鬱々とした梅雨の閉幕が宣言された朝だった。まだ眠気を纏った様な初夏の陽射しに夜のうちに降った雨の粒をくっ付けた木々の葉がきらきらと反射して、その隙間をすり抜けた木漏れ日が空と地上の間にあるものすべてをくり貫くように粗いコンクリート道に影を落としている。けれど、あらゆるものに等しく注がれるその木漏れ日のなかで、彼は悠々と立っていた。どんな柔らかな光も拒絶するような黒一色のその背中に欠片も木漏れ日の侵食を許さずに。
異様でいて、どこか物淋しいその光景に思わずシャッターを切ったカメラのファインダーの中で、鴉色の後ろ姿が前触れなく振り向いて不遜に笑う。


アナザー・イエスタデイ / cut.1


今年も夏がやってきた。誰に言われずとも体がそう実感するようになったのはこの土地に来てからだ。東京に居た頃は、季節の移り変わりはいつもあのコンクリートの街に吸い込まれてどの季節も灰色のフィルターが掛かったように味気無かった。それは鮮やかな季節を切り取る写真を商売道具にするわたしにとって致命的な欠陥で。街に手足をもがれるような心地がして、たまらずにわたしは東京から逃げ出したのだ。
同じように、あの街では味気ない四季の中にある毎日もついぞ面白味のあるものではなくて、
「おはよう、暑いのに元気だね絢音さん」
だから、こんな風に年下の男の子にまるで子犬のように懐かれる日常など、ちっとも想像したりしなかったのだ。
「折原くん。おはよう」
朝の挨拶もそこそこに手当たり次第パシャパシャと鳴るシャッター音に折原くんは苦笑する。最初のうちこそ無為に撮られることに戸惑っていた彼も、それが一週間毎日ということになれば慣れてしまったらしい。本当に素晴らしい被写体だ。
一週間。そう、折原くんと出会ってまだ一週間なのだ。それなのに彼はあっという間にわたしの日常に入り込んでもう、わたしは折原くんの居ない夏を覚えていられない。

東京から仕事で足を運んだのだという折原くんは、成る程あのコンクリートの街の空気を存分に纏っていて、彼があの木漏れ日をすり抜けるようにして夏の真ん中に在ったのにも納得がゆく。以前のわたしと同じように、きっと折原くんにとって季節はさして意味を持たないものなのだろう。でなければ、半袖でも汗の滲むこの気温の中で、飽きもせず全身真っ黒なスタイルを選択するはずもない。
「ねえ折原くん、いつも思うんだけど」
「うん、暑くないよ」
折原くんがニコリと笑う。わたしはまだ何も言っていない。ただ、毎日まっくろくろすけの装いで暑くないのだろうかと、もこもこのフードが付いている上着をじっと見ていただけだ。
この一週間でわかったけれど、どうやら折原くんはこういう人なのらしかった。汗ひとつかかずにニコニコしている様子は、道ですれ違えばきっとたくさんの女の子が思わず振り向いてしまうくらい爽やかで綺麗な顔の男の子なのに、真正面から向き合うと間違ってもそれだけではないことがわかる。いつだって底知れ無さを秘めた目が、見透かすようにこちらを見ているのだ。
けれどそれを怖いとは思わない。彼はわたしにとって文句なく理想的な被写体だったし、そしてそれは折原くんがただの爽やかな男の子ではないからこそに違いなかった。上辺だけの美しさを写真に切り取るのは大して難しくはないけれど、大して魅力的でもない。彼のように内と外がちぐはぐな人こそ、人物写真の被写体としては面白い。綺麗なものを綺麗に映すことならば、高画質なデジカメが普及している現代では小学校に上がる前の子供にだってできるのだ。

「…絢音さんてさ」
折原くんがため息混じりに肩を竦めた。わたしは相変わらずカメラを構えながらそれを聞いている。パシャリ。折原くんが一層呆れたように笑う。
「ほんと、写真のことばっかだよね、完全に職業病だよそれ」
「折原くんを撮るのは仕事じゃないよ」
「だから尚更なのさ」
「ふうん」
折原くんの言うことは時々難しい。しかもそれを相手に解きほぐして伝えるつもりが無いのだから余計に質が悪い。いつだって折原くんの言葉は折原くんだけが分かる形で折原くんの中で完結していて、つまりこれっぽっちだってそれを他人に分かってもらいたがりはしないのだ。
「折原くんってさ、変わってるって言われない?」
意趣返しの様に言うと、わたしから反撃が来るとは思っていなかったらしい折原くんとファインダーの中で目が合った。いつもは警戒した猫みたいにすうっと横長に切れている目がくるりと丸く開かれている。
そのレアショットを勿論抜かりなく収めると、折原くんはいよいよ臍を曲げた猫のような顔をした。そういう顔を見るとわたしは彼が自分よりも年若いことを思い出すのだ。いつも折原くんはどこか年下と割り切れない節があるから困る。
「若いってひとつ違うだけじゃない」
「年上のお姉さんぶりたいの」
「そういう所が年上に見えないんだよ絢音さんは」
「…それは折原くんのせいだと思うけど」
「いい大人が責任転嫁は良くないよ」
口では敵わないことはこの一週間で十分に学んではいたけれど、悔しいことには変わりないのでわたしはむう、と唇を尖らせながら、真っ黒のもこもこフードを折原くんに被せてやるのを想像して気を晴らした。
わたしがフードのもこもこに尋常ではない視線を送っているのに気づいた折原くんが、何かな、と若干引きつった顔で笑う。口でやり込めることは叶わないけれど彼の表情を崩すことなら、さして難しくはないのだと気付いたのもこの一週間。折原くんいわくわたしは貴重種らしいけれど、わたしに言わせれば折原くんが何事にも動じないひとだなんて言うのはどうしたって間違っている。わたしが貴重種なのは、きっと折原くんのツボが普通の人とは少しずれた所に在るからに違いないのだ。だからこそ、折原くんは変わっている。

季節は夏。
スロースターターの太陽がようやく元気を出し始めて、気温はぐんぐん上がっていく。じわりと滲む首筋の汗を拭いながらわたしは、すっかり隣に居ることが当たり前になったこの少しばかり風変わりな年下の男の子と冷たいものを求めてこの片田舎に数軒しかない喫茶店を目指してのんびり歩く。

120806 ア・フィルム・ボーイ
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -