たぶん、今までもそうだったのだとおもう。あたらしい単語を、覚えた途端に目や耳にすることがおおくなるように、ただ、認識が欠けていただけで。彼女はきっと、今までもそこに居たのだ。だからこれは、偶然などではもちろんなくて、運命などではそれ以上にない。運命で、あってたまるか。


ポラリスの魔女 act.02


あ、と思わず漏れた声はほんとうに俺の失態だった。呼び止めるつもりなんてこれっぽっちもなくて、しかもその相手はどうやら俺をすぐには思い出せないようなのだから始末に負えない。くそ、どこで何を間違った。
「…どうも、"絢音サン"」
「あー…えっと…ヤマケン、くん?」
ニコリと笑って初対面のときのように名前を呼ぶと、切れ長の目をぱちくりとさせながらどうにか無事に俺の記憶を引っ張りだしたようだった。あやふやな脳内を取り繕おうともしない潔さは俺よりもいくらか長く生きているうちに座った肝のせいなのか。あるいはもっと単純に俺に利かせる気など持ち合わせていないだけかもしれない。推し量ろうにも、この女を何も知らないではそうもいかず、彼女に関する無知は、俺の自尊心と虚栄心をへし折る空想を一方的に掻き立てる。ほんとうに、どこで何を間違ったのだか。
「…絢音サンはこれからバイト?」
「え?うん、よくわかったね、わたしがフリーターだって」
「まあ、なんとなく」
見た目で判断したとは言わないでおく。さすがに俺だって、顔見知りになった相手を無意味に逆撫でするのは気が引ける。
「ヤマケンくんは学校帰り?」
「そうだけど…ていうか、方向逆じゃないの」
「うん?」
「だから、バッティングセンター。あっちでしょ」
認めたくはないがどうやら方向音痴の節があるらしい俺でも、このひとが向かう方向にあのバッティングセンターが無いことくらいは分かる。もしや迷子症の同士なのか。いや、俺はべつに迷子になったりしないけど。俺の不躾な視線を食らっている目の前の女は、特にそれを気にした風もなく曖昧な笑みを浮かべている。
「わたしのバイト先、あそこじゃないのよ」
「でもこのあいだ」
「うん、あれは満善に頼まれてタダ働き」
人使いが荒いんだから、と溜息をついて彼女は笑みを解いた。もともと美人と呼べるほど華のあるタイプではない。ただ、花がふわりとひらくような笑い方のせいで、それが彼女のイメージを作っているだけだと思っていた。けれど笑みを引っ込めた彼女は、いつか受付台で分厚い読み物に肘をついて遠くを見るあの日の女で、俺は馬鹿みたいに薄い化粧を施しただけの彼女のその白い頬を見下ろしていた。
変わった女だ。にこにこと愛想がいいくせに、時折見える影のある横顔は、その笑顔よりもずっと彼女という女を体現しているようでもある。
「仲、いいんだ」
「うん?」
「あの、店長と」
思いのほか彼女を責め立てるような物言いになったのが自分でもわかった。彼女の方もどうやら馬鹿な女にありがちな鈍い質ではないらしく、二度三度目をしばたかせて俺を見上げていたけれど、やがて相変わらず笑みは引っ込めたままでゆるやかに首肯した。もう一度こちらに視線を持ち上げることをしなかったから、ただうつむいてみせただけなのかもしれないが。

「付き合ってたの。ずっと昔に、ね」
"ずっと昔"があるほど食った歳でもないだろうに、彼女は付け加えた。今はもう、何でもない関係なのだ、とでも言いたげに。
「…あっそ」
店長がこの女の昔の恋人だろうと、本人にフォローを入れられる筋合いなど俺にはない。この女にすこしでも抱いた邪な感情を見透かされたような心地がして、そっけなく返事をすると、彼女は眉を下げてすこしさみしそうに笑った。何で。俺に冷たい態度をとられただけで、何でそんな顔をしたりするんだ。さっきまで、俺のことなんか欠片も覚えていなかったくせに。
「ヤマケンくんは、もてそうだね」
「はあ?」
「あれ、ちがった?」
「ちがわないけど」
「あはは、やっぱり」
「…絢音サンは」
「うん?」
「絢音サンには、年下の方がいいんじゃない」
彼女が、あのハルが懐いている女だからだろうか、それともあの店長の元恋人だからだろうか。俺の口をついたのはそんな、バカみたいな台詞だった。おそらくは5つも6つも年上の女に。定職を持たない負け組の女に。生まれた瞬間から勝ち組の俺が。この先勝ち続ける未来だけを歩いていく俺が。何を。
「…もしかして今わたし口説かれてる?」
「…んなわけないだろ」
「それもそうか」
あっさりと引き下がるあたりに彼女の俺に対する興味の薄さみたいなものが感じられる。頭の回転は悪くない。媚びるようなあざとさもない。普段俺に群がる女とは種類がちがう。幼い言い方をすれば、あたらしいおもちゃを見つけた子どもみたいな感覚だった。部屋には、もっと高価で見栄えのするおもちゃがたくさんあるのに、大量生産のラインを流れているだけのそれらよりも、すこし不格好だけれどたったひとつのそれが、ずっときらきらと輝いてみえる。そんな、子どもじみた気持ちに似てる。


絢音さんはちかくにあるちいさな本屋でバイトをしているのだと言った。そう言われれば、あの日の分厚いハードカバーの本もしかるべき携帯品なのだという気もしたし、大手の系列ではなく個人経営の書店というところが、なんとも彼女らしいとも思った。それじゃあまたね、と言って下校中の学生であふれる大通りをするすると遠ざかってゆくその背中は、俺がおもっていたよりもずっとしゃんと伸びていて、なんとなく、その後ろ姿が見えなくなるまでその場に突っ立って見送っていた。

#02.僕を淋しくしないでくれ
 
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