”勿忘草と紫苑の花言葉の違いって知ってる?”

どこか遠くで、誰かがそう尋ねる声が聞こえる。まるで深い海の底で揺蕩うかのように霞がかった意識の元で、私の耳はその言葉を拾い上げた。その楽しげに誰かへと問い掛けるような声音にはひどく聞き覚えがあり、けれども誰かと言われればハッキリと答えを口に出せない程に曖昧で朧気なものであった。どこか、そう心よりもずっとずっとその奥、まるで魂に刻まれているかのような錯覚。映写機で目の前に映し出されるかのように、磨りガラス越しのように私の目の前でくるくると色が踊った。不確定で、まるで消えてしまいそうな幻みたいで、けれども泣きたくなるほどの愛しさが胸をいっぱいにして、私の喉をつまらせた。ああ、私はこの光景を知っている。私と彼が生きた世界。そして、私と彼が死んでいった世界。そして、終わらない約束を交わした世界。


あ、でもちょっと待って。
それじゃあ、一体…


―――その、彼とは誰のことなのだろう。




「おい、リョウ」


微温湯から唐突に引き上げられるように、その声に私はハッと覚醒した。茜が差し込む光が目に痛くて思わず眉間に皺を寄せるが、微睡む意識をハッキリさせるためかバサリという音と共に、頭に小さな衝撃を受ける。

「寝すぎだアホ、もう夕方だぞ」

呆れたようにため息をつくその声をと私の頭をはたいた紙の束を手にするその腕を辿る。三郎が思っていた通りに眉をしかめながらこちらを見下ろしていた。

「あ、三郎…」

「『あ、三郎…』じゃねぇだろ。俺が起こさなかったら一体いつまで寝こけるつもりだ」

「あ、あれ?みんないない…って嘘!?放課後?!」

「だからさっきからそう言ってんだろ」

ガタンと勢いよく席を立った私へと肩を竦めてみせながら、三郎はバサバサとその手にしている紙を抱えなおす。あちゃーと額に掌を当てながら、恐々三郎の顔を覗き見れば、半目でじいっと見返された後、小さく笑って「帰るぞ」とだけ私へ寄越した。

「三郎、なにその紙」

「担任から日直への有難いお仕事」

「げっ、って日直私じゃん!」

「おう、俺とお前だっつーのにお前はぐーすか寝てるしな」

「うっわ…ごめんなさい三郎様」

「ん、ダッツで勘弁してやる」

「なん…だと…!!」

ダッツは高いせめてスーパーなカップにしろ!と私が喚くも、飄々と受け流されてしまう。まぁ、でも日直の仕事全部やってくれたんだしなぁ…と財布と相談を意識の片隅でしながら、私達は職員室の扉に手を掛けた。

「失礼しまーす、日直でーす」

「おう、悪いな」

「本当っすよ、先生人使い荒すぎ」

「まぁまぁ、荒いついでにこれも頼まれてくれないか」

「えー!!」

「佐々木は日直の仕事何もしてないんだろ、先生は知ってるぞ」

「うっ…」

「その通りっす」

「さ、三郎!」

いけしゃあしゃあとチクりやがった三郎の口を塞ぎつつ、ほれみろとでも言いたげな表情ででこちらを見る担任にうぐぐと言い返す言葉もなくなる。パッと爽やかな笑顔で頼んだぞ!と差し出されたそれは一冊の本だった。

「図書室に返しておいてくれ」

「えー!自分で返せばいいじゃないですかー」

「先生も忙しいんだ、頼んだぞ」

「……………」

半ば押し付けられたようなそれを渋々受け取り、私と三郎は職員室を後にした。先生め…忙しいとか何とか言って本当はもう今頃はいそいそ帰り支度なんかを始めてるに違いない。これだから大人ってのは人使いが荒い。ぶちぶちと心の中で文句を垂れてみるものの、足は素直に図書室へ向かっている辺り私も小心者であると思う。どこか遠くで夕暮れを告げる鐘が響いている。あっとなって傍らを歩いていた三郎を見上げた。

「私これ返して来るから、三郎先に帰ってていいよ」

他の日直の仕事全部任せちゃったし、とヒラリと本を持ち上げてみせる。歴史の資料のようなそれは少しばかり表紙が色褪せていて古めかしい。三郎は一瞬その本を目で追うように視線を彷徨わせると、何とも言えない表情を浮かべた後でぐいっと私の腕を引いた。

「いや、俺も行く」

「え?あ、うん…ありがと…」

三郎に引きずられるような格好で図書室へと向かう私達の間には、何故か奇妙な沈黙が流れていた。三郎は、いつ頃だったかはっきり覚えてはいないけれど、何かにつけてはこうして私の傍へいるようになった。それは本当に唐突な出来事で、まるで縋りつく子供のように私を抱き締めながら、彼はただひたすらに私へと好きだと告げたのだ。あの時は、突然過ぎて私も頭の中真っ白になるわ何故だか知らないけれど涙は出てくるわ、馬鹿みたいにボロボロ泣きながら三郎の背中へと手を回してしまったけれど。あれが一体どういう感情で、そしてどういう意味なのか、私には理解できないままでいる。

「失礼しまーす…って誰もいないか」

ガラリと乾いた引き戸の音を響かせながら、図書室へと足を踏み入れる。古本の独特な匂いが立ち込めているが、私は別段この匂いが嫌いではない。何だか懐かしい気持ちにさせてくれる。オレンジの光が差し込む室内を見渡して、様々な本の立ち並ぶ書棚へと向かう。本の背表紙に貼られたラベルを見ながら、該当する書棚を一つ一つ見回す。しっかり戻しておかないとここの図書委員に何を言われるか分からない。んー、と声を漏らしながら本棚を覗き込む私の後ろを、三郎が静かに付いて来る。ぼんやりと窓の外を眺めているのか本に視線を移しているのか定かではないが、どうにもぼんやりとしている様子が傍目に映った。

「あ、あったあった」

少しばかり開いた隙間とラベルを見返しながら、ようやくあるべき場所を見つけて私が声を上げる。歴史の資料集が立ち並ぶこの一角は、どうやら日本史関連の本が集められた場所らしい。興味もへったくれもない私にとっては足を踏み入れたこともない場所だ。何はともあれさっさと返却してしまおうと、少しばかり高い位置にあるその場所に手を伸ばす。背伸びをしてどうにか届く高さの場所へと手を一杯に伸ばしながら、本を戻そうと奮闘するが、それより早く真横から伸びた指先が私から本を取り上げると、すとんとあるべき場所へと本を納めてしまった。

「…ありがとうございます」

「どういたしまして、おチビさん」

「チビじゃないし、平均値ですぅー」

「へいへい」

面倒くさそうにそう言って背を向けた三郎の背中にあっかんべーを返して、むくれたままさっきの本を思わず見上げた。そうやって届かない本を仕舞ってあげるとかベタなシチュエーションにときめくと思ったら大間違いだぜ三郎君。ふーんだと忌々しげに高い位置の本達を一瞥していたその時、ふと視界の端に一冊の本が目に付いた。

「あれ…この本、場所違う」

古ぼけた色の中に混じって、一冊の鮮やかな背表紙が目に留まる。手を伸ばしてみれば、薄紫の表紙に色とりどりの花の絵が施された装丁が現れた。ワインレッドの文字で、その本の中心に綺麗な明朝体の文字が躍る。

「…花言葉、」



”勿忘草と紫苑の花言葉”



その一文がふと頭を過ぎる。楽しげに誰かがそれを問い掛ける声が思考の海でまるで泡沫のように浮かんで弾ける。目はこの本の表紙に向けられているのに、私の目の前に写る映像はまるで別世界かのように忙しない。辿るようにその声と磨りガラス越しの記憶を何度も反芻させるが、結局私はいつまで経ってもその答えには辿り着けないままなのだ。夢か現実か、それすらも曖昧な世界に半分ずつ身も心も飲み込まれるように、現実での私の身体はその一瞬温度も感覚も失う。奇妙な体験だった。

「三郎」

ようやく動いた唇が紡いだのは、新刊入庫の棚の前でペラペラと本を捲っていた三郎の名前だった。僅かに掠れた様なか細い声だったにも関わらず、三郎はパッと顔を上げるとそれまで手にしていた本を興味なさ気に棚へと戻し、こちらへと歩み寄ってきた。

「…花言葉?」

私の手にしている本へ視線を向け、三郎は鼻の頭に皺を寄せる。奇妙なものでも見るかのようなその視線に本来ならばどつき回してやるとこだが、何となくそんな気分じゃなくてゆっくりと三郎の瞳を見上げた。

楽しげに問い掛けた、誰かの声が蘇る。


「勿忘草と紫苑の花言葉の違いって知ってる?」


私のその言葉に、一瞬三郎の身体が強張る。不思議に思って瞳を見つめ返せば、僅かに驚きを孕んだような視線が私のそれと交わった。言葉を詰まらせたかのように、三郎の喉がゆっくりと嚥下する。頭の中の映像のような気軽さは、そこにはなかった。重々しい沈黙が私達の間に流れて、私の心臓は徐々に早鐘のようになっていく。もしかして、私はまずいことを聞いてしまったのだろうか。わけの分からない不安だけが積もっていく。理由が分からないから更に辛い。ただ純粋に、唇から零れ落ちた疑問のつもりだった。楽しげに問い掛けるその答えは、私にも分からなかった。分からなかったけれど、どうにもその声の響きが、自分自身に似ているような気がしてならなかったのだ。

表情を固まらせた三郎が、少しだけ泣きそうに笑った。なんだか、嬉しそうでけれども寂しそうで、そして深い慈愛を湛えるかのような微笑みを浮かべて、そっと瞳を伏せた。ゆっくりとその腕が私へと伸ばされて、表情の見えないまま三郎の額が私の肩へと預けられる。縋るようにきつく私のシャツを握り締める三郎の指先に、ぎゅうと力が込められた。まるでデジャヴ。あの時と同じように、三郎はまるで壊れ物に触れるかのように私を抱き締める。きつくて、でも弱弱しくて、私はそんな三郎に抗う術を知らない。ざわめくように胸が早まって、息が苦しい。

私の意識の奥底で、声なき声がこう叫ぶのだ。



『もしもまた出逢えたら、次はもう離さないから』



「っ!」

バサリと手にしていた本が音を立てて床に落ちる。私の身体に伝わるこの鼓動は三郎のものだろうか。私の身体に伝わるこの熱は三郎のものだろうか。吐息は、感触は、感情は、一体誰のものだろうか。そして、悲しくないのにも関わらず零れ落ちるこの涙は、一体誰のものなのだろうか。

「勿忘草がお前で、紫苑は俺」

「…え?」

唐突に鼓膜を揺らした言葉に、私は三郎を見遣る。顔を上げないまま、それきり三郎は押し黙る。勿忘草が私で、紫苑が三郎。謎掛けだろうか。花言葉に明るくない私にはそれが何を意味するのか分からない。

「その質問、またされるとは思ってもみなかった」

「また…?」

「そう、また」

ようやく顔を上げるが、疑問符を頭に散らせる私へと三郎はそれきり何も言わなかった。頬へと伸ばされた三郎の指先が、ただ温かくて心地いい。深い色を帯びたその瞳を見つめれば、茜色に染まった景色の中でまるで溶けてしまいそうな程に優しく微笑む。

「いいんだ、その答えはもう出てるから」

「…私、わかんないよ」

「わかんなくて、いい」

――ここにいてくれるなら、それでいい。

そう呟く三郎が、幸せそうに笑う。頬に伸びた指先が私の指先へと伸ばされて、絡め取られる。暖かくて、どうしてかそれに泣きそうになる。暖かいってことがどうしてこんなに嬉しいのか、幸せなのか、私には分からない。けれど、三郎とこうしてこの先もこの掌を繋いでいられるのなら。

きっとそれが、
私にとってのかけがえのない答えなのだ。



Missing




”勿忘草と紫苑の花言葉の違い?”

”そう!分かる?分かんないでしょどうせ”

”勿忘草は『私を忘れないで』だろ?それしか知らねぇし”

”まぁ、私も詳しいわけじゃないんだけどね”

”なんだそりゃ”

”だから三郎に教えてあげる。紫苑の花言葉”

”はぁ?”

”だから三郎、ずっと覚えてて”

”…………”

”勿忘草は私で、紫苑は三郎。そうすれば、きっとずっと繋がってる”

”…縁起悪いこと言うなよ”

”だって、卒業したらどこでどうなるか分かんないでしょ?だから約束”

”約束、ね”

”いい?三郎。紫苑の花言葉はね、”




『君を忘れない』



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