「カメラ?」
「うん、絢音さん一応プロの写真家でしょ、選んでもらおうと思って」
にこにこと、折原くんは機嫌良く言う。人の良さそうな、人畜無害を装った笑顔で。
「折原くん写真撮りたいんだ」
「ううん撮りたいわけじゃないけど、俺ばっかり絢音さんに撮られるのは不公平だと思って」
ニコニコ。にこにこ。際限なく折原くんの笑顔が降ってくる。まるで、何か特別良いことでもあったみたいに。けれど、此処とのところ毎日彼の笑顔を見ているわたしにはわかってしまった。折原くんは今、少しばかり機嫌が悪い。
「…それならわたしの使ってないカメラあげるから」
「いいの?」
「そんな理由でカメラが欲しいなんて意味が分からないもの」
「ふうん」
折原くんはやっぱり上機嫌な笑顔で不機嫌にそう言う。彼がそんな顔をする理由もわたしには多分わかっていて、けれどだからこそ何も言えずに表面上の折原くんの笑顔に甘えた振りをしていつも通りを演じるしかなかった。


アナザー・イエスタデイ / cut.5


あの後−あの後というのはもちろんわたしが折原くんにキスをした後、という意味なのだけれど−折原くんは例の難しい顔でわたしを見下ろしてから思い付きのように短いキスをひとつ寄越して帰って行った。そっと唇に触れても、折原くんの熱は夏の温度に混じってすぐに消えてしまった。
まるで、絢音さんのキスだってこのくらいの意味でしか無いでしょう、とでも言われているようなおざなりの口付けは、まったくその通りに彼にとって無意味なのだと思い知らされる。そしておそらくそれはその通りなのだけれど、わたしは勝手にもその少しも心の伴わないキスを恨めしく思った。わたしだって、あの口付けに何か特別な意味を込めた訳ではなかったはずなのに。

「うちにあるから、好きなの選んで」
「……」
「折原くん?」
「ああ、うん、ありがとう」
折原くんがめずらしく素直にお礼など言うので、思わずうつむき加減のその顔を見つめてしまった。視線の意味に気付いた折原くんが、心外そうに笑う。
折原くんは聡い。言わなくても分かってしまう。聞かなくても答えてくれてしまう。それだからわたしは少し油断していたのかも知れなかった。折原くんは、きっと何でも分かっているのだと。何でも分かってくれるのだと。
いくら折原くんとて、「何でも」なんてあるわけがないのに。

意外にも、折原くんを部屋へ招くのは初めてだった。カメラやレンズや、要するにわたしの仕事道具がずらりと並んだ可愛げのないワンルームを面白そうに眺めていた折原くんに、比較的扱いやすいフィルムカメラを差し出す。それを受け取るや折原くんは完全に気を抜いていたわたしの間の抜けた顔をカシャリと収めてイタズラっぽく笑った。
「やあよ、今の変な顔してた」
「絢音さんだって俺の変な顔撮るの好きじゃない、これでおあいこだよ」
「折原くんの変な顔は貴重だからよ、わたしのはいつでも見られるでしょう」
「絢音さんにしては説得力がある理論だね」
「……んもう、可愛くない」
「そう思うならさ」
脈絡なく折原くんがずい、と大きく踏み出してわたしとの距離を詰めた。思いがけず鋭いその瞳にうろたえて後ずさってしまう。相変わらず折原くんのスイッチはよく分からない。さらに一歩、折原くんが踏み出す。一定の距離を取るように同じ歩幅で一歩下がったわたしの背中がベランダへ続く硝子戸にひたりとついた。
触れられたり冷たい硝子に押し付けられているわけでもない。折原くんはただわたしを見下ろしているだけだ。それなのに、わたしはまるで彼に追い詰められたかのように身動きができなかった。逃げられない、と身体が勝手に竦む。今になってようやく、折原くんという人間を本当に理解したような気さえした。
「そう思うなら、どうして俺にキスしたの」
そう問われて、はっと上げた顔で見た折原くんはわたしが想像していた表情と少しだけ違っていた。おざなりに唇を犯した時と同じ無表情の中で、綺麗な作りの顔はほんの僅かに歪められている。押し黙った部屋の外で、寿命の近い蝉が夏に抗うように鳴いていた。

「…わからない」
「そう」
無責任なわたしの返答に、けれど折原くんは機嫌を損ねることはしなかった。もとより不機嫌だったというのもあるけれど、その不機嫌さもわたしの返事でいくらか和らいだように見えた。折原くんがさらに一歩間合いを詰める。もう下がることができないわたしは俯いて無意味に組んでいる自分の指を見ていた。わたしの顔の横の硝子に置いたらしい折原くんの手の先でシルバーの指輪がカン、と軽い音を立てる。
「それならいいよ、意味なんかないって言われるより全然良い」
「…怒らないんだ」
わたしが組んだ指を弄りながら言うと、折原くんがそっと笑うのがその息遣いで分かった。いつもと違う笑い方をする折原くんの顔を見てみたかったけれど、顔を上げれば何か言わなければいけないような気がして、わたしは俯いたままでいた。
「絢音さんにあんなことされて怒る男がいるとは思えないけど」
上手い返しを思いつけないで黙っていると、それとも何?と折原くんは意地の悪い言い方をする。ああ、いつもの折原くんだ。
「絢音さんは俺に拒絶してほしかった?」
顔の傍まで寄ってきた折原くんの手に促されてわたしはそれを想像する。もしもあの時、折原くんに拒まれていたら。膝が震える。
唇が触れる直前、ふい、と首を逸らす折原くん。拙い想像だとしても、折原くんに拒絶されてしまうことを、わたしは恐いと思ってしまった。
「それは…嫌だな」
力が抜けてしまったわたしに、折原くんは触れない。けれど、そうだね、と呟いた声は少し掠れていてわたしはそこに折原くんの熱情を知る。硝子に置かれた手が指が、触れそうな距離まで近づいて、けれどわたしの肌には触れられないまま動きを止めた。耳元で指輪がまたひとつ、乾いた音を立てた。
そうしてわたしを、一切触れないままで焦らしに焦らした折原くんは、緩やかに口角を上げると、いつもの爽やかさなんて欠片も感じられない深さの熱で、わたしの唇をじわりと犯した。伸ばせば届く距離で、唇だけが舌だけが折原くんの温度に触れている。

硝子戸に置いていない方の折原くんの手が、器用にこちらを向いてシャッターを切った。フィルムの回る音と二人の呼吸が部屋を満たす。外の蝉時雨はいつの間にか止んでいた。

120905 窓辺の白い子守唄
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