夜明けを告げる鳥の声を耳にしながら、東の空を淡く染める太陽を見つめて大きく伸びをする。今日も良い日になりますようにと太陽へと手を合わせていると、背後から隣の家のおばちゃんがにこやかに挨拶を交わしてきた。

「お早うリョウちゃん」

「おはようございます!」

「どう?越してきてから、ここでの生活は慣れた?」

「はい、皆さん親切にしてくださるのですっかり馴染めました」

桶を手にしながらそう返せば、恰幅のいい体を揺らしながら隣のおばちゃんは豪快に笑った。このおばちゃんには野菜を頂いたり色々とお世話になっている。

「どう?旦那さんとは仲良くやってる?」

キラリと突如としておばちゃんの目が輝く。おばちゃんの言葉に、私は内心ギクリとさせられるが、それを顔に出さないように必死で取り繕う。尾浜さんにも私は嘘をつくのが下手だと言われた。口元に手を当てて小さく笑いながら、どうにか頷く。

「え…ええ、あ…まぁ、ぼちぼち?です」

「そう!いいわねぇ、新婚さんでしょう?旦那さん優しそうだし、幸せねー」

私と旦那も若い頃は、なんて思い出話に突入したおばちゃんを余所に、圧し掛かった罪悪感に口元を引きつらせる。私と尾浜勘右衛門さんは、ここでは新婚ほやほやの若い夫婦ということでご近所には通している。その実際は新婚でもなんでもなくて、ただの同居人なわけなんだけども。なにせ、私のこれまでの人生がひっくり返ったあの日から、私と尾浜さんは辺りを転々としながら周囲の目を欺きつつ、相変わらず波乱万丈な逃亡生活を繰り広げている。

ある時は一週間も山に篭りきりだったり、またある時は手裏剣とかいう武器の雨の中で全力疾走したり、そして今回は夫婦として町へ潜伏。もう波乱万丈とかいう程度の話ではないが、今こうして私が無事生きているのも尾浜さんのお陰というわけである。

「あ、そういえばね昨日あなた達を訪ねてきた人達がいたわよ?」

「……え?」

おばちゃんの言葉に、私は一瞬言葉を失った。

「何て言うか…笠で顔を隠してたからよく分からなかったんだけど…お侍っぽい人達だったような…ご友人の方かしら?」

「き、昨日ですか?!」

「ええ、昨日の夕方ごろかしら?『ここへ新しく越してきた若い夫婦の家はどちらですか』って」

「……!!!!」

「リョウちゃん?!」

その瞬間、私は手にしていた桶を放り出して家へと走った。全身の血がまるで冷え切るような感覚と、ばくばくと鳴り響く心音に私の荒い呼吸音が混ざる。小袖の裾が翻るのも気にする余裕もなく、むしろたくし上げる勢いで家へと駆ける。この逃亡生活で、私が身につけたこと。それは何が私達の生活を脅かす危険になるか、そんな本能めいた危険信号であった。今、その警鐘が全力で鳴り響いている。逃げなくてはいけない。短かった町での生活も今日ここでお別れだ。

「尾浜さん!!大変です昨日ここに…っ、」

叫びながら長屋へと飛び込んだ私の顔の横スレスレを、何かが一瞬にして突き刺さる。あまりに一瞬の出来事過ぎて私の頭は全く追い付けなかったが、恐る恐る真横を見れば、柱に苦無と呼ばれる忍者の武器がぶっすり突き刺さっていた。

「ひいいい!あ、危なかった…!!」

「わ、ちょっとリョウ大丈夫?怪我してない?」

「か、間一髪…」

あわあわと冷や汗をかきながら、その突き刺さった苦無に目を白黒させる。あ、あとちょっとで私もお陀仏だった…一体何だってこんなとこに苦無が、そこで本題を思い出し目の前の尾浜さんへしがみ付いた。

「ってこんなこと言ってる場合じゃないです!隣のおばちゃんが、昨日ここに怪しい男達が私達を訪ねてきたって…!」

「ああ、うん?こいつらのこと?」

「そうですこんな感じの侍の格好して…って」

さっと尾浜さんが部屋の奥へ視線を移す。そこには屍累々とでも言うべきか既に全てが終わったかのように侍姿の男達が積み上げられていた。ああ、この飛んできた苦無はそういうわけですか。あははと私の口から乾いた笑いが零れる。尾浜さんがにっこりと私へと朗らかに笑った。

「というわけでもうバレちゃったから、また逃げよっか!」

「………はい」

実に偽装夫婦約一週間の出来事である。




「ごめん、こんなすぐ見つかるとは俺も思わなかった」

必要最低限の荷物だけをかき集め、再び獣道を忍ぶように駆けている最中、尾浜さんが申し訳なさそうにそう呟く声が聞こえる。え、と顔を上げれば、あの楽観的な尾浜さんにしては珍しく眉をハの字に下げてこちらを覗う様に見つめていた。

「そんな、尾浜さんのせいじゃないでしょう。それに私も逃げるのには慣れましたから、こんな山道くらいどうってことっどぅわぁ!?」

「全く、どこがどうってことないんだか」

木の根に引っかかり躓きかけた私を支え、尾浜さんが苦笑を零す。ようやく笑ってくれた尾浜さんに僅かに安堵しながら、半分尾浜さんに寄りかかるように近付いた距離に内心ドキリとしてしまう。私一人なんて容易く支えてみせるこの腕だとか、細身なのに敵を一網打尽にする体躯だとか、妙に安心感のあるその笑顔だとか、些細なことに私の心は揺さぶられている。そして、私を守ってくれるこの背中を見るたびに、どうしようもない感覚に襲われるのだ。

「す、すみません」

「せっかくだし抱っこでもしようか?それともおんぶ?」

「子ども扱いしないでください!歩けます!」

軽口を叩く尾浜さんを諌めながら、唇を尖らせてフリをして自分の中に蟠るこの何とも言えない感情を悟られないように誤魔化す。尾浜さんが守ってくれなければ一般人である私などきっと明日にでも屍と化しているだろう。こうして逃亡する生活も今ではすっかり日常だ。だからこそ理解している。このモヤモヤに私は気付いてはいけない。尾浜さんは私を巻き込んでしまったと言う負い目からこうして今も私みたいな足手まといを引き連れて命を脅かす何者かから逃げてくれているのだ。逃げて生き延びる、それこそが最優先事項であり、一つ屋根の下で暮らすという状況にドギマギしている場合では全くない。油断大敵馬鹿じゃないの私。

「しばらく町は立ち寄れそうもありませんね」

「そうだね、また山籠りかぁ〜…寒いの嫌だなぁ」

「山小屋か何かあればいいんですけど…まぁでも山は逃げたり隠れたりするには持って来いなんで丁度いいですよ」

「リョウ、いつの間にやらこんなに逞しくなっちゃって…うう」

「うざいですよこの野郎」

背後でさめざめしている尾浜さんをスパッと切り捨て、草の多い茂る道を掻き分け進む。ふと木々の合間から覗く空を見上げれば、あまりよろしくない雲行きが垣間見えた。これは、一雨くるかもしれない。

「リョウ!!!」

「っわぁ!!」

思わぬ衝撃に、視界がぶれる。
真後ろから尾浜さんに押し倒され、私は顔面から地面へ倒れこむ。打ち付けた鼻を擦りながら僅かに顔を上げれば、尾浜さんの掌で再び低く屈まされた。

「頭下げてて、」チラリと視線だけ尾浜さんへと送れば、険しい表情で周囲の様子を覗っている。緊張が伝わり、私自身の背筋もゾクリと冷え渡る。押し殺すように静かに呼吸を繰り返し、瞳だけで周囲の空気を感じ取れば、張り詰めたような感覚が肌を刺すように満ちていた。何日かぶりのこの感覚。これは、命を狙われる前触れだ。

「弱った…数が多い、」

「…え?!」

苦虫を噛んだような表情でそう呟いた尾浜さんに私も素っ頓狂な声を漏らす。今までも割りと大人数で襲撃されたりということはあったが、尾浜さんのこんなに緊迫した表情を見るのは正直初めてだ。

「そんな…どうしましょう尾浜さん」

「落ち着いて、いいからじっとしてて」

どくんどくんと私の心音も呼応するかのように響く。私は、どうすればいい。きっと足手まといにしかならない。隠れていても、こんなところじゃさっさと見つかってしまう。人質になんかなってる場合じゃない。そんな目に遭うくらいなら、尾浜さんに迷惑を掛けるくらいなら、私は。

「尾浜さん」

「…ん?」

「私置いて、逃げてください」

そう零した私へと尾浜さんは目を見開く。掌を握り締めて、一筋伸びる森の切れ目を睨み付けた。眉を顰めて何かを口にしようとした尾浜さんを一瞥して、その言葉を遮る。

「勘違いしないでください、誰も死ぬなんて言ってません」

「リョウ、!」

「バラバラに逃げるんです、私と一緒に逃げてもきっと尾浜さんにとっては足手まといにしかなりません。だから、私はあっちで尾浜さんはこっち。敵を二分すれば、少しは尾浜さんがやっつれるようになりますから」

「だって、それじゃ…」

「私だって、今まで一緒に逃げたんです。逃げ足と、自分の身を守ることぐらいできます。大丈夫、だから」


ここでお別れです


そう微笑めば、泣きそうに顔を歪める尾浜さんが視界に写る。正直な話、逃げ足なんて尾浜さん達忍者のそれに比べたら亀のようなもんだし、自分の身を守るといっても護身術が使えるわけでも、飛び道具や刀が扱えるようになったわけでも、何でもない。これは、私が尾浜さんへつく最初で最後の嘘。

ポツリと、頬に雫が落ちる。曇天が崩れ、ついに空からは雨が降り頻り始めた。鬱蒼とした森へと降り注ぐ雨粒が、一切の音を掻き消していく。冷たい雨の中で見上げた尾浜さんの顔は、まるで泣いてるみたいだった。短い間だったけど、尾浜さんとの逃亡生活楽しかったです。怖かったけどいつも尾浜さんが守ってくれるから、私は安心して笑うことが出来ました。あの日、尾浜さんを助けたこと後悔なんかしていません。最後がどんな形であれ、尾浜さんと逃げ続けた今までの日々を、きっと最後の瞬間まで忘れません。そして、私はそんな尾浜さんを気がつけば好きになってしまいました。言ってる言葉は軽いのに、行動も何もかも優しくて、どんなに不安に押しつぶされそうでも、その大きな掌に包まれれば、どこまでも逃げ切れるような安心感に包まれました。一緒に過ごす朝も、昼も、夜も、思い返せば、もう尾浜さんのことばかり。

伝えたい言葉は溢れてくるのに、唇がちっとも言う事を利かない。雨粒に紛れて頬を滑り落ちていくこれは、きっと私の感情だ。きっと、これが最後になる。伝えたかった言葉の欠片を拾い上げて、静かに胸の奥へと仕舞い込む。これは私が、三途の川の向こう側まで持っていく。そしていつか、また出会えたその時に、きっと彼へと打ち明けよう。だから、彼とはここでお別れだ。

「尾浜さん、今まで私を守ってくれて本当にありがとう」

「………………」

「もしもお互いまた会えたら、そしたら伝えたいことがあるんです」

「………………」

「だから、きっと生きてこの森を抜けてくださいね」

約束です、そう告げた震える唇を噛み締めて私はさっと地面から体を起こす。きっとここからあの森の切れ目まで走ってる間に、私はきっと死ぬ。それでも、尾浜さん一人ならこの状況を突破できるかもしれない。今まで守ってくれた彼への、私の最後の恩返しだ。着物の袂を割って、雨に滴る髪をしっかりと結びなおす。俯いた尾浜さんへと向き直り、最後に笑ってみせた。


「さようなら」



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