「ねえ折原くん」
おそらくはこの夏いちばん多く呼んでいる名前をゆっくり発音すると、なあにと可愛らしい返事がわたしの膝から返ってきた。そう膝の上から。このまっくろくろすけはまったく猫のような男の子で、いつもはツンとすました顔をしている癖に心を開けばどこまでも懐く気質のようだった。今はわたしの両膝に頭を預けてご機嫌で携帯を触っている。
「帰らなくていいの?東京」
彼は仕事で来ているらしいのだけれど、わたしはその彼が仕事をしている所に出くわしたことが無い。それでいて一日のほとんどはわたしの隣に居るという生活を送っているのだから、いい加減出張という言葉を信じるのも難しくなってきたところだ。
「ああ、出張ついでに有休取ったから。俺今夏休み」
「え?いつから?」
「絢音さんと会った次の日くらいかな」
「まさか折原くん…」
「え、何?」
「写真撮られるの好きになっちゃったとか」
「…現代って便利だよねえ携帯で帰りの電車の切符が取れるんだから」
「ごめんごめん、意地悪言っただけよ」
戯れに膝に乗っかっているその頭を撫でると、折原くんは毒気を抜かれたようで、まったく絢音さんはうんたらかんたらと何やらブツブツ言っていたけれど基本的に今日はご機嫌の日らしい。すぐに表情を緩めるとわたしの方へ手を伸ばしてきた。
人間とは逞しい生き物で、顔の下に折原くんが見えるこの姿勢にわたしは早くも慣れつつあった。折原くんの細い指がわたしの首元をくすぐる。場所が場所ならそれは恋人ふたりの甘やかな時間に見えたことだろう。そうだ、少なくとも、ここがバス停の脇に据えてあるベンチなどでなければ。
ジー、ジー、と忙しく鳴くのはアブラゼミ。
容赦なく紫外線をもたらす太陽の下で、わたしたちは隣町へゆく一時間に一本のバスを待っていた。


アナザー・イエスタデイ / cut.2


ガタゴトと粗い道の上をバスは揺れる。夏のバスは好きだ。窓の外を走る青い景色を見ていると、無性に駆け出したくなる。靴を脱いで裸足になって、お気に入りのワンピースの裾を翻して。そんな小さな女の子のような衝動の代わりにわたしはカメラを覗き込む。四角く切り取られた景色がわたしの視界になって後ろへ後ろへ流れてゆく。
「絢音さん」
折原くんはわたしの膝をクッション代わりにすることなくきちんと席に座っていた。平日のお昼前にバス旅を楽しむ暇人などわたしたちしか居なくて、貸し切りの車内でわたしと折原くんはいちばん後ろの5人席だか6人席だかを陣取っている。
「もうかれこれ1時間はこうしてバスに揺られてると思うんだけど」
「うん」
「まだ着かないの」
二人とも窓際の席を譲らなかったので、わたしたちは横長の席のそれぞれ端っこに寄っている。窓際がいいと言ったわりに折原くんは外の景色を楽しんでいるわけではなさそうで、窓枠に肘をついて物言いたげな目でこっちを見ていた。
「もう少しもう少し」
「…絢音さんのもう少しは当てにならない」
「そう?はい、降りますよ」
「……」
折原くんの我慢の限界と降車駅はほとんど同じにやってきた。完全にむくれている折原くんの手を引っ張って二人分の回数券を運転手さんに手渡すと、可愛いボーイフレンド連れとるね、とニッコリされてしまった。
お腹を空っぽにしたバスが青い景色のなかを走っていく。その後ろ姿をパチリと切り取ると、いいタイミングでフィルムが終わった。

古いビルとビルの間に埋もれるように納まっている小さな店のドアを開けると、ひやりとした空気が夏の匂いを纏って汗を含んだ肌を撫でた。薄暗い店内は、まるで商売をしようという気がなくて、雑然と並べられた商品には値札も説明書きも付けられていない。初めて訪れた時には大分心許なく思ったものだけれど、それでもこうして1時間以上バスに揺られてまでこの店に来ようと思うのは、ここにはここにしかない価値があることを知ったからだ。
「これ営業してるの?」
折原くんが呆れたようにきょろきょろと店内を見回すのも無理はなかった。本当に、ここの主人は商売をする気がさっぱり無い。
「うーん、たぶん暗室かな…」
この小さな写真店には、その店構えにおよそ不釣り合いなほどの立派な暗室が備わっている。たっぷりとした白いおひげをたくわえた職人気質のおじいちゃんの現像の腕とその暗室設備に一目惚れしてこの店に通い始めたのはあの町に越してきてすぐのことだ。東京の大きな写真屋さんでもなかなか置いていないめずらしいフィルムをこの小さな店で思いがけず見つけて涙ぐんだわたしの写真馬鹿ぶりを気に入ってくれたらしくおじいちゃんは、
それから暗室を使わせてくれたりフィルムを取り置きしておいてくれたり、隣町から足を延ばしてやってくるだけの理由がここにはあった。
「おお来とったか、こないだの写真…ん、そっちは?」
ようやく暗室から戻ってきたおじいちゃん店主は、目をしばしばさせながら折原くんを顎で示した。けれど彼を紹介しようとした私を制して、あごひげをくるくると指に絡めながらうーんと唸る。宙ぶらりんな扱いをされた折原くんは困ったように方をすくめてみせた。
「ね、それより写真…」
「写真…?そうかどこぞで見たと思ったが…これはお前さんだろう」
おじいちゃんはわたしの催促を鮮やかに無視して、手に持っていたA4サイズ程に引き伸ばした写真を一枚折原くんに差し出した。当の折原くんはきょとんとしている。受け取った彼の手元を覗き込むと、それはあの日わたしが撮った写真だった。
木漏れ日の下、優雅で淋しい鴉色の後ろ姿。

写真と新しいフィルムを受け取って店を出ても折原くんは無言のままだった。黙っているというよりはぼうっとしているように見える。
お昼を過ぎていよいよ気温は真夏日へ近づいてゆく。働き者の太陽に手をかざすと、指の隙間からこぼれた夏の光がわたしの顔に影を作った。
「……」
「折原くん?」
「…絢音さんは俺を、こんな風に見られるんだね」
折原くんは例の写真を持ったままようやく口を開いた。やっぱり折原くんの言うことは時々難しい。ただ、写真が気に入らなかったわけではなさそうだったので、折原くんの言葉に耳を傾けながら彼の隣をゆっくり歩く。折原くんが折原くんにしか分からない言葉を使うように、わたしにもわたしにしか分からない感覚がある。それは詰まるところ、わたしの写真をこんなに穏やかで優しい顔で見ている折原くんを、わたしはどうしたってないがしろにはできないということなのだ。
ただ理想の被写体だった折原くんが、わたしの中で変わってゆく。けれどその緩やかな変化に付ける名前をわたしはまだ知らないのだ。

12812 クラシカルブルーの呼吸
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