とある平和な1日の終わりだった。 毎日普通に学校へ登校して、普通に授業受けて、普通に友人達と笑いながら飯食って、そんな学校生活を送ることがあたしの日常になってきて、あたしの中での学校というものがガラリと塗り替えられた毎日が過ぎていく。教師も周りも相変わらずだけれど、それでも不破達があたしの隣にいてくれる方がずっとずっとあたしにとっては嬉しいことだった。 空の色も夕暮れに近付き、家路を急ぐ人や買い物袋を提げた人、様々な人がこの道を過ぎ去っていく。ここをもう少し先へ向かうと不破のバイト先である古本屋がある。少しばかりの期待と照れくささが入り混じり、顔が変に歪んでいるのにハッと気が付くと慌てて眉間に皺を寄せて顔を引き締めた。すれ違った子どもが鬼でも見たかのような驚愕の表情で傍らの母親に泣きついていたが、断じてあたしのせいではない。 「……っ………、!」 「……ん?」 その時だった。あたしの耳が拾い上げた小さな喧騒に、ふと足を止めた。今、どこかで叫ぶようなそんな声が聞こえた。なんとなくな勘だけを頼りに、その声を辿る。あまり穏やかとは呼べない声色だったが…、気のせいだろうか。人気のない裏路地を抜け、大通りから一本奥へ入った細道へ出た。徐々にその声は大きくなっていく。男の突っかかるような声だ。まさか、喧嘩か?だとすればあたしが首を突っ込むべきではない。確実に巻き込まれるからだ。踵を返そうと背を向けた時だった。 「……あ、謝ってるじゃないですか…!」 耳に届いたのは、か細い女の子の声だった。ハッとなって振り返れば、隣町の学校の制服からチラリとあたしと同じ女子の制服が覗いた。明らかにガラの悪そうな3人組と顔色を真っ青にして、縮こまる女子生徒。返し掛けた踵を再び戻して、サッと物陰に隠れる。明らかに友人同士の楽しい会話という場面ではない。でも、ここで出て行けば確実にあたしの場合乱闘騒ぎになってしまう。最近、不破達と一緒にいるお陰でようやくまともになれてきたんだ。こんなことで、また同じ道に戻るなんて、 あたしは、 「は…離して…!」 1人がその腕を力任せに掴む。ごちゃごちゃと色んな思考が回っていたあたしの脳内が、その光景を見た瞬間にたった一つのシンプルな解答を叩き出した。地面を強く蹴る。乱闘騒ぎになる?また不良への道まっしぐら?そんなのどうだっていい。そんな面倒なことを考えなきゃ動けないなら、そんなものクソ食らえだ。 「手を、離しやがれアホんだらぁ!!」 「ブッ!!!!」 「?!っきゃ」 女の子の手を掴んでいた男へ、思い切り飛び蹴りを食らわせてぶっ飛ばす。短く悲鳴を上げて女の子の腕が解放される。数メートル吹っ飛んだ男を一瞥し、スッと女の子と男の間に立ちふさがる。背中に庇った女の子が息を飲む音が聞こえた。地面に横たわる男をマヌケ面で見ていた残りの奴らがこめかみに青筋をこさえてあたしを睨み付けた。負けじとあたしも睨み返す。 「なんだテメェ!?」 「何してんだ突然!」 ガァガァ怒鳴り散らす声が浴びせられ、背後の女の子がビクリと身を竦ませる気配を感じた。肩越しに振り返れば、恐怖とワケの分からない現状に思い切り混乱したような表情を向けられた。ゆっくりと、凍り付いたようにその唇が動く。 「…ば、番長……?!なんで…」 「……いいから、早くあっち行け」 逃げ道を示して、目で促す。え?と戸惑ったように彼女が目を瞬かせた。男共と睨み合ったまま、ぐいっと手でその方角へと彼女を押しやる。早く行け、と再度告げればそろそろとそちらへ足を向かわせる。抱え込んだ鞄をギュッと抱き締め、一瞬足を止める。ポツリとありがとう、と泣きそうな声で零すと彼女はそのまま走っていった。 「テメェ…突然割り込んできといて勝手な真似してんじゃねぇぞ!」 「何があったか知らんが、女相手に馬鹿じゃねぇのかお前ら」 「…んだとぉ…!?」 「あんな怯えに怯えまくった女一人相手に、何を凄んでんだか…情けねぇと思わねぇのかこのカス野郎が!」 一喝し、睨み上げる瞳に力を込める。顔を真っ赤にして怒り狂う様は見ていて滑稽だが、売り言葉に買い言葉、どんどん悪化していく状況にひしひしと嫌な予感がこみ上げた。 「…その制服…あぁ、お前ここらで有名な"番長"だろ」 「…………」 「ぁあ!?あの女の癖にすげぇ喧嘩強ェって噂の…」 男達が眉間に皺を寄せながらあたしへとチラリと視線を向ける。その視線を見返しながら、じっと押し黙って身構える。じわじわと胸から喉元まで這い上がってくるような嫌な予感に、思わず息を飲み下した。こちらへ視線を向けていた一人の男が、小馬鹿にしたような嘲笑を浮かべる。 「ふん…その割りに最近じゃ腑抜けたらしく、真面目に学校生活なんてもんを楽しんじまってるらしいけどなァ」 「はっ、てめぇみてぇなどうしようもない奴が馴染めるもんかよ」 ゲラゲラと下卑た笑いが響き渡る。ぎゅっと握り締めた掌に爪が食い込んで、僅かに痛覚を刺激するが頭のどこかが麻痺したかのように鈍い。ダメだ、ここであたしが乗ったらそれじゃ逆戻りなんだ。脳裏にあいつらの顔が浮かぶ。そんなどうしようもないあたしを受け入れてくれたのはあいつらだけなんだ。あいつらの隣にいるなら、あたしはどうやったって変わらなきゃいけない。こいつらの言うことをいちいち真に受けてなんかいられないんだ。変われなきゃ、あたしは、あいつらの隣にいていい筈がないんだ。 「あ?なんだよマジで腑抜けちまったのかよつまんねぇな」 「ちったぁ何か言い返してみたらどうなんだ?おい!」 「お前らに言うことなんか別にねぇよ」 「んだと…!」 「あたしは、お前らなんかと喧嘩する気がこれっぽっちもねぇんだ。さっさとどっか行け」 地を這うような声があたしの口から零れて、ギッと睨みあげる瞳に力を込める。張り詰めたような空気がそこに満ち、薄紫が掛かり始めた空が夜の帳を下ろし始めた。薄暗いなかで、相手のギラギラした瞳だけが際立って見える。ああ、あたしもあんな目をしていたのだろうか。ふと、そんなことを思った直後だった。 「!」 「てめぇ!人に飛び蹴り食らわせといてどっか行けじゃすまさねぇよ!」 ヒン!と空を切る音がして、咄嗟に身を屈ませて避ける。さっき飛び蹴りで思い切り地面に転がっていた男が擦り傷だらけになりながら怒りに顔を歪ませる。それに便乗するかのように他の奴らもあたしへと拳を振り上げた。 「おい!番長ってのはそんな逃げ回ってりゃなれるもんなのか、よ!」 「………っ!」 寸でのところで避け、その場を飛び退いてじりりと背後の路地に視線を向けるが、どうにも逃げ出せそうな余裕がない。チッと小さい舌打ちをしながら襲い掛かってくる男の足元へ咄嗟に屈んで足払いをかける。どおっと音を立てながら男が地面に転がった。その背中を踏み越えて、逆方向へ駆け出す。 「待てコラァ!!」 「っしっつけぇな!」 掴みかかられそうになったのを避けるが、その際にあたしの髪がビンと相手の袖口のボタンに引っ掛かる。げっと思ったのも一瞬、その一房を手繰り寄せられ思い切り引っ張られる。 「いってぇな!離せチクショウ!」 「ちょこまかしやがって…何が番長だ、逃げ足が速いだけじゃねぇか」 勝ち誇ったような笑みを浮かべながら、男はあたしを見下ろしてそう言う。男は徐にポケットを漁ると、バタフライナイフを取り出してピンとその刃をあたしの髪に当てて、躊躇いもなく引き裂く。パラパラとあたしの髪が風で散った。 「そういや聞いたぜ…お前、最近妙な連中と仲良くしてるらしいじゃねぇか」 「なっ…、」 「男ばっかりたぁお前みたいな女でも色気付くことがあんだな、」 「…っ!!」 ニヤリと嫌な笑みを浮かべて、吐き気のするような言葉を並べ立てる。言葉の一つ一つがまるであたしの神経を逆撫でしていくかのように煩わしい。頭のどこかで鳴っていた警鐘が、思考を真っ赤に染め上げた。ギリッと奥歯を噛んで、爪が食い込んでいることすら忘れて強く握り締める。過ぎるのはあいつらの顔ばかりで、段々薄れて消えていく。その笑顔も、声も、残像のように遠ざかっていく。 ああ、あたしは、どうしたって抜け出せない。 「おまえ…あいつらに何かしてみろよ…っ!ただじゃおかねぇぞ…!」 平和な日常を壊すことなんて、本当に容易くて。作り上げることの方が難しいことをあたしは知った。砂の城のように脆いそれは、激情の波が簡単に崩してしまう。境界線のギリギリに立っていることをあたしは知ってる。そして、あたしがそれを越えてしまいそうなことも。あの優しい世界を守るためなら、あいつらのためなら、あたしはいくらだって、境界線も何でも越えてやるから。あいつらを傷つけることだけは、絶対にあたしが許さない。 「ただじゃおかねぇ?お前みたいな腰抜けがなにするってんだよ」 「…どうして欲しいか言ってみろ」 「はぁ?…っぶ!!!」 素っ頓狂な男の声が聞こえたと同時に走り出し、固く握った拳が思い切り頬に食い込む。どぉ!と大きな音を立てて地面に転がった男を見下ろしながら、じんじんと熱くなる手の甲をゆっくり握り締めた。唇から弾んだ息が零れる。まるで鉛を飲み込んだかのように熱かった胸が、突如すうっと熱が引いてしまったかのように冷え切った。 「…言えるもんならな、」 瞳を閉じて、深呼吸をして、もう一度開ける。目の前に転がってこちらを憎々しげに見ている男を見下ろして、幾度となく見てきた既視感が目の前にある。世界が色を変えたように、モノクロな世界が広がっている。 「てめぇ…っ」 何度も見てきた光景だ。 分かっているから、身体がまるで無条件のように身構える。また傷を作ったあたしを見て、あいつらは何て言うんだろう。いい加減にしろと怒るのだろうか。それとも仕方のない奴だと笑ってくれるのだろうか。どっちにしろ、あたしはもう、あいつらの隣になんて立っていられないんだろうけど。あいつらの世界を壊してしまうあたしのような存在なんて、きっとあいつらの傍にいるには、不釣合いだ。 そっと自嘲して、ゆらりと立ち上がる男を見据える。すうっと息を深く吸って、鋭く吐き出すと爪先が地面を蹴り上げた。 「リョウちゃん!!」 その時だった。振り上げたあたしの腕が何かに捕らえられ、そのまま強く引かれる。鼓膜を震わせたその声に、あたしの全ての機能がまるで停止してしまったかのように動けなくなった。目の前を駆けるその後姿と腕を引くこの腕の熱は、幻だろうか。目を見開いてその背中を追いかけてあたしの足がつられて駆け出す。後ろで怒鳴る声が聞こえるが、それよりも騒いだ心音がうるさくて聞こえなくなる。その声も、その後姿も、この熱も、あたしは全てを知っている。 「…ふ、わ…っ!」 私の手を引いてその場から走り去る不破の後姿が、モノクロの世界で唯一鮮やかに色付いたように見える。ああ、でも、見られてしまった。唯一あたしを拒絶しないでくれた人。あたしの世界を変えた人。 この腕を引く掌の熱が物語っている。砂の城が崩れてしまう瞬間の音が、走るあたし達の音に混じって聞こえた気がした。 引いたのは、このあたしだ。 |