「ってそうはさせないから」

「んぎゃ!!」

駆け出そうとした私の小袖の袖を思い切り引かれ、雨にぬかるむ地面で見事にひっくり返った私は、後ろで構えていた尾浜さんの腕の中へとすっぽりと収まる。一瞬にして視界が逆さまの尾浜さんと雨空に移り変わり、正直私は目を点にして固まる。あれ、私一世一代の覚悟を決めて囮になる気満々で駆け出したんだけど。勢いの削がれた私のこの空回りする気合はどこへ向けたらいいのだろうか。じいっと逆さまの尾浜さんに見下ろされ、私はようやく自分がどんな体勢になっているか理解する。ひっくり返って見事尾浜さんに受け止められたこの状況は、尾浜さんの腕の中だ。

「ちょ、何してんですか!?」

「それはこっちの科白だよ、何勝手に自暴自棄になってんの」

「自暴自棄!?ってそんなこと言ってる場合じゃ…」

「俺らが動かなきゃ向こうからは動かないよ」

真っ直ぐ見つめられながらそう問われると、ぐうと押し黙るしかない。大きく溜息を吐き出しながら、尾浜さんはずいっと体を屈めて顔を近づけた。さらりと頬に尾浜さんの髪が触れる。

「リョウを死なせる気もないし、俺も死ぬ気なんてこれっぽっちもない」

「だって…、」

じんわりと視界が滲む。雨粒が尾浜さんの頬から顎を伝って、ぽつりと私の頬へと零れ落ちた。冷たい雨の中で感じる尾浜さんの体温が、私の中の不安を溶かしていく。

「だって、尾浜さんこのままじゃ、私みたいな足手まといがいたんじゃ、」

「はい、それ以上は禁止」

すっと掌で口元を覆われて、その先を遮られる。瞳だけで必死で訴えていれば、気の抜けるような笑顔を浮かべて尾浜さんが笑う。私を抱きしめる腕に僅かに力が込められて、体温が近付いた。

「ねぇ、初めに言ったでしょ」

「………………」

「”リョウのことは俺が守るから、だから俺と一緒に逃げてくれ”って」

それは、一番最初のあの日。私の運命を変えた一言が脳裏に蘇る。強い眼差しが私を射抜いて、有無を言わさせない。そっと口を覆う掌が離れて、唇を噛み締める私の口元をその長い指先が辿る。

「リョウは巻き込んだ負い目だけで俺がこうして守ってるんだと思ってるんだろ?」

「……違うんですか」

「違うよ、忍者はそこまで恩に厚い生き物じゃない。もっと利己的で狡猾だよ」

「じゃあ、何で」

「まだ分からない?」

くすりと僅かな笑い声が漏れて、私を見つめる尾浜さんの瞳が細まる。こんな状況なのに、カッと顔が熱くなる。唇を辿った指先が、ゆっくりと頬の輪郭をなぞり上げる。熱の篭った視線が私へと落とされて、言葉はないままなのにその答えを突きつけられているかのようだ。

「さっきリョウが言ってた、この森を抜けたら俺に言いたいことってなに?」

「あ、あれは…」

視線を泳がせるが、尾浜さんの強い眼差しからは逃げられない。口篭もる私を見透かしたかのように、尾浜さんはそっと私の額へと口付ける。ぎょっと目を剥いて、私は口付けられた額へ掌を当てる。熱い。何これ、どうすればいいかわからない。尾浜さんの言葉に踊らされるように、私の心は騒ぎ立てる。

「リョウ、好きだって言って」

「……え!?」

「その一言だけで、俺は生き抜いて見せるから」

この鬱蒼とした森で、尾浜さんだけが私にとっては光に見える。仕舞い込んだ心の中の欠片が、淡く私の胸に浮かんだ。熱に浮かされるように、私の唇が尾浜さんのそれを追いかける。冷たい雨に濡れたその感触は、どこか熱くて私の思考すらも奪っていった。交し合う熱に、ぎゅうと瞳を閉じれば抱きしめる尾浜さんの腕も強まる。ようやく離れれば、私はうわ言のように尾浜さんへの言葉を呟く。

「好き、」

「うん」

「好きです、尾浜さんが好きです」

「俺も、初めて助けて貰ったあの瞬間から、一目惚れ」

「だから、生きて」

また私と一緒に逃げましょう、そう零して笑えば、もう一度口付けが落とされて、尾浜さんが曇天を振り仰ぐ。場違いな笑みを浮かべて、その瞳が光を宿す。カッと空に閃光が奔る。やや遅れて轟く轟音。大きく息を吸い込んで、尾浜さんの声がこの森に響く。

「おーい!!準備できたらそろそろやっちゃってー!!!」

「!?」

は?と私が呆けた一瞬後である。ドサッとどこかから鈍い音がして、その方角へと目を向ければいつか見たあの忍者姿の男が地面に蹲っていた。その次にもまた背後で同じ音が響く。え?え?と視線を四方八方へ向ける私とは反対に、尾浜さんはニコニコと笑っている。え、なにこの状況。理解が出来ない。

「あ、あの…尾浜さん…これは一体…」

「ああ、あいつらやっと到着したみたいでさ」

「あ、あいつら…?」

「おい、勘右衛門!」

「!?」

背後で聞こえた声に慌てて振り返れば、尾浜さんと同じような忍者服の男が呆れたように仁王立ちをしている。逃げ腰で尾浜さんへとしがみ付けば、暢気に「あ、三郎〜」などとその男へ向けて手を上げている。

「…お前、助けて欲しいなんて連絡寄越すから何かと思えば…イチャイチャイチャイチャ…何なんだ一体!?」

「いやぁ〜、そろそろあっちも本気出してきたからさ〜、さすがに俺一人じゃ対処しきれないかな?って思って応援頼んだんだけど、良い所に来てくれて良かったよ」

「お、尾浜さん?これは一体…」

「あ、こいつ鉢屋三郎。俺の学生の頃からの友人の一人、あとは…」

おーい、と尾浜さんが森へと声を掛ければ、ドサリと落ちてきた忍者の傍らに一人また一人と影が姿を現す。こちらへと歩み寄ってきた三人を見渡して、私は混乱の渦に襲われる。

「兵助に雷蔵に、八左ヱ門。みんな俺の友人だよ」

「え、尾浜さん…もしかしてこれ見越して…」

「まぁね、そろそろ来る頃かな〜って思ってたのにリョウ飛び出しそうになるからビビったよ」

「………………」

絶句した。私の、あの死ぬ気の覚悟やらいじらしくも流した涙やら今思い出せば死にたいくらい恥ずかしい告白大会とか、全てを思い返してもう二の句が次げなくなった。分かってるなら、どうしてあんな…あんな絶望的な表情しやがったんだこの野郎。返せ、私の涙やら初めての口付けやら全部、全部全部全部…

「返せー!!!!」

「駄目駄目、もう言質は取ったんだから。証人はここにいる全員ね」

「こ…この性悪忍者…!!」

「だから言ったでしょ、忍者はもっと利己的で狡猾だって」

「狡猾にも程があるわこの大馬鹿野郎ー!!!尾浜さんなんか大嫌いだー!」

「はいはい、大好きなくせに」

襟首を揺さぶってもヘラヘラ笑う尾浜さんには全く通用しない。ギリギリと歯噛みしながら悔しがれば、ぽんと誰かの掌が肩へ落とされた。

「諦めろ」

哀れみ半分呆れ半分な苦笑を浮かべながら、三郎と呼ばれた男の人はそう告げる。三郎さんの向こう側では同じような表情の三人がこちらを見て笑っていた。なに、何なのこの逃げられないような状況。私やっぱり、色んなところで人生の選択肢を間違えてる気がする。

「……何なんですか本当にもう…」

「さくっと黒幕始末して、今度は俺と本当の新婚生活送ろう」

大丈夫、こいつらに手伝ってもらえばちょちょいのちょいだから!朗らかに笑う尾浜さんが、何だか今までで一番の悪党に見える。擬似夫婦じゃなくて、本当の夫婦に。その言葉に一瞬胸が高鳴ったのは内緒の話だ。私の手を取って、ゆっくりと尾浜さんが立ち上がる。この温かい手のひらが、私を導いて、翻弄して、そして離れないようにと強く繋ぐ。ひっくり返った私の人生の行く末はまだまだ見えない。


「さぁてリョウ、今度はどこへ逃げようか」






あなたとなら何処までも!





「子どもは何人がいい?」

「いい加減にしろよこの腹黒忍者が」

「勘ちゃん幸せそうで何よりだな」

「兵助、お前一体何を見てそれを言ってるんだ」

「ったく…勘右衛門の奴たっぷり報酬は貰うからな」

「まぁ、めでたしめでたし?なのかな…うーん」



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