ご縁があればまたどこかで」

「…っ、ま…待って!」

踵を返した私を、青年の焦ったような声が呼び止める。チラリと振り返れば、青年がまっすぐにこちらを見つめ返しながらツカツカと近付いてくる。何事かとその様子を視線で追っていれば、私の前まで来るとゆっくりとしゃがみ込んだ。

「草履、ちょっと貸してくれないか?」

「え、えぇ」

鼻緒の千切れた草履を差し出す。それを受け取ると、懐から取り出した布を躊躇いもなく引き裂き慣れた手つきで鼻緒に括る。やがて立ち尽くした私の足元に元通りにされた草履が二つ並べられた。パチクリとその草履を見下ろす私に、青年は膝を付いたまま顔を上げると歯を見せて笑った。

「はい、元通り」

「あ…えっと…」

「あれもしかして、直しちゃまずかった!?」

「ううん!あの、ありがとうございます…!」

慌てて首を振って、揃えられた草履を履く。二度三度その場で足踏みをすれば、少しばかり歪で、だけどもしっかりした感触が足に伝わった。見下ろした自分の足先に再び纏われた草履に、何だか胸が温かくなる。ゆっくりと立ち上がった青年が私を見つめ返すと緩やかに微笑む。

「これで、また逃げられるな」

「……………」

ニカッとまるで悪戯の成功したような笑みを浮かべると、小さく嘶きながら蹄を鳴らしている彼の愛馬の方へと向かう。手綱を引きながら、こちらまで戻ってくると勢いよく跨って、私へとその掌を差し出した。

「じゃ、行こうか」

「?ど、どこに?」

「どこでも」

「どこでも?!」

「だって、せっかく逃げ出してきたんだろ?これも何かの縁だし、俺も付き合うよ」

だから、はい。そう掌を差し出して、馬に跨った彼が私を誘う。踏みしめた足元は彼の直した草履の感触。あと、もう少し。もう少しだけ。その言葉が私の指先を動かす。その温かい掌へとそっと手を重ねれば、ぎゅっと力強く握られる。力強く引き上げられた馬上で、彼の着物を慌てて握り締めた。大きな背中に縋り付けば、青年が手綱を操り馬が緩やかに動き出す。

「よーっし、出発ー!」

「わ、わ、落ちる!」

「ちゃんと掴まってろよー」

カラリと楽しげに笑った声に、思わず私の頬も綻ぶ。少しばかり高鳴る鼓動が、私の胸を叩く。高揚感に熱くなる頬を風が撫でた。

「そういえば、名前は何というのですか」

ふと思い立ったように尋ねる私に、青年はハッと今更気が付いたように苦笑するとチラリと振り返って「団蔵」と返した。団蔵さん、舌の上で転がすようにそう呟けば、前を向いたまま団蔵さんがクツリと笑った。

「君の名前は?」

「あ、すみません…!リョウです、佐々木リョウ、」

「佐々木?」

「はい、」

「さっきの場所からすぐ傍のお屋敷のお嬢様か」

ふーんと呟いた団蔵さんの顔は前を向いてて見えない。それからしばらく無言のまま流れていく景色を見つめる。空に雲が流れて、遠く見える山に緑が鮮やかだった。田畑にチラホラと見える人影が馬で過ぎ行く私達を目で追っている。どんどん離れていく私のいた場所。限られた時間だけの自由だというのはわかっている。決められた人生の上を歩き続けた私の一生に一度の唯一の寄り道。

「リョウは、どうして縁談から逃げたんだ?」

「え?」

「ごめん突然、さっき言ってただろ?親の決めた縁談が嫌で逃げてきたって。リョウくらいの年齢なら縁談なんてそう珍しくはないだろ?そんなに嫌な相手なのか?」

「…いえ、相手の方は会った事もないので顔もどんな方なのかも存じ上げないのです」

親の決めた相手と婚姻関係を結ぶことなんて、当たり前のことだしそれが通常だ。もしかしたらその会った事も無い相手は私には勿体無いくらいのお方かもしれない。ただ、そう…私は。

「私、恋をしたことがないのです」

「へ?」

「団蔵さんはありますか?恋をしたことが」

私の問い掛けに団蔵さんが素っ頓狂な声を上げる。しばらく声にならない唸り声を漏らしていたが、やがてピタリと馬の歩みを止めてこちらを振り返った。何とも難しそうな表情をしている。

「まぁ…それなりというか…」

「そうなのですか…羨ましいです」

「…今まで、誰かを好きになったことがないってこと?」

「…そういう機会がなかったのです。昔から、憧れていたんです。誰かを思ったり、その誰かに思われたり、素敵じゃありませんか」

「うーん…そういうもんか…」

「もう!女の子っていうのはそういうのに敏感なんですよ!」

呆れ返った私に、団蔵さんは眉を下げてごめんごめんと笑った。男の方というのはみんなこうなのだろうか。はぁと溜息を零せば、それに便乗するように馬もブルルと首を振った。

「だから、一度でいいから誰かを好きになってみたかったのです」

ポツリと私の呟きが景色に溶けるように零れ落ちた。私の逃亡劇はきっともうすぐ終わってしまう。どれだけ屋敷から距離が開いても、それでもいつかはきっと帰らなくてはいけない。それを私はわかっている。団蔵さんの優しさに甘えて、ここまで来たけれど、それでも、いつかは元の人生の道筋へと戻らなくてはいけないことを私は知っている。それが、私の人生だからだ。

「ありがとうございます団蔵さん、私をここまで連れてきてくれて」

「いや…俺は…」

「ただ、これから歩む決められた道を私はどうしても受け入れられなくて、ずっと逃げていたかっただけなんです」

この長い道を、団蔵さんとどこまでもどこまでも駆けて行けたら、どんな景色を見られるのだろう。誰に出会えるのだろう。私は、どう生きていけるのだろう。

「逃げればいいだろ」

「でも、」

「自分の人生なんだから、どうやって生きようと自分の自由だろ。リョウが恋したいってんならすればいいし、逃げればいいよ。どこまでも」

「………………」

「俺が、どこにでも連れてってあげるから、だから」

「……………」


「自由に生きなよ」


そう言った団蔵さんの表情は、私には逆光でよく見えなかった。それなのに、どうしてか、ギュッと胸が締め付けられたように苦しくなる。何故か寂しそうに見えたその表情は、目の錯覚だったのだろうか。目を瞬かせて団蔵さんの顔を見つめ返そうと目を眇めるが、団蔵さんはすぐに前を向いてしまった。

ぎゅっと、着物を握り締める。左右に揺れる団蔵さんの髪が私の目の前で風に靡いた。優しくて、温かくて、私に希望をくれる人。初対面なのに、私へこんなにも勇気をくれる人。その広い背中へ、額を押し当てて瞳を閉じる。伝わる熱が心地いい。きっとこの人は、私をどこまでも連れて行ってくれる。その言葉通りに。終わりなど来なければいい。ずっとこのまま、現実から逃げていられるのなら。団蔵さんと一緒に。

彼の直してくれた草履の鼻緒が、目に入る。私に前を歩く勇気をくれた。彼の結んだ手拭の端切れが私の足元で鮮やかに色付いている。逃げてもいいよと彼は言う。

預けていた額をゆっくりと離して、着物を掴んでいた指先を離す。え、と振り向きかけた団蔵さんがこちらを向いてしまう前に、そのまま彼の腰に腕を回してぎゅっと抱きつく。私の頬を団蔵さんの髪が撫でる。戸惑ったような団蔵さんの身じろぎが腕を通して伝わるが、そのままぎゅうと頬を押し当てて、口元だけで微笑んだ。

「…帰りましょう」

「え…?」

「ありがとうございます、ここまで付き合ってくださって」

「……………」

「団蔵さんと過ごせたこの時間が、私には何よりも自由な瞬間でした」

離れたくないけれど、迷惑を掛けてしまいたくない。震える指先をぎゅっと彼の前で握り締める。くぐもった私の声が、団蔵さんの背中にぶつかった。優しくて、暖かくて、そして愛しい。出逢ってほんの数時間、恋も知らない私。こんなに苦しくて切なくて、でも温かい気持ち。ねぇ、団蔵さん、これはなんて呼べばいいのですか。

「父上には、もう一度しっかりと私の意見を言おうと思います。それが通用するとも思いませんが、」

きつく結んでいた指を解き、緩く着物を握り直して告げる。肩越しに団蔵さんは振り返りながら、本当にいいのかと目で問う。それに微笑みで返せば、団蔵さんはゆるりと馬の手綱を操り元来た道を引き返した。

これでいい。
誰かに迷惑は掛けられない。
こんな長い道のり、逃げ切ろうなんて馬鹿な考えだった。それでも、団蔵さんに出会えたことだけは、私にとって何よりの幸運だ。屋敷を飛び出して良かった。あの角を左に曲がって良かった。鼻緒が切れて良かった。


だから、さようなら。



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