いつの間にか、夏と呼べる季節は数えるほどしか残っていなかった。わたしの夏はあれで終わってしまったけれど、世間の夏はもう少しだけ続く。ロスタイムのような、在って無いような時間でも、それでも夏には違いない。


アナザー・イエスタデイ / cut.8


折原くんはやっぱりわたしの前から居なくなった。居なくなってしまう癖に笑顔でまたね、なんて言えてしまうあたり、やはりわたしは彼にとって大した存在ではなかったのだと、折原くんが隣に居なくなった日を過ごしながら考えた。少なくとも最後の別れの言葉が嘘であっても平気なくらいにはそうなのだろう。そう考えるともうどうしようもなくもどかしくって、空っぽの右側が、呼べない名前が憎たらしいほどわたしを引っ掻き回す。同じいつかは離れてしまうのでも、その前途に希望が持てるさよならが良かった。完全な嘘ではないまたね、がこれからもわたしのどこかに深く深く染みつくような、そんな夏の終わりが欲しかった。

「店に来て早々溜息をつくな、客が逃げる」
そう言って眉間に皺を寄せたのは写真屋のおじいちゃん店主だ。ごめん、と謝ってしまってから、そもそもこの店にお客さんが寄り付かないのはわたしの溜息うんぬんの前にこの店主に商売する気が無いせいなのだと遅まきながら気が付いた。今だってわたし以外のお客さんは居ないし、そもそもわたし以外に通いの客がいるかだって怪しいくらいの景気の悪さなのだ。
「いや、こないだ現像の客が来たぞ。大量にな」
「大量?へえ、観光客の集団さんかな」
「違う違う、大量は写真の方だ」
店主は含めたように笑って、暗室に引っ込んでしまった。置いてけぼりにされて手持無沙汰に相変わらず薄暗い店内を見回すと、フィルムやレンズが雑然と並んでいる商品棚の隅っこでこの店にそぐわないやけにカラフルな色彩が目に入った。手に取ってみると夏が香る。夜店で売られているような水ヨーヨーだった。長いゴムを指に引っ掛けて、水の入ったゴム風船をぱしゃぱしゃと叩くあれだ。誰かが置き忘れたものなのか、所々に絵の具の黄色や赤色が散る派手な風船はだいぶ萎んでしまっている。水はほとんど入っていなかった。
わたしはこれを取るのが下手だった。緩く捩じった紙縒りの先を知らぬ間に水に濡らしてしまって、後もう少しというところまで持ちあがっていた風船がぱちんと跳ねて水の中へ戻っていく。いつもその繰り返し。それでも夏の祭りは好きだった。ざわざわと浮足立って誰もかれもが心の内に秘めた騒がしさをいつもより少しだけ解放する、あの雰囲気がたまらなく好きだった。

折原くんが居なくなった日、この町で夏祭りがあった。花火も山車もない、近くの神社の境内に夜店が並ぶだけの小さなものだ。
意地が悪い、と思う。何のことはない、折原くんのことだ。夏祭りの日に彼はわたしの前から居なくなった。おかげでわたしは毎年夏祭りが来るたびこの夏と折原くんを思い出しては苦い気持ちになるに違いない。居なくなるならせめて、何でもない日にしてほしかった。毎日の慌ただしさの中でひっそりと過ぎて行く、そんな日がよかったのに。まったく、折原くんらしい。

今ここに居ない人に溜息が出る。聞きつけたように暗室の扉が開いて店主が戻ってきたので慌てて吐きだしたばかりの二酸化炭素を吸い戻した。曰くわたしの溜息は閑古鳥を連れて来る効果があるらしい。
「良い写真になったな」
出来上がったばかりの写真をわたしに手渡して店主が目を細める。それはわたしが最後に撮った折原くんの写真だった。夏の終わり、その鴉色に街路樹の葉影を揺らす淋しい後ろ姿。陰影を濃くしたことで、鮮やかな青と緑の背景の中で全身黒一色の折原くんは余計に強い印象を残す。並木道が真っ直ぐ奥へ伸びるだけの単調な構図が、視線を惑わず彼に集める。決して明るい雰囲気の写真ではないけれど、良い写真だと思えた。
「前にも似たようなのがあったが、俺はこっちの方が好きだ」
「うん、…よかった」
よかった。転がった言葉は吐き損ねた溜息の代わりにわたしに呼吸をさせてくれた。折原くんが居なくなってから、上手く息ができなかったわたしに酸素をくれた。何がよかったのか、どうよかったのか、綺麗な空気を吸い込むように大きな呼吸をすれば、きっと分かる気がした。
「そういやこの間の例の大量の客の写真、あれもなかなかだったぞ」
「?その人プロだったの?」
「いいや、カメラに関しちゃド素人だろうが、良い写真ってのはそれだけでもねえってことさ」
悪戯っぽく笑って顎髭を撫でる店主は嬉しそうだ。この人はこの人で、本当に写真が好きなのだ。ほれ、と言って彼は勘定台に分厚い束を放って寄越した。良い写真だと言ったわりにぞんざいな扱いに戸惑う。
「え、勝手に見ちゃ…」
「いいんだよ、それにあながち勝手でもねえさ」
まるで誰かさんのように難しいことを言われたけれど、この頑固店主が手放しで褒める写真がどんなものなのか見てみたかった。躊躇いながら勘定台に散らばった写真を集めて表に返す。
何でもない写真だ。ただの人物写真。だけど――

「………っ」


写っていたのはわたしだった。表情や格好はさまざまだけれど、どれも間違いなくわたしだった。

間違いなく、折原くんと居たときのわたしだった。

「なかなか良い写真だろう」
「…わたし、こんな顔してたんだ」
「だから写真ってのはいいんだよ」
店主の言葉がすとん、と胸の中へ落ちた。折原くんが初めてわたしの撮った彼の写真を見た時だ。絢音さんは俺を、こんな風に見られるんだね。彼はあの時そう言った。
わたしが彼を見たいと思って写真を撮っていたように、カメラを欲しがった折原くんもわたしを見たいと思ってくれたのだろうか。ファインダーを通してわたしをもっと知りたいと、思ってくれていたのだろうか。だって、わたしの写真なんか依頼の何の役にも立たない。折原くんのほんとうは、確かにあそこに在ったのかもしれない。
そうならば、もし本当にそうならば、どんなに良いだろう。どんなに、嬉しいだろう。
「…こ、れ」
「夏祭りの日に、あの坊主がこれを現像してくれって持ってきてな」
おじいちゃん店主は勘定台の下からカメラを取り出す。わたしがあの日折原くんに貸したものだ。
「すぐやってくれっていうんで妙に思ったんだが、あいつ出来上がった写真をじいっと見てそれですぐ帰ったんだよ」
「……」
「持って帰らねえのかって聞いても、これで十分だってな」
折原くんらしいと、思った。きっと彼にとって切り取った時間を色褪せないままに持ち歩くことなど意味の無いことなのだ。大事なのは、ファインダーを通して見えるもの、その見え方。写真家には向いていないけれど、だからこそ写真家には撮れないものが出来上がる。彼の写真は、堂々たる良い写真だった。

束ねられた写真は一周してわたしの間の抜けた顔の大写しに戻った。折原くんが最初に撮ったもの。わたしの部屋で、外はまだ暑くて、蝉が競うように鳴いていた。夏の真中の昼下がり。フィルムの回る音と、いつの間にか止んだ蝉時雨。硝子に当たる金属の音。わたしに触れる彼の――

わたしは急いで写真を繰る。分厚い束の中、あの写真だけがどうしても見つからなかった。

「…ない」
「何がだ」
「一枚だけ、無いの。写真」
「?何でわかる」
「だって…」
わたしは思わず口ごもる。だって、それを言えばどんな写真だかわかってしまう。
「…それだけは撮られたの、ちゃんと覚えてるもの」
もごもごと言うと、おじいちゃん店主はふうむと唸ったきり窺うようにこちらを見ていたけれど、やがて眉間の皺をするりと解いて穏やかに笑った。
「どんな写真かは分からんが、あの坊主がこの中からその一枚だけを持ってったってんなら、よほど思い入れのある写真なんだろうよ」
「……大事にしてくれるかな」
「当たり前だろう」
何故か自信たっぷりに笑う店主を見ながらわたしは、折原くんを思ってせり上がる目蓋の裏のじわりとしたこの浸水感を、ずっとずっと覚えていようと思った。

120919 オーバータイム
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