「どう?そろそろ決めた?」
電話口の向こうで、久しぶりに聞く声がざわざわとした都会の喧騒と馴れた様子で混じり合う。彼はわたしが東京に居たころからあれこれ仕事の世話を焼いてくれた小さな画廊の経営者だった。
「すみません、もう少し…考えさせて下さい」
「そう?うーん、悪い話じゃないと思うんだけどなあ」
「すみません…」
彼はわたしの返事に少し困ったようにそう言ったけれど、恐縮しきりのわたしの心中に心当たりがあるようで、やっぱりあれのせいか、と呟いた。わたしもまた彼の言う"あれ"に心当たりがあるので黙って頷く。それで電話先の彼に伝わるはずもないのに。
「確かに今回の選考にはあの人も参加するけど、俺はだからこそ絢音ちゃんの写真を出してほしいんだよ」
「……」
「俺は、絢音ちゃんそっちに行ってだいぶ変わったと思うよ」
「そう、ですかね…」
煮え切らない返事は変わらない。彼は電話の向こうで少し笑うと、やっぱり俺じゃダメか、と呟いてこの町のあれこれに話題を変えた。


アナザー・イエスタデイ / cut.6


電話を切って、脇に置いた鞄から茶封筒を取り出す。大小様々な中身は全て、この町でわたしが撮った写真だ。中でもひと際思い入れの強い一枚を引きぬいて空に透かし見る。彼の大嫌いな青空を背景に、折原くんの後ろ姿が浮かび上がって、まるで折原くんが青空を向かい合っているようなちぐはぐな。写真が日に焼けてしまうと思いながらも、わたしは青空の中のちぐはぐな折原くんから目が離せなかった。ここはあの日と同じ並木道だ。
「それはもしかして俺への新手の嫌がらせかな」
だから、いつの間にかやって来ていた彼がそんな風にわたしの所業を見て呆れるでもなく窘めるでもなく言うのを、わたしも少しも驚くことなく聞いていられたのだった。
「おはよう折原くん」
折原くんはわたしの朝の挨拶を無視して眩しい陽射しをちょっと見上げてすぐにやめ、眉間にしわを作った顔でわたしの隣に座った。
「絢音さんのおかしな言動にもだいぶ慣れてきたと思っていたんだけど、どうやらそれは俺の思い違いだったみたいだよ」
「それはそれは」
「おはようは朝のあいさつで今はとっくに昼過ぎだ。それに何で自分が撮った人の後ろ姿を俺の嫌いな青い空にかざしているのかな」
「折原くん折原くん」
「何か?」
「この写真、今度の選考会に出品してもいいかな」
折原くんはぴくりと肩を揺らすと、何かの感情を押し殺した無表情でこちらを見てきた。そのまま口だけを動かして、選考会?と問う。
蝉時雨の降りそそぐ中でわたしの口を塞いだ折原くんのその薄い唇を見ながらわたしは頷いて手元の封筒を握りしめた。決心が弱いのは昔からでちっとも直らない。
「少し前からね、東京の展示会に出品しないかって言われてたの。成功すれば国外にも名前が知られるような、大きいの」
「へえ、すごいじゃない」
東京、という言葉に折原くんが少し目を細めた気がした。
東京は折原くんの地元だ。彼もいつかは帰る。ここではなく、東京の見慣れた雑踏の中へ。帰って、きっともうここには戻ってこない。
そして数年もしたら、こんな田舎町で年上の女と戯れに交わしたキスなど忘れて、それは可愛らしい奥さんをもらうのだ。
折原くんの未来にわたしはいなくて、わたしの未来にも折原くんはいない。
「絢音さん?」
「あ…うん、それでね、その展示会は、名の知れた人から無名の写真家までそれぞれの作品を集めてその中から誰のどの写真を展示するか選考するの。要するに展示会に出品しないかっていうのは、選考会に出してみないかっていうこと」
「ふうん、つまり声が掛かったからといって必ずしも展示会に出せるわけじゃないってことか」
相変わらず折原くんは理解が早い。わたしは軽く頷いて手の中の写真に目を落とした。同じようにしながら折原くんが聞く。わたしが、決心しきれないでいる一番大事で、けれど一番厄介なこと。
「それで、この写真をその選考会に出品しても良いか俺に聞くってことは、選考会には出るつもりなんだ?」
写真を見ている振りをして俯いて、わたしの頭をよぎるのは東京にいたころの記憶だ。灰色の季節。息苦しい低い空。あの日から苦手になったピンヒール。着なれないスーツで畏まるわたしに、或る人は言った。君の写真には心が無い。

はっきり言って、つまらないんだ


「前に、東京に居たときにね、同じような選考会で言われたことがあるの、君の写真はつまらないって」
「……」
それからはカメラを構えるのが恐かった。シャッターに指を掛ければ、ファインダーを覗けばあの声が聞こえる。君の写真はつまらない。つまらない。
今でも思い出すと少し震える。今回の選考会の筆頭は彼だった。またあの声をあの言葉を聞くのが恐い。けれど何より、それで写真を嫌いになるのが、いっとう恐い。だってわたしから写真を取ってしまったら、きっともう何も残りはしないのだから。
「でも、折原くんを初めて撮った時、何て言うかこうね…これがわたしの写真だって、思えたの」
「……から…」
折原くんがぼそりと呟いた。けれどその声は掠れていて上手く聞き取れないまま飲み込まれる。
折原くんは矛盾だらけだ。自信に満ちていていつだって傲岸で不遜で、優雅で孤独で物淋しい。だからわたしは彼の後ろ姿を撮る。爽やかな笑顔は彼の内に在る矛盾を覆い隠してしまうから。整った顔立ちは彼に在る負の激情を打ち消してしまうから。わたしは折原臨也という人間を、わたしの写真で表現したい。
だから今ならわかる。あの頃のわたしの写真にはこんなに強い思いは写っていなかった。胸の奥が震えて、涙が出そうになるくらい、写真を撮りたいと思うことなどなかった。あの頃、確かにわたしの写真はつまらなかった。

「……から…だから、俺の…写真ばっかり、」
絞り出すような声はまるで彼らしくなかった。俯いた横顔はたくさんの感情がごちゃごちゃで、わたしは折原くんの心中を図りかねて声をかけることができないまま居た。
「絢音さん俺」
「…あ……っ」
折原くんがごちゃごちゃの表情のまま何かを言いかけた時、夏の終わりのぬるい風が後ろから強く吹いた。前触れの無い襲来は折原くんに気をやっていて疎かになっていたわたしの手から写真たちを奪っていく。
反応は、折原くんの方が早かった。その多くが地面に着いてしまう前にそれらは彼の手に収まってしまう。わたしは茫然とそれを見ているだけだった。
「あ…ありがとう」
「…駄目だよ絢音さんちゃんと持ってなきゃ、"絢音さんの写真"でしょう」
「……うん」
これを、わたしの写真だと言ってくれる人がいる。だからもう、わたしは大丈夫なのだ。
「折原くん、わたし」

選考会に出るよ。この時折原くんにそう言えなかったことが、わたしのこの夏最後の大きな後悔になった。遮ったのは着信を知らせる折原くんの携帯。いつもは肌身離さないそれを今回に限ってベンチに置き捨てにしてしまったのは、わたしの写真を拾う折原くんが咄嗟のそれだったせいか、それともこれも彼の思惑の内だったのか。けれどわたしは確かに見たのだ。着信を知らせる画面に目を滑らしたわたしに、折原くんがしまったと言わんばかりに顔を歪めたこと。

真黒な画面に映し出されていたのは、先刻までわたしの携帯の向こうに居たあの都会の喧騒に紛れる人の名前だった。

120911 エンドレス・リミット
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