熱を持ったように傷口がズキリズキリと悲鳴を上げる。手で押さえつけながらなるべく振動を加えないようにしてみるが、まるで効果はなかった。掌を濡らす感触が一体何なのかなんて考えなくても分かったが、このままじゃお陀仏だということは容易に想像ができた。

「……っしつこいっつーの!」

暗がりに溶け込むように忍びながら、そう小さく悪態をつく。口から意図せずとも零れ落ちる呼吸が弾む。目の前がぐらぐらと霞み掛けるのを根性で耐えながら、追っ手の気配を静かに探った。追ってきている。手に入れた情報は既に別の手段で仲間へと伝わるように手配してある。足は付かないように色々と工作はした。だからだろうか、敵は唯一情報の在り処を知っている俺を始末しようと躍起になっている。ここまで執拗に追われるのもそのせいだろう。例え捕まったって口を割る気は毛頭ないし無駄だというのに。

(やばい…目の前が…、)

徐々に黒に染まりかける視界に、歯を食いしばって耐えてみせるが恐らく長くは続かない。失血しすぎた。覚束なくなり始める足を踏みしめ、人気のない家へと一旦逃げ込んで息を殺した。

「……………」

扉を背に蹲り、細く長く口から息を吐く。血で濡れた傷口からはどくどくと拍動のように血が溢れている。顎先から地面へとポツリと脂汗が流れ落ちた。油断すればすぐにでも眩みそうな意識をどうにか保ちながら、俺はぎゅっと目を瞑った。俺を探すような気配が数人、家の外をうろついている。やばいなぁ、これ…本格的に俺死ぬかもしれない。とんでもないヘマしたなぁ。まるで走馬灯のように今までの記憶が目の前を過ぎる。学園にいた時のこと、卒業してからのこと。俺の忍者人生これで終わりだろうか。まだ始まって間もないのに。こんなところで死ぬなんてツイてなさ過ぎる。民家の家主さん驚くだろうな。土間もこんなに血で汚してしまった。

「…驚いて気絶しなきゃいいけど」

そう呟いて口元が薄く笑ったのを自覚する。いや、笑えてたかはわからないが。再び気配を探ろうと神経を尖らせれば、ここにはいないと踏んだのか俺を追いかけていた敵の気配が遠く離れていく。ホッと安堵の息が思わず零れた。ああ、それならまだ動ける今のうちに、ここを離れておかないと。力の入らない足に力を込めて、扉を支えに立ち上がる。暖簾の掛かったその家から外へと足を踏み出せば、眩しいほどの夕日が目を焼いた。眩しさに目を眇める。光に一瞬真っ白になった視界が、徐々に黒に侵食されていく。あ、これはやばいと感じた次の瞬間、俺の身体はドサリと地面へと横たわった。指先から足先に掛けて、全く力が入らない。まるで自分のものでなくなったかのように重い手足が地面に横たわっているのが霞掛かった視界にぼんやりと写った。その掌は真っ赤に染まっている。こんな民家の前でぶっ倒れてるとか、不審人物以外の何者でもない。

(家主さん、ごめんなさい)

顔も知らぬこの家の持ち主へと謝罪の言葉を浮かべて、俺は落ちていく感覚に呑まれるように意識を手放した。


「も…、もしもし?」


遠退きかけた意識の片隅、誰かの声が響いた気がした。









ゴリゴリゴリ…


医務室の匂いがする。あの音は保健委員が薬草を磨り潰している音だ。伊作先輩だろうか、それとも一年は組の乱太郎。ああ、何だか懐かしいな。みんな元気だっただろうか。それにしても、俺はどうして医務室なんかにいるのだろうか。

「…ああ…仕事は決まらないわお金はないわ変な怪我人拾うわ…なんなの本当にここのところの私不運過ぎる…」

女の子の声だ。保健委員にくのたまがいた記憶はないけれど、もしかしたら保健委員の子だろうか。不運と言えば保健委員。くのたまでも保健委員ならば総じて不運になるのだろうか。不憫だなぁ。


ゆっくりと重い目蓋が押し上げられ、膜の張ったような視界がゆっくりと輪郭を取り戻していく。はて、医務室はこんな天井だっただろうか。記憶の中のそれよりも随分と天井が低い気がする。数回パチリと瞬き、ゆっくりと視線を動かしてみる。部屋の片隅に置かれた行李、古ぼけた鏡台に誰かの姿がチラリチラリと映っている。よくよく目を凝らしてみれば、鏡越しに誰かの後姿が映っていた。質素な着物の手元が忙しなく動いている。ゴリゴリという何かを磨り潰す音はそこから響いているようだった。反対側へと視界を移せば、小さな囲炉裏の傍らにその着物の主である誰かの背中が見えた。

「……だれ、?」

掠れた声が喉から零れるが、きちんと声になっていたかは分からない。けれど俺のその声に反応したのか、その背中がパッとこちらを振り返った。

「うわぁ!?目、目覚ましたんですか…!?」
目を大きく見開き、こちらを驚愕の様子で見返したのは、何の変哲も無い一人の女の子だった。

「だ、大丈夫ですか…?傷は、熱も…、ああそうだ何か飲みますか?!」

恐る恐るといった様子で距離を取りながらこちらを気に掛ける様はどうにも気弱そうである。その表情にはありありと俺に対しての不信感が漂っているが、出来る限り隠そうと当人は必死なのだろう。煎じた薬草やら包帯やら水差しやらを手にとってはあわあわと必死にこちらへと促している。そんな彼女の様子に、思わず小さく笑みを零した。

「…そんなに怖がらなくても取って食いやしないよ」

「え!?いや…そんな!別に怖がってるわけじゃ…!」

「ここ…」

「あ、えっと…私の家です…一応」

狭いところですが、と付け加えながら彼女が眉を下げながら手にした包帯を床に置く。改めてぐるりと視界を巡らせれば、医務室とは全く別物の室内の様子に俺は思わず溜息を吐いた。そうだ、学園なんかにいるわけがないのに。ゆっくりと指先を一本ずつ動かしてみれば、じんわりと感覚が戻ってきた。そっと腕を動かして傷口に手を当てれば、少し痛むものの丁寧に包帯が巻いてあるお陰か鈍い痛みに変わっていた。布か何かを重ねて足先を高く上げられているのは、恐らく失血しすぎたせいで血液が足りなくなったのを補うためだろう。医術の心得があるのだろうか。さっきも薬草を煎じるような音がした。改めて彼女へ顔を向ければ、ビクッと驚いたように肩を跳ねさせていた。

「それ…薬草?」

乳鉢の中を示しながら問えば、彼女の視線が忙しなく俺と乳鉢を行き来する。

「あ、はい…一応血止めの薬草で応急処置を…」

「…医者か何か?」

「とんでもない!この間働いてたところがたまたまそういう関係の場所だっただけで、私はちょっとかじった程度の素人ですよ」

ブンブンと両腕を左右に振りながら、彼女が慌てた様子で否定する。そんなに一生懸命否定しなくてもいいのに。フッと笑みを零せば、ややあって真っ赤になりながら彼女が俯いた。

「ねぇ、名前は?」

頬に僅かに赤みを残したまま、彼女が顔を上げる。瞳が少しばかり宙を彷徨い、やがて引き結ばれた唇から小さな声が零れた。

「…リョウ、です」

「リョウ、ね…ありがとう。手当てしてくれたんでしょ?」
「そんな大それたものじゃないけど…」

「でも、俺こうやって助かったわけだし」

「はぁ…」

「ありがとう」

「どういたしまして…」

腑に落ちないような表情をしながらも、リョウはおもむろにそう返す。やがてハッと気が付いたように俺へと水差しを差し出した。

「あの、水…飲んだほうが良いですよ?」

「え?」

「その…三日間程熱に魘されてずっと眠りっぱなしだったので…」

「三日?!…いっだぁぁぁぁあ!!」

「ちょ…何やってんですか!?」

ガバッと飛び起きた途端、激痛に再び蹲る俺へとリョウが水差しを放り出して駆け寄ってくる。やばい、生き延びたのに痛すぎて死にそう。リョウの腕に支えられながら、再び床へと横にさせられた。

「馬鹿じゃないんですか!大怪我なんですよ!傷口開いても知りませんからね!!」

「痛いー痛いー死ぬー…!」

「当たり前です、こっちは死んじゃうんじゃないかと気が気じゃなかったんですから…!お陰で寝不足もいいとこですよ!」

そう怒りの形相を浮かべるリョウの目の下には薄っすらと隈ができている。もしかして、三日間も寝ずに看病していてくれたのだろうか。見ず知らずの男を?しかも血まみれで地面にぶっ倒れてるような不審な人物を?

「…なんてお人よしな…」

「余計なお世話です!そう思うんなら私の家の前でぶっ倒れてないでくださいよ!血まみれの何かが落ちてれば誰だってビビるに決まってます!」

「あぁ…あの時入り込んだのはリョウの家だったんだ…」

「お陰で土間から扉から血まみれ殺人現場でしたけどね!」

「あは、ごめんねー」

そう笑顔で謝れば、思い切り溜息を吐かれる。あれ、何だか開き直られたのか態度が違う気がする。するりとリョウが立ち上がり、乳鉢と包帯を手にするとこちらへと歩み寄ってくる。ストンと目の前に座ると、憮然とした表情を浮かべながらこう告げた。

「脱いでください」

「何する気!?」

「ちょ、勘違いしないでください!今のとこもしかしたら傷口開いたかもしれないんで取り替えるんでえすよ!おらとっとと脱げー!!」

「うわああ!?性格変わり過ぎじゃない?!」

着物を引っぺがされ、まるで女の子とも思えない潔さで包帯を剥ぎ取ると、じいっと傷口を見つめてピタリと血止めの薬草を塗りつけた。

「………よかったです」

「え、?」

「あなたが、生きててくれてよかったです」

ポツリと零された言葉に、思わず目を見開いてリョウの顔を見下ろすが、顰め面のままその視線はじっと傷口へと向けられていた。どうにも真剣なその表情に茶化すこともできず、俺はポリポリと頬を掻いた。

「何があったかは私には分かりませんが、」

「…………………」

「早く怪我が治るといいですね」

顰め面がゆっくりと溶ける様に笑みに変わり、その真っ直ぐな瞳が俺の瞳を見つめ返す。指先は不器用ながらも労わるように丁寧で、熱を持った身体には心地いい体温が肌を滑った。薄っすらと隈の浮かんだ目元は、熱に魘されて生死の境を彷徨う俺を寝ずに必死で看病してくれた証。

優しい。
リョウはひどく優しい人間だ。


「…ごめん」


無意識のうちに零れた言葉だった。口にしてから、俺は自分自身の心臓がドキリとするのを感じた。そうだ、俺は追われる身で、今もまだ逃げている途中だ。リョウはその俺を助けてしまった。俺に関わってしまった。きっとこの先居場所が知れれば、リョウも狙われることになる。早々にここを出て行かなくちゃ、リョウにまで被害が及ぶ。でも、こんな状態じゃ俺はまだ動くこともままならない。こんなにも優しい彼女を、俺は犠牲にしてしまう。俺のせいで。

「…どうしたんですか?」

心配そうにリョウが俺の顔を覗き込んだ。沈黙が満ちる。相当に俺の顔色が悪かったのか、リョウが再び慌てたようにオロオロとしていた。

「あれ、私ちょっと強引過ぎました?どこか気分が…」

「…違うんだ…」

彷徨っていた指先を捉えて、ギュッと握り締める。驚いたように身を固まらせて、リョウの目が俺を見つめる。張り詰めたような静寂が支配する空間に、気の抜けるような音が鳴り響いた。


ぐうう〜…


「………お腹空いた…」

「………………はぁー…」

「なんだよー三日食べてないんだから仕方ないだろー」

「はぁまぁ…そうですけど…」

やれやれと言いたげにリョウは大きく溜息を零すと、立ち上がり囲炉裏へと向かう。肩越しに振り返って俺へと呆れたように笑って見せると、着物の袖をたくし上げながら鍋を持ち上げた。

「仕方ないですね、今すぐ用意するから待っててください」

「わーい!何かなー何かなー」

「残念ながら我が家には蓄えがないので、ほぼ水の雑炊です」

「え…」

「何か文句でも?」

「アリマセン…」

ちぇーと口を尖らせる俺を笑いながら、リョウが忙しなく動き回る。優しい人だ。俺は、この優しい人を絶対に死なせてはいけないと思う。命を救ってもらった恩人ということもあるけれど、誰かのためにこれだけに必死になってくれる彼女のような人を不幸にしてはいけないことぐらい俺だってわかる。忍者としては失格かもしれない。でも、俺は人間だ。彼女に救われた命なら、彼女のために使いたい。だから、もしもを恐れてリョウの傍を離れて後悔するくらいなら、リョウの傍で俺が彼女を守り抜こう。この笑顔を絶やさせないために。この優しい空気に少しでも長く触れていたいから。


「リョウ」

「なんですか、言っとくけど米はこれ以上増量できませんよ」

「尾浜勘右衛門、」

「………はい?」

キョトンとした顔が、こちらを向く。自分を指差してみせながら、俺はニコリと笑顔を浮かべた。



「俺の名前」

「あ、はい…よろしくお願いします」

「長い付き合いになると思うから、よろしくね」

「…………え?」








これが、君と俺との始まりの話




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