いつだったか、折原くんに尋ねられたことがある。どうして俺を名前で呼ばないの、と。責めるような調子だったか拗ねたようなそれだったかはもう忘れてしまったけれど、折原くんらしからぬ物言いにわたしは恐ろしく鈍い反応しかできずに彼のご機嫌を損ねてしまったのだ。何となく、折原くんは名前だとか肩書きだとか表面的に自分を飾るものには執着しないタイプなのだと勝手に想っていたから、言外に名前で呼んでと言われたことが少し意外だった。
「もしかして絢音さん、彼氏以外の男は名前で呼ばないとか」
「え、いやそんなことはないけど」
残念ながら、そんな頑なで意味のわからない信念は持ち合わせていない。適当な返事をすると隣の折原くんが不機嫌オーラを増幅させる気配がしたので慌ててそれらしい理由を探してみる。初めて会ったあの日に彼が、折原臨也と名乗った時、イザヤだなんてめずらしい名前だと思ったのと同時に、けれどもわたしはこれから彼をその名前で呼んではいけないと思った。それは、
「そうだな…きっと、淋しいから」
「淋しい?」
わたしの言葉を反復する折原くんの両の目は、またわたしが適当なことを言っていないか疑うようにこちらを見ていた。
「イザヤなんて、他に居なさそうだもの。呼んでおいて折原くんが…ううん呼べなくなった時、淋しくなるのが嫌なんだよきっと」
「……」
"折原くんが居なくなった時"とは何故か口に出せなかった。きっと必ずやってくるその日が恐い。彼の名前を呼ぶのに慣れてしまうのが恐い。その日がやってきて、呼べない名前に失望するのが、恐い。だからわたしは彼の名を呼ばない。
いつもわたしはそうだ。始まる前から終わりを見ている。


アナザー・イエスタデイ / cut.7


ごめんね絢音さん、と。折原くんはそう言って少し笑った。

無言の二人の間で、軽やかにリズムを刻むバイブレーションは不釣り合いに浮いて響いた。これから知らされる事実がきっとひどく重たいものであることはわかっていたのに、わたしはベンチを通して震えるその振動にただ、呆気ない夏の終わりだけを予感していた。

要するに、折原くんにとってわたしは依頼(折原くんは自らを"情報屋"と称して自嘲気味に笑った)の相手でしかなく、その言葉も行動もすべてはあの画廊の彼に頼まれてわたしを展示会に出品する気にさせるためのお芝居だったわけだ。さしもの彼とてその東京から逃げた写真家崩れの女によもや被写体にされる結末など、予想もしてはいなかっただろうけれども。
まさしくあの画廊屋の「やっぱり俺じゃダメか」という言葉は、図らずも的を射ていたというわけだ。折原くんでなければわたしはこうはならなかっただろうし、折原くんだったからこそわたしはこうなった。

「…やっぱり呼ばなくて良かった」
「うん?」
「名前。折原くんの名前」
わたしが言うと、あの時の問答を思い出したのか折原くんはクスリと笑った。だからわたしは少し迷ってしまう。今までの折原くんの、どこまでが本当なのか。もしかしたら本当など少しもなかったのかもしれないけれど、それでもそう決めつけてしまうのは淋しすぎる。淋しいのは、嫌なのだ。
「ねえ絢音さん」
「はい」
なぜだか敬語で受けてしまうわたしに折原くんは少し困ったように笑った。今までの彼が「偶然に出会った年下の男の子」ではなかったことを知った今のわたしでは、もう折原くんの頭の中など少しもわかったりはできない。彼に対するわたしの価値観は彼自身によって根こそぎ覆されてしまったのだ。
呆れたようにわたしの世話を焼く彼も、年下然として甘える彼も、わたしとキスした、彼も。この夏の全部が本当ではなかった。少なくとも、折原くんに関するわたしの夏は嘘だったのだ。そしてわたしにとってこの夏は折原くんがすべてだった。だからこそこの夏は。
「絢音さんは隙がありすぎるんだよ」
「…そうかな」
「そうだよ。だから、俺を信じた」
「……」
「絢音さん、これからは男を簡単に部屋にあげちゃいけないし、気まぐれにキスなんかしたりしちゃいけない。長いスカートで自転車に乗っちゃいけないし、かき氷をお昼ご飯にしたら駄目だよ」
わたしの隣に居たのは依頼のためだと言った口で、折原くんはそんなことを言う。だからわたしは分からなくなる。分からなくなって、どうしようもなくなってしまう。
手の中の写真を握り締めて、折原くんを捕まえて放さない気になってみる。"絢音さんの写真"という折原くんの言葉は、それもやっぱりわたしをその気にさせるための口上にすぎなかったのだろうか。そうだとしたら、わたしはこれからどうするのだろう。
わたしがぼうっと何もない空間に気をやっているのに気付いた折原くんがわたしを覗き込む。そんな顔をしないで。わたしはあなたがもう何も分からなくなる。
「絢音さん聞いてるの」
「うん、…やっぱり帰るのね、東京」
「…どうかな」
折原くんはそう言ったけれどそれが本当がどうかなんていくら折原くん相手でも分かる。わたしが返事をしないでいると、折原くんは誤魔化すようにううんっ、と背伸びをして夏の終わりの空に手を伸ばした。折原くんの嫌いな青い空。でもわたしは、夏の青い空の下の折原くんしか知らない。他の季節の彼を知らない。
そしてたぶん知らないまま、彼はわたしから去っていく。
これだから嫌なのだ。始まらなければこんなに悲しい終わりも無かったのに。わたしに空いたこの穴は、きっともう他の何でも埋まらない。


折原くんはわたしをその気にさせるのがとても上手で、帰り際二コリと笑って全くいつものように、またね、なんて言うものだからわたしはうっかり頷きそうになってしまった。返事ができないわたしに折原くんは何か言いたげに眉を下げたけれど、結局そのままくるりと背を向けて行った。
もうだいぶ緩やかになった木漏れ日。西に傾いた陽射しは夏の真中よりずっと柔らかい。あの日の並木道を歩いて行く折原くんの背中を、両の目ではなくファインダー越しに見る。少しだけ滲んで曇った視界で、鴉色の後ろ姿が優雅に淋しげに、けれど振り向くことはなく、小さくなっていった。
乾いた音は、カメラのシャッターと、わたしの心のひび割れと。

結末だけがどうしようもなく苦い、わたしの夏が終わった。

120916 夏の後ろ姿
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