私を導くその掌に連れられるまま、走って走って走って。力強く私の手首を握り締めるその手へと徐に視線を向ければ、幼い頃はなかった筈の小さな傷がいくつもその手に残っている。咄嗟に前を駆けるその背中へと視線を移せば、緩やかな黒髪が弧を描くようにその背中に揺れている。月日は、私へと小さな勇気を分け与えてくれたけれど、それと同時にいつかの小さな男の子だった筈の彼は、いつの間にか「男の人」に変わっていて。

私にはそれがどうしようもなく、胸を騒がせるのだった。




「リョウちゃーん!!!」

門前を掃く手を止めて振り返れば、バタバタと慌しく同じく事務員の小松田さんが私の元へと駆けてきた。何事だろうかと箒を壁へと預け、ぜぇはぁと苦しげに呼吸を繰り返している小松田さんの下へと向かう。また何かやらかしてしまったのだろうか。ここへ来てからもうすぐ半年になるが、彼の驚きの行動には毎度毎度目を見開くばかりだ。

「…ど、どうしました…?」

「聞いてよぉー!吉野先生に頼まれてた書類が転んだ拍子に全部風で舞っちゃって、今集めてたんだけど僕一人じゃ回収しきれないんだよぉ」

「はぁ…書類ですか…」

「何枚かは拾ってみたけど、もうキリがなくて…手伝ってもらえるとありがたいんだけど…」

「はい、分かりました」

「ありがとー!助かるよぉ!」

へにゃりと気の抜けるように笑うが、すぐさまこうしちゃいられないと小松田さんは表情を一変させて元来た道を再び駆け戻っていく。コロコロ表情が変わって、面白い人だ。くすりと笑みを零してから、私も学園中に散らばったその書類を探すためにその門を潜り抜けた。

「あー…引っかかっちゃってる…」

手を目の上に翳しながら背の高い木を見上げれば、その青々と茂る枝葉の片隅に真っ白い半紙が引っ掛かって風に揺られている。少しでも強い風が吹けばそれは再びどこかへと飛んで行ってしまいそうなほどに不安定で、そうなればまた探すのに苦労させられそうだ。学園の外へ出て行ってしまったとしたらそれこそ問題である。仕方ない、と一度溜息を零して、ゴツゴツとした木の幹へと足を掛けた。事務員の制服が忍装束で本当に良かったと思う。着物だったら足を丸出しにして登る羽目になるところだった。よっと声を漏らしながら、滑りやすい木肌を慎重に登り詰める。枝に手を掛けて、ぐいっと自分の体重を持ち上げながら、目的のその枝まで手を伸ばす。

(なんか、昔もやったなぁ…木登り…)

馬車馬の如く働かされ、全身疲労しているのにどうしても眠れなかった夜。あの家を抜け出して村はずれの大きな木の下で、いつも私は泣いていた。孤独と口に出来ない不安とそして辛さ。それを吐露してしまう場所が欲しくて、私はその木の下でいつも泣いていた。そんなある日、頭上から聞き覚えのある声が降ってきたのだ。

”また泣いてるのか”

その声に驚いて木を上を振り仰げば、いつか町で知り合った少年が枝に座って私を見下ろしていた。暗闇に溶け込むような黒髪が、風に揺れる。月明かりに照らされて、その瞳が薄っすらと月色に輝いていた。

”今日ぐらい、泣いてないで月を見ろ。満月だぞ”

兵助の淡々とした声音がまるで月明かりのように頭上から淡く降り注ぐ。その言葉に夜空を見上げれば、まるで切り取られたように白銀に輝く月が私を見下ろしていた。その瞬間、私の心に芽生えたのは寂しいでも辛いでも悲しいでもない。ただ一つ、綺麗だという感情だけだった。

(よく兵助と、隠れてお月見したっけ)

そんな遠い昔を思い返しながら、私はようやく目的の枝まで登り詰める。手をいっぱいまで伸ばして風に揺れる今にも飛んでしまいそうな半紙を手にすると、ほっと安堵の息をついた。とりあえず一枚は回収だ。きっと未だ小松田さんはあたふたと学園中を駆け回っているだろうから、私も手伝いにいかなくては。登って来た時と同じ経路を辿るようにそろりと足を枝に掛ける。

「っわ!」

その瞬間だった。ずるりと表面の皮が滑って私の身体が不安定に傾く。しがみ付く様に手にしていた枝へと回る腕に力を入れて、どうにか持ち堪えるが間一髪というところで落下を免れた。一瞬にして早鐘のようになった鼓動と、掌の嫌な汗を自覚しながら、思わず下を見てしまう。思っていたよりも遠い地面に、思わず私は身を竦めた。だから、下を見ないようにしていたのに。急激に心に駆り立てる恐怖心が、中途半端に木の幹に掛けられた私の足を動けなくさせる。半分木からずり落ちたような体制のまま、不安定に固まる私の身体は恐らく傍から見たらそうとう間抜けなのだろう。降りられなくなるなら登らなければ良いのに。そんな言葉を昔兵助に言われたような覚えがある。けれど、どうしても兵助と同じ場所で、同じ目線で、月を見上げたくてガチガチの身体を引っ張り上げられながら登った挙句、降りられなくなった覚えがある。

ああもう、あの時から私…何にも成長していない


右も左も分からないまま、兵助に導かれるままにこの学園へと連れられ、そこで私はこの学園で兵助がどう過ごしているのかを思い知った。五年生として時には下級生を纏め上げ、文武両道且つ成績も優秀。そんな立派に成長した兵助の隣で、私は何も変わらないちっぽけな自分を恥じることしかできなかった。兵助との約束を信じて、あの家から決して離れなかった私。ねぇそれって、他力本願って言葉以外の一体何が当てはまるというの?


「リョウ」


透き通るような響きのその声が、私の鼓膜に響き渡る。無意識か否か、思わず私は肩を震わせた。そろりとその声を辿れば、私を見上げるように兵助が佇んでいる。

「なにしてるんだ?そんなところで…」

「…しょ、書類を…」

「書類?ああ、小松田さんが騒いでたあれか」

「…書類が木の枝に引っ掛かってたから、今登って回収してたの」

兵助の顔を見ないまま、そう言葉を返す。今から降りるところだというところを示すように、不安定な足をゆっくりと動かした。けれどもどうにも安定しなくて、何度も窪みを足で探る。

「…降りないのか?」

「…お、降りるよ…今降りようかなって思ってたとこ」

「ふーん?」

口ではそう言うもののその場所から微動だにしない私に、兵助は絶対気付いている。気付いてて、じいっとその様子を眺めてるんだから、兵助は時々意地悪だ。これで無様に転がり落ちたりすれば、それ見たことかときっと笑われるだろうな。しかし落ちたら落ちたで、それは痛いなんてもんじゃ済まされなそうだ。

「降りれないなら登らなければいいのに」

「!」

いつかと同じ台詞が、地上から聞こえる。かぁっと思わず羞恥から顔が赤くなるのが分かる。何だか悔しくて、ぎゅうっと唇を噛み締めた。変わらない私を、兵助は一体どう思っているのだろう。怖くて、その顔が見れない。兵助に呆れられてしまったら、私はもう行く場所なんてない。他力本願でも何でも、私は誰かに助けられなければ生きてはいけないほどにちっぽけで、弱い生き物なんだ。

「降りれる、から…兵助は向こうで小松田さんの手伝いしてきて」

「……………」

「私、小さい頃とは違うんだよ…ちゃんと一人で降りれるから…だから、」

木の肌を握る自分の手が真っ白になっている。惨めで、情けなくて、何の価値も見出せない自分に嫌気が差していた。兵助がどこかへ行ったら、怪我してもいいから一人で降りよう。運がよければ、何事もなく降りれるかもしれない。大丈夫、私は、一人だって、大丈夫、だって…兵助の隣にいるためなら、私はもっと強くならなきゃいけない。

「リョウ」

「兵助…」

「ん、」

恐る恐る兵助へと視線を向ければ、驚いたことに彼は大きく腕を広げて木の下で私を見上げていた。え?と一瞬首を傾げたくなるものの、これはどう考えても、

「と、飛び降りろってこと…?!」

「うん」

「む、無理無理無理!!」

真っ青になって首を左右に振る私に、兵助は何故?とでも言いたげに首を傾げていた。何故ってこんなところから飛び降りろというその心が分からない。受け止め切れなかったらどうするんだ。兵助まで怪我をさせてしまう。

「ダメだよ…!だって、もし受け止めれなかったら兵助怪我しちゃうよ!」

「大丈夫、受け止められるから」

「なんでそんな自信満々なの!?いくら兵助が昔よりも成長したからって、こればっかりは…!」

「え、俺成長した?」

「…それでしてないつもりだったの…?」

何故か嬉しそうに顔を綻ばせた兵助に、思わず突っ込んでしまう。何だか兵助は、昔よりも随分と読めなくなった。大体なんで嬉しそうにするのか全然分からない。

「兵助は…成長したでしょ…、頼もしくなったし…私よりずっと大きいし」

「…リョウ?」

「私は、何も変わらないままで…木登りだって昔から下手だし…誰かに助けられなきゃ生きていけないような、子どものままだもん…」

思わず口にしてしまった言葉が、ぽろりと零れ落ちる。兵助の真っ直ぐな瞳を私は見返せない。兵助と共に来れたこと、決して後悔はしていない。あの地獄から助けてくれたこと、どんなに感謝してもし尽くせない。けれど、私は自分勝手な感情に苛まれるばかりだ。いっそのこと、子どものままいられたのなら、どんなにか良かっただろう。彼も私も、永遠に変わらない世界で、あの月が欠けない夜のまま、ずっと一緒にいられたらどんなにか幸せなのだろう。

「リョウは変わらないな」

「…そんなの…っ」

「でも、だから俺は昔から、リョウが好きだ」

「……は、え…?」

兵助の言葉に、紡ごうとしたその言葉の続きを忘れる。

「俺が変わったっていうなら、それはリョウを助けるためだから。だから、他でもないリョウがそう言ってくれるなら、俺はそれが一番嬉しい。リョウには俺だけを頼って欲しい」

「……………」

「なぁリョウ、お前は小さい頃からずっと、たった一人で、辛くても苦しくても、負けないでここまで生きてきたんだろう。どんなに逃げ出したくても何回泣いても、あの場所に踏みとどまっていただろ。俺との約束を、忘れないでいてくれただろ」

「……兵助、」

「だから、もう一人で頑張らなくていいよ。これからは俺がいる。リョウの傍にいるために、俺はあの時リョウをあの場所から連れ出したんだから」

柔らかく微笑んだ兵助が、そう言って再び腕を広げる。小さい頃よりも、ずっとずっと逞しくなったその腕も、傷だらけの掌も、けれど何も変わらないその優しい笑みも、今は私のためだけに差し伸べられている。


兵助との約束があったから、私は今まで生きてこれた。
兵助がいてくれたから、私はこれからも生きていける。

いつだって、一番信じてる。


腕の力が抜けて、足裏が木の幹を蹴る。
一瞬ふわりと浮上した身体は、風を受けて吸い込まれるようにその腕へと落ちた。飛び込んだ瞬間、衝撃を和らげるようにきつく抱き締められる。縋りついた指先が、その胸元を握り締めた。暖かくて、優しくて、私だけのための居場所。涙で滲みかけた視界を誤魔化そうと、顔をぎゅうと押し付けた。


「…ありがとう」


私を、救ってくれて。
私の、傍にいてくれて。



変わらないもの




「でも、リョウも変わったところあると思うけど」

「ど、どこらへん…!?」

「わかんない?」

「え?う…うん、」

「…リョウは、」


”綺麗になった”


そう耳元で囁いた言葉に全身真っ赤になった私を見て、兵助は笑って見せた。



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