その日俺が、街の片隅のちいさな書店を訪れたのはあの大人たちへのささやかな反抗心で、だからそこへ行って何をしようとか、そんなことはすこしも考えてはいなかったのだ。ましてやそこに彼女がいない可能性など、すっかり頭の外へ飛んでしまっていた。ちっとも進まない時計の針に、またひとつため息がでる。


ポラリスの魔女 act.04


絢音ちゃんなら今日は夕方からだよ。古ぼけた店内にいまにも同化してしまいそうな雰囲気の老店主は、それだけ言うとまた手元の分厚い本に目を落としてしまった。たちまちその場は無音になって、広くはない店のなか、いつまでもその空気に耐えるわけにもいかずとりあえず俺は錆ついたドアを開けて外へ出る。腕の時計は午後1時。さてどうするかと考えて、彼女の正確な出勤時間を聞かなかったことをすこし後悔した。夕方って、いったい何時だ。
せっかく貴重な休日にこんな辺鄙な場所まで赴いてやったのに、どうやら俺と彼女はとことん相性が悪いらしい。かといってこのまま帰ってしまうのもすっぽかされたみたいで癪だったので、彼女の出勤までちかくで暇を潰そうと、ケータイを取り出して地図アプリを呼び出す。コーヒーショップのひとつでもあれば、2・3時間くらいは過ごせるだろう。

「あれ、ヤマケンくん」
俺をそう呼ぶ女は多くはない。だいたいが山口くん・だったり、彼女を気取った女がたまに賢二くん・だとか呼ぶくらいだ。だからその中途半端なあだ名みたいな呼び方は、女ならばなおさら俺の耳に引っかかる。関わるはずのない人種・貴重種・与えない女たち。
「…ひさしぶり、水谷サン」
名前を呼ぶと彼女は、昨日予備校で会ったじゃない、と仏頂面をさらにしかめて俺の社交辞令をぶった切った。なにかしてやりたい、と思うのはこの女も絢音サンと同じだ。だけど、その「してやりたいこと」は絢音サンに対するものよりもたぶんもっと乱暴で、半ば執着にもちかいような代物だった。それが、彼女がハルの好きな女だからなのか、絢音サンとおなじ貴重種だからなのか、俺にはちっともわからないが。だってこんな芋女、相手にする方がどうかしている。
「こんなところで、何をやっているの」
「アンタこそ」
「わたしは図書館へ行く途中」
「あっそ」
報道アナウンサーのようにきっちりとした文法でしゃべる彼女は、表情も姿勢も口調も、なにひとつブレない。ころころと表情が変わる絢音サンとは大違いだ。この女もハルの前ではまた違うのかもしれないが。
「なあ、水谷サンてさ」
「なに」
「ハルのどこが好きなわけ」
「……は?」
なにもブレない、なにも変わらないはずだった彼女が真っ青な顔で口をパクパクさせている。そこで顔を青くするあたり、やはり彼女は変わっているのだろうが、いつもの鉄面皮が崩れたことに俺はとても満足していた。こんな風に、俺が水谷サンにしてやりたいことは、俺を満足させることなのだ。彼女という人間を暴くようなそんな乱暴な感覚。これがいったい何なのか、あの大人たちなら分かるのだろうか。
「べ、べべつにわたしはハルのこと、」
「はいはい、悪かったよ」
「……」
「…何」
「ヤマケンくんはあのひとが気になるの?」
「…あのひと?」
「みっちゃんさんの店によくいる、女のひと」
驚いた。自分の成績以外にはせいぜいハルのことしか考えていないような彼女が、恋愛ごとなどという他人の心の機微に関心があるとは。ハルがこの女に出会って変わっていっているように、彼女自身もハルに惹かれていくことでなにか変化があったのかもしれない。
軽く息を吸うと、休日の昼下がりの空気が鼻の奥へ通り抜けた。季節も街も人も、こんなにも穏やかなのに、俺はどうしてこんなところでハルを好きな女と一緒に、店長の昔の恋人を待っているんだろう。俺の身体を巡回した穏やかな空気は、ささくれ立った俺の内側に居場所を見つけられずにため息になって再び外へ出ていった。

「ヤマケンくん?」
「…それがわかんねえから、ここで待ちぼうけ食らってんの」

水谷サンは目をぱちくりとさせたきりすぐに無表情を取り戻して何も言わなかった。やがてひとこと そう・と言っておさげ髪を揺らすと、それじゃあ私は図書館に行くから といつもの抑揚のない声を残してあっさり背中を向ける。
「…聞いといてそれかよ」
その背中に愚痴を漏らして、俺は狂った予定を立て直すために最寄りのコーヒーショップの検索を再開したけれど、やはりというか俺と絢音サンの相性の悪さはこんなところにまで影響するようで、難航する検索の結果、地図アプリがようやく示したのは入り組んだ細い路地の向こうにある小さな喫茶店だった。2・3時間の暇をつぶせるかどうか以前にたどり着けるかも怪しい細々したルートとしばし睨み合ってまた溜息が出る。どうして、ここまでして今日彼女に会わなければいけないと思うのか、もはや自分でもよくわからない。あの人に出会ってから、俺は自分の感情を持て余してばかりだ。それでは情けない男の典型のようで、そんなのはまるで俺らしくないが、そうかと言って、わからないものをわからないままにしておくのも性に合わない。今日最後の溜息をひとつこぼしながら地図アプリの音声案内をオンにして、俺はその隠れ家のような小さな喫茶店を目指すことにした。

結果として、その判断は当たりを引いたと言うべきだった。錆びれたドアの頭にくっついた銅色のベルがからんころんと古風な音で鳴る視界に、俺の待ち人は、まるで自分の方が俺を待っていたのだと言いたげに、つまりは至極当たり前にあらわれた。もちろんそれは俺の勝手な主観で、勢い良くドアを開けて静かな店内にベルの音をやかましくもたらした俺を、絢音サンは目を丸くして見ていたけれど、やがて手元の本をぱたりと閉じると小さく ヤマケンくん とつぶやいた。


絢音サンはさっさと俺の分のコーヒーを注文すると、ブラックでよかった?と聞く。その流れがあんまり自然だったから、俺は彼女のテーブルの隣に突っ立ってひとつ頷くことしかできず、なにかそれらしいことを言おうとして結局それもできずに終わった。そうしているうちに絢音サンはテーブルの上に所在なさげに転がっていた分厚い本を椅子の背に掛けた大きな鞄にしまっている。突っ立っているのも馬鹿らしいので俺はその向かいの席を拝借することにして、テーブルの淵に胸をくっつけている椅子を静かに引いた。
「ヤマケンくんは、」
彼女の言葉の後ろで腰掛けた木の椅子がきしむ音がした。俺が椅子に収まるのを待って、絢音サンがふたたび口を開く。彼女は仄かに笑んでいた。
「ヤマケンくんは、どうしてこんなところにいるの」
「……アンタこそ」
「わたしはバイトまで時間が空いちゃったから」
「へえ 店長にドタキャンでもされたの」
思いつき半分と確信半分でこぼれ出た俺の言葉に絢音サンが目を丸くする。その表情で我に返って、余計なことを口にした自分に静かに苛ついた。絢音サンはお構いなしで、あるいはそういう風を装ってくつくつと楽しそうに笑っている。俺は所在なく運ばれてきたコーヒーに手を伸ばす。
「すごいねヤマケンくんは。なんでもわかっちゃうんだ」
「…わかんねーよ 何も」
無性に腹が立った。すべてを諦めたみたいに笑える絢音サンにも、そんな彼女を前にすると途端にうまくやれない自分にも。腹が立つ。苛つく。なんで、どうして。
彼女と出会ってから、すべてを掴めるはずだった俺の手は空を切るばかりで、勝ち組のレールを踏み歩くだけのはずだった足はふらふらと荒い砂利道へ踏み外し、つまずき、まろぶ。そうして土の付いた体を起こし、低い視線から見上げた誰かの横顔はぼんやりと靄がかかったように判然としなかったけれど、その強い強い意志を湛えた目は絢音サンのようにも見えたし、あるいは無感情のなかにいくつもの感情を含ませたその目はなぜだか水谷サンのようにも見えた。

「絢音サンは、なんで店長とダメになったの」
「どうしたの 急に」
「べつに。そういや聞いてなかったから」
絢音サンは曖昧にわらったあと、少し考える風に唇に指をやった。か細い指先のその下で柔らかそうなくちびるが歪に押し潰れてゆくのを、俺は言葉もなくただ見つめる。
「とくべつ何が駄目だったってことはなかったんだと思うけれどね」
絢音サンはそう前置きして、冷めたコーヒーをひとくち含む。さっきまで唇を押し潰していた指先がきっちり10本絡みつくマグカップは、見えない何かにがんじがらめにされた絢音サンの心臓のように見えた。そこに心があるのだとは思わないけれど、確かに彼女を芯から突き動かす心臓には、彼女の彼女たるものが宿っている気はする。そうだとすれば、そこにひたりと絡みつく十指は、さしずめ彼女の未練だろうか。
「何ていうかこう あいつは、別にわたしでなくともいいんだって、気づいちゃったの」
俺がよほど不可解なかおをしたのだろう、絢音サンは思わず といった風に破顔して、自分の中の複雑な感情の絡まりをほどくみたいに、ぴんと伸ばした人差し指をくるくると回して見せた。
「ね、少し歩こうか」
このひとはいつも、唐突だ。

#04.きっといま不幸せな人へ
 
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