それは、通算十三回目となる勤め先からの暇という名のクビを申し付けられたとある日のことでした。 「………何かいる」 明日からの生活をどうしようかと途方に暮れつつ家路に付いていたその途中、陽も落ちて薄暗闇に染まる我が家の前に何かがいた。地面に俯せるようにしてピクリともしないその"何か"は、暗いせいかハッキリ分からない。恐る恐る、着物の端をぎゅうと握り締めながら家の前に倒れているそれへ近付いてみる。近付くと言っても相当離れた距離だが。 「も…、もしもし?」 一括りにされた長い髪は地面に無造作に散らばっているが、土煙にでも巻かれたのか随分と汚れてしまっていた。首に巻かれているらしい布もボロボロでところどころ焦げてしまっている。なんか…見れば見るほどに不審人物。それに、何よりもおかしいのはその格好だ。襟巻き同様にボロボロな上下に分かれた装束は、まるでこの暗闇にでも溶け込むかのような濃紺に染め上げられ、ところどころ裂かれた布地の隙間から見えるのは肌色だ。じりじりと近寄り、ほんの三歩程度の距離に立つ。 うん、やっぱり変な格好。それに何だか、ところどころどす黒いしさっきから鉄臭くて……、 「……?」 はて、鉄臭いとな。 もう一度見下ろしてみる。 どす黒さはじわじわ紺色の装束を浸食していた。 「…血ぃぃぃぃぃー!??」 「あ、リョウおっかえりー!ご飯できてるよ?」 「……………」 「今日も不毛な就職活動お疲れ様!結果は駄目だったんでしょ?もう俺に永久就職しちゃえば?」 「ねーよ」 にへらと笑うこの男こそ、数日前に私が火事場の馬鹿力よろしく家の中へ放り込み、出血し続ける傷口をどうにかこうにか止血し、血止めの薬草と一緒にありったけの包帯で巻き付けた例の男である。名前を尾浜さんと言うらしい。それ以来我が家に住み着かれてしまい、私が職探しのために家を留守にしている間に食事の支度やら何やらをして帰りをにこにこ待ってるという…ってあれ、これ何て良妻?つうか逆だ。色々と。そして無用心なのは今更である。我が家に盗られて困るようなものなど最早皆無だ。 そんなわけで、私はあの日助けたこの得体の知れない男に妙に懐かれてしまったというわけである。全力で後悔。 「あのね、尾浜さん…もう傷も良くなってきたしそろそろ…」 「うん、そろそろ恩返ししないといけないね。身体で」 「何の話だ」 のらりくらりとかわされて、こうやって巧みに誤魔化されてしまう。私は尾浜さんが本当は何者でどうしてあんな傷だらけで私の家の前にぶっ倒れていたのかも全然分からない。けれど、もうそんなことはどうでもいい。本来ならば我が家は明日の食事にも困るほどに家計は火の車なのだ。人を養っている余裕なぞ私にはこれっぽっちもない。故に、尾浜さんには早々にここを出て行って頂かなければならないのである。尾浜さんの腕に巻かれた白い包帯を解きつつ、そんなことをつらつらと考える。怪我はもう随分良くなった。ここに留まっているべき理由はないのだ。私だって一度拾った怪我人を放り出すほどの鬼ではない。ただちょっと金の亡者なだけだ。 「はい、怪我は完治!これでもうここに用は…」 「リョウ、」 一瞬だった。包帯に手を掛けていた私の手をパッと尾浜さんが握ったかと思えば、聞いたことも無いくらい真剣な声が私を呼ぶ。その声に顔を上げた次の瞬間、私は強かに背中を冷たい床に打ち付けることとなる。押されたのは私の肩で、一瞬すぎて何の抵抗もできなかった私の視界に、薄汚れた天井と尾浜さんの冷たい光を湛えた瞳が映った。 あれ、ねぇちょっと待ってください。なんですかこの状況。 ガッツリ私の顔の横に尾浜さんの腕の檻が置かれている。「永久就職」だの「身体で恩返し」だの、調子のいいこと言っておきながら、一度だって私の褥へ入ってきたこともなかったし、こうやって力任せに私を手篭めにしようだなんて尾浜さんは決してしなかった。だから、私も心のどこかで安心してしまっていたのかもしれない。けれど、結局は、男なんてそんなもんなんだ。腸の煮えくり返る感覚と、心のどこかで気を許してしまっていた自分自身の甘さに悔しくて、何故だか視界が滲む。せめて口汚く罵ってやろうと息を吸い込んだ。 「!?んー!!!」 「し、静かに」 「〜〜〜!?んんんー!」 「驚かせてごめん、でもお願いリョウ、」 「…?」 「死なせたくないから、じっとしてて」 その言葉に、私がギョッと目を見開いたのと、尾浜さんの頭上を銀色の何かが横切ったのは、ほぼ同時だった。 「、気付かれた…!」 「え、?はいいい?!なななな、何今の…!」 「リョウ、危ないから絶対起き上がらないで!」 鬼気迫るような尾浜さんの声に、私はわけも分からず頭を抱えて縮こまる。何、何だっての…今一体我が家で何が繰り広げられているんですか誰か教えて。キィンと何か金属同士のぶつかるような音や、何かを殴り飛ばすような音と呻き声が聞こえる。恐る恐る目を開くが、何かもう開くんじゃなかったと全力で後悔する羽目になった。 (なんでうちに刀持った変な男が押しかけてるのぉぉぉ!!?) 2、3人どこからともなく現れては尾浜さんに斬りかかる。何より驚いたのはその格好が、当初尾浜さんを見つけたときに身に着けていたものととても良く似ているからだ。渋柿色やら深草色やら、色の違いはあれどあの独特の形は間違いない。唖然とする私の目の前で、まるでこれまで床に伏せていたのが嘘のように尾浜さんが次々と倒していく。とても身が軽い。鳩尾に思い切り正拳突きを叩き付けたところで、最早その場に立っているのは尾浜さんだけとなっていた。 「な、な、…」 「いやぁ〜びっくりした?」 「び…びっくりしたとかそんなもんじゃない…こ、怖っ…」 突然の出来事に頭が付いていけなくなったのか、戦慄く唇を噛み締めたらぼろりと目から涙が零れた。わ、私そんなに怖かったのか…。無意識過ぎる恐怖心に今更ながらガクガクと全身が震え始めた。分からない、尾浜さんもこの状況も。怖い、冗談じゃない。日常はどこへ消えた。帰って来いよ全速力で。大混乱にざわつく頭をぶんぶんと左右に振り回し、震える掌をぎゅうぎゅう痛いくらいに握り締めた。そこへふと、肩を温もりが包み込んだ。 「本当にごめん、巻き込むつもりはなかったのに…こんなことになっちゃって」 「巻き込む…?」 「実は、リョウが俺を助けてくれたあの日、俺あいつらから逃げてる途中だったんだ」 ぎゅうっと震える私を抱きしめながら、尾浜さんの声が耳元で響く。優しいけれど、真剣な声音に、私は何も言えなくなってしまう。 「怪我だらけで動けなくなったところを、リョウが偶然助けてくれて。だから今、俺はここにいる」 「尾浜さ、」 「リョウが俺のこと助けなければ、きっと巻き込まれないで済んだ。でも、俺を助けたせいで、リョウまで狙われる羽目になった」 「………………」 「助けてくれてありがとう、そしてごめん」 身体を少し離されて、尾浜さんが眉を八の字に下げながら僅かに微笑む。ねぇ、私尾浜さんにそんな顔させるために助けたわけじゃない。生きていて欲しかったから、死んで欲しくなかったから、私は無我夢中であなたの命を繋いだの。だから、私に申し訳なさそうな顔で謝らないで。ぐっと、瞳に力強さを宿らせて、尾浜さんを見つめる。もうこうするしかきっと手は無い。 「尾浜さん」 「え?」 「今すぐここから逃げて!」 私の発した言葉に、尾浜さんはぽかんと抜けた表情をしている。な、何か変なこと言った?いやでも、助かるにはこうする他は手がないのだ。私の肩を掴んでいた尾浜さんの手を、今度は私が握り返す。尾浜さんが怪我が治ってもここから出て行こうとしなかったのは、私を守るためなんでしょう。きっと尾浜さんがいなかったら私はさっきの集団にそれこそ問い詰められ尋問だの何だのされて挙句お陀仏だろう。尾浜さんは、自分の危険も顧みずにここに留まってくれていた。それならば、私が彼に出来ることはたった一つだ。 「大丈夫!私もここは離れて、別のところでまた暮らすから」 「え、いやあの…」 「どうせここじゃもうロクな仕事は見つからないと思ってたから丁度いいし!だから、私のことは気にせず早く逃げて!」 言い切る私の勢いに気圧されながら、尾浜さんがぱちりぱちりと瞳を瞬かせる。 と、思った次の瞬間である。 尾浜さんは突然これでもかというくらいに爆笑し始めた。 「あっはっはっはは!!さ、最高ー!何を言い出すのかと思えば…っくくく!リョウ、本当に面白いよね」 「なっ…私は真剣に、!」 「俺のこと心配してくれてんでしょ?でもだーめ、言ったでしょ?身体で恩返しするって」 「はぁ!?」 素っ頓狂な声を上げた私の唇をその指先でなぞりながら、あの気の抜けるような笑みを浮かべる。片方の肩に添えられた掌がやけに熱い。じんわりと、私を溶かすように熱が広がって私を捕らえる。 「リョウのことは俺が守るから、だから俺と一緒に逃げてくれる?」 その一言に無意識に頷いてしまった私へ、尾浜さんは綻ぶように笑ってみせる。何て優しい言葉の甘い罠。抜け出せない、逃げられない。 これが私の、日常生活から転がり落ちた非日常的な逃亡生活の始まりである。 彼は私の優しい悪魔 「ところで…尾浜さんって結局何者…?」 「尾浜勘右衛門、職業は忍者です」 「忍者!?」 「あれ?言ってなかったっけ?」 「言ってない!ちょ…ってことは敵も忍者…?忍者からの逃亡生活…過酷過ぎる…」 「大丈夫大丈夫!俺が付いてるんだから!」 「ああ…将来安泰の職をさっさと探しとくんだった…」 「それならすぐ見つけられるって」 「そんなもんあればさっさと就職してますよ」 「俺のところに永久就職、どう?」 「わぁい一生掛けての波乱万丈生活だぁー!お断りします」 「ちぇー、割と本気なのに」 |