「……絢音さん」
折原くんにこういう顔をされるのは何度目だろう。心から呆れています、という意思表示を隠そうともしない顔。つまり今わたしは折原くんに呆れられているらしい。腰に手を当てた格好の折原くんは手のかかる妹を持って気苦労の多い兄のような目をしていた。
それにしても、折原くんは人を見下ろすのがよく似合う。わたしは日中の気温に温められた熱いコンクリートにしゃがみこんで、自転車のタイヤに絡まったままうんともすんとも言わないスカートの裾を引っ張りながらとりとめもないことを考えた。


アナザー・イエスタデイ / cut.4


今日は珍しく折原くんに会う予定がないはずだった。折原くんに会わないからと言ってわたしのやることは変わらなくて、つまりは重たい一眼を肩から下げてふらふら出掛けていたわけなのだけれど、やっぱりというか折原くんが隣に居ないことは少なからずわたしの行動に影響を与えるようで、今日は彼と一緒に居る時には使わない自転車で少し足を伸ばしてみることにしたのがいけなかった。広めの幅の真っ赤なフレームの自転車は体力と運動神経の無いわたしの大事な相棒である。久しぶりの出番に相棒がはしゃいでいたかどうかは知らないが、完全に浮ついていたわたしはすっかり忘れていた。足首まであるマキシ丈のワンピースにぺたんこサンダル。よし、と漕ぎ出した一歩目でタイヤが一回転する前に真っ赤な相棒が長いスカートの裾を咥えて散歩の続きに首を振るのも当たり前の格好だった。
幸先の悪さにわたしがしょぼくれてしゃがんでいると、上の方から声が降ってくる。傲岸で不遜でそれでもわたしにはどこか温かく聞こえる声。情けなく下がった眉毛のまま上を見ると、折原くんが今にも溜息をつきそうな顔でわたしを見下ろしていた。

「はい、取れたよ」
「あ…ありがとう」
あれだけ言うことを聞かなかったわたしのスカートは折原くんの手によってあっさりと自由の身を得た。つくづく器用な子だと思う。わたしが裾を持ってスカートの汚れを払っていると折原くんはあさっての方に目をやって、ほんとに絢音さんはもう、とかなんとかぶつぶつ言っている。それにも慣れてしまったので適当に聞き流して自転車を押して歩き始める。折原くんはなおも呆れ顔のままその後ろをついてきた。
それにしても、乗れない自転車というのはものすごい勢いで邪魔くさい。いっそ強行して乗ってしまおうかとスカートと相棒を順繰りに見ていると、先に折原くんから釘を刺された。
「絢音さん、もう乗ったら駄目だよ」
「……」
「駄目だからね」
「えー……あ、じゃあはい、折原くん」
持っていたサドルを差し出すように自転車を折原くんの方へ向けると一瞬怪訝そうに眉をひそめたあとすぐに思いっきり嫌そうな顔をした。わたしはニコリと笑っていつかの折原くんの言葉を繰り返す。
「理解が早くて助かるなあ」
「…絢音さんは厭味が上手くなったね」
「折原くんのおかげですよ」
わたしがもうひとつニコリと笑うと折原くんは降参、と言うように両手を肩の高さまで上げてみせた。まるで外国の映画の様な気障な仕草が彼はとてもよく似合う。
けれどどうにも気乗りはしないらしい。サドルを受け取ったものの相変わらず嫌そうな顔で真っ赤な二輪車を見下ろしていた。確かに折原くんが自転車で颯爽と駆けてゆく姿などわたしの想像力の域を超えている。でも似合わないと思えば思うほどそれを見てみたくなるものだ。そして、わたしが少し押せば折原くんは拒否できないことを、わたしはここ何週間で知っている。
「じゃあわたし後ろ乗るから折原くん運転お願いね」
「……」
「折原くーん」
「…絢音さんも乗るなら仕方ないからいいけど」
折原くんが溜息をついてサドルに跨ったので、わたしもなかなか折原くんの扱いが上手くなったものだなあとひっそりと悦に入ってその荷台に腰掛けた。今度はスカートを引っ掛けないように、たわんだ両側をくるりと足の内側へ挟む。それまで隠れていた素肌が途端にじりじりと焼かれるのを感じて、長い丈に油断して日焼け止めを怠った自分を恨めしく思った。
「……絢音さん」
折原くんが憮然とした声でわたしを呼ぶ。なあに、と答えた声は折原くんとは反対側の青い空に流れていった。
「何で後ろ向きに座ってるの」
「はい?」
首を後ろに捻ると、同じようにこっちを見ていた折原くんの目と視線がぶつかった。いつもより細められている両眼は、どうやらわたしを非難したいらしかった。折原くんは、何で、と同じ台詞を繰り返す。いい加減後ろに捻った首がしんどくなってきたので折原くんを見るのをやめにして、代わりにその背中にもたれ掛かる。折原くんの熱が背中からじんわりと伝わって、年甲斐もなく何だかドキリとしてしまう。たかが背中が触れたくらいで。彼とそれ以上のスキンシップなんて今までにも沢山してきたのに。あまつさえあのバス停での膝枕だ。
「何でってこうしないと写真、撮れないでしょう」
自転車を自分で漕いでは写真が撮れない。バスに乗ってはどうしても窓の硝子が邪魔になる。なるほど初めからこうすればよかったなあと、わたしは後ろへ後ろへ流れてゆく折原くんの苦手な青い空をカメラに収めたけれど、折原くんはそうは思わないらしい。緩くくっついた背中から不満げな心中が伝わってくるようだ。
「……絢音さんてほんと写真ばか」
折原くんはわたしの職業病を評してよくそう言うけれど、もうわたしにはその台詞が言葉ほど厳しいものではないことくらい分かっている。自惚れてしまうなら、まるで折原くんが写真に妬きもちをやいているような。
「これじゃあ俺ただの運転手じゃない」
「そんなことないよ、運転手さんには背中くっつけたりしない」
「…二人乗りって普通は腰に手回すよね」
「そうなの?」
「知らないよ」
「折原くんが言ったんじゃない」
ぷいっとそっぽを向いたらしい折原くんが前傾姿勢でぐいぐい自転車を漕ぎ始めたので、上半身の体重のほとんどを彼の背中に預けていたわたしは自然、身体を反らす姿勢になった。後ろへ流れていた青空が、見上げた先で今度はどこまでも深く高く突き抜けてゆく。折原くんにもたれかかったままカメラを構えると、背中越しに折原くんが呆れたように笑うのが分かった。

・・・
出し抜けの自転車旅は近場をぐるりと回って終わり、ようやく御役御免となった折原くんはご丁寧にマンションの前までわたしと相棒を送り届けてくれた。スタンドを下げた自転車の上で、わたしが今度こそスカートを引っ掛けないようにのろのろと動いていると、いつの間にか目の前にいた折原くんがひょいと両脇に手を差し込んでわたしを持ち上げようとする。折原くん、と呼んでみれば動きが止まって返事が返ってきた。わたしに触れたままの腕の長さだけの距離。前屈みの頭の天辺はもっと近い。どういう仕組みなのか赤く見えるその瞳を覗き込めば、さっきまで触れていた背中がじわりと熱かった。折原くん、とまるで口癖のようにわたしは彼の名を口ずさむ。一度呼んでしまえば閉じた唇が淋しい。淋しいのは、嫌いだ。
手を伸ばしてぐい、と首を持ち上げればとても容易くふたつの唇は繋がった。繋がって、音も残さずに離れる。けれどわたしと折原くんの呼吸は繋がった先で確かに溶けあって、互いの喉奥に飲み込まれた。ひとつ短い息を継いだ折原くんが触れたままの手に力を込めてわたしを持ち上げて自転車から下ろす。
とん、と地面を叩いた踵のない靴のせいで、わたしと折原くんの身長差はいつもより大きい。斜め後ろから西日を浴びる真黒な折原くんは、淡い橙色の輪郭を帯びていた。わたしはカメラを構えるのも忘れてその姿に、目を奪われる。

120830 マキシスカートと赤い自転車
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -