目当ての子羊はわたしの予想通りのところで後ろを向いてしゃがんでいた。
「ま さ き」
「っ…なん、で」
「なんかあるたびトイレに逃げる子が何を言うか」
わたしが言うと、茉咲はこっちを見ないままぐすんと鼻を鳴らして返事をした。その後ろ姿はとても高校生には見えない。
「制服、見せてみ。どこ濡れたの」
「………スカート」
余程泣き顔を見られたくないのか茉咲は頑として顔をあげないまま膝まであるスカートの裾を指差した。糖分と水分が存分に染み込んだ生地は濃い青に変色して、茉咲の足元に水滴を垂らしている。千鶴の多すぎる紙ナプキンが役に立ちそうだ。手洗い場に移動して紙ナプキンを水に濡らす。顔を上げると茉咲のべそ顔が上半分だけ鏡に映った。この後輩は、たまに本当にびっくりするほどちっちゃい。ふわふわの頭を撫でるとべそ顔がこっちを向いた。ほっぺと真ん丸な目と小さい鼻を真っ赤にして、唇はぎゅっと噛み締めて。本当にこの子は、心の底から春が好きだ。
「ねえ、茉咲」
「……なに」
「あんた春のこと好きで楽しい?」
「?!ななななな何言って」
「こちとらネタはあがってんのよ、今さらとぼけなさんな」
「しゅ春ちゃんに言っ」
「言わないよ。まーちゃんお姉さんをあんまり見くびらないでよね」
「……ごめん」
両手でぎゅっとスカートを掴んで茉咲が項垂れる。
茉咲はどんくさい。人の手を借りることが大嫌いなくせに、本当にもう、どうしようもないくらいどんくさい。だけどそれが春の前では輪を掛けて酷くなる。春が見てるから、春の前だからと頑張ろうとしては失敗して。それの繰り返し。春はそれに気が付いたりしないから、茉咲はいつもこうやってひとりで泣く。春も春だし、茉咲も茉咲なのだ。
「茉咲はさ、何で春のこと好きなの」
「…わかんない、でもああやって追い掛けてくれたの春ちゃんが初めてだったの」
ばんそこを手に走って来る春を思い出したのか、べそをかいていた茉咲がほんのり笑った。改めて聞かなくとも分かる。春のことを好きで、茉咲は楽しいのだ。

「わたしね、悠太のこと好きなんだ」
突然変わった話題のせいか前触れのない告白のせいか茉咲はすごい勢いでわたしを見上げた。何か言いたげに口をパクパクさせている。祐希とおそらくは要に漏えいしていたわたしの心も、茉咲に伝わってしまうほどのザル具合ではなかったようで、わたしは少し安心した。茉咲に勘付かれていようものならこれは、気付いていないのは春くらいのものだろうから被害は甚大である。少なくとも悠太には筒抜けのようなものだ。
茉咲はなおもわたしを見上げていたけれど、やがて僅かに微笑むと
「うん、すごく、似合ってる」
「でも…自信ないなあ」
「え、何で?すごく仲良いし…」
「そりゃ、十何年も幼馴染みやってたらね」
「幼馴染み」
「うん。わたしの場合、それが問題」
貸してみ、と茉咲のスカートの裾を摘まむと大袈裟にめくれたそれに文句も寄越さず、茉咲は何やら考え事をしているようだった。ので、これ幸いと茉咲のスカートを膝上まで持ち上げてJKな茉咲を楽しんでやる。
その細っこいおみ足を眺めていると、おもむろに茉咲が何やら呟いた。
「ん?なんて?」
「ううん、幼馴染みってわたしは羨ましいと思うけど、色々あるんだなあと思って」
「…そーなんだよね」
わたしはわたしで、茉咲は茉咲で、きっと今の立ち位置に不安はあって。けれど同時にそこが自分だけの場所だということもちゃんと頭ではわかっていて。
本当に。恋愛ってやつは難しい。大人には高校生が知ったような口を、って言われるかもしれないけれど、数ある感情のうちまだその多くを知らない高校生は、きっとその分知っているひとつずつが心を占める割合が大きくて重たい。どんなにつまらないことでも、それは心のどこかに引っ掛かってわたしたちを悩ませる。
中でも恋愛はきっと、たくさんの感情を使わなくてはならなくて、だから発展途上のわたしたちには少し荷が重い。高校生には高校生なりに、恋愛は難しいのだ。

「でも今はちょっと楽しい」
「?」
「こうやって、悠太のこと話せるの茉咲くらいだからさ、わたし」
悠太はやっぱりモテるから、女友達に話したところでどう拗れるか分からない。ましてわたしは悠太の幼馴染みという彼女たちから見れば特殊な立場で、その職権を濫用していると思われるのはやっぱり気持ちの良いことじゃないのだ。

「わ、わたしも春ちゃんのこと話すの、絢音だけだから…」
「あはは、照れるな照れるな」
笑って頭を撫でてやると、違うわよっ、と茉咲がささやかな反抗をする。わたしの肩の辺りに飛んできたその小さな手のひらを捕まえて、茉咲と視線を合わせた。
「だから今の話は2人の秘密、ってことで」
「…うん」
「わたしが弱音吐いたことも」
「うん、ひみつ」
「茉咲が泣いたこともね」
「……泣いてない」
「いやーそれは無理じゃないのまーちゃん」





トイレを出ると、気が気でなかったという顔の春と、負けず劣らず心配な顔をした千鶴が茉咲に駆け寄ってきた。ちらりと目が合った茉咲は、2人の間からにこりと笑った。
「お疲れ様です姐さん」
席に戻ると祐希がすっかり温くなったジンジャエールを差し出して言う。わたしは姐さん気分でふんぞり返ってそれを受け取った。
「うむ、良きに計らえ」
「それちょっと違うんじゃ…偉ぶりたい感じはわかりますが」
祐希が半眼でわたしを見る。隣で要がおっきなため息をついた。そう言えば要のお説教の続きは破談になっただろうか。ねちっこい要のことだ、下手に怒らせるとお説教モードが再稼働しそうだから今は大人しくして
「そうだなあお前はまずそのお喋りな口を大人しくさせる必要がありそうだなあ…!」
「あ、しくじった」
「ほんとにもう、絢音は要を怒らせることしかできないの?」
「…祐希てめえもな!」
「ああもうお店の中で騒がないでください!怒られますよ!」


ハンバーガー屋さんの外はもう夕焼けだった。長く伸びる影で遊ぶちびっこ組の背中を見ていると、わたしの隣に一際長い影がひとつ並んだ。
「…さっき、茉咲となに話してたの?」
悠太はやっぱり地面に落ちた影を見ながら脈絡のないことを聞いた。わたしは赤く色付いたその横顔を見てからガールズトーク、と答える。悠太は何やら不満そうにわたしの答えを繰り返した。
「…ガールズトーク」
「なによ」
「絢音がねえ」
悠太は目線を自分の影にくっつけたまま呟いた。まるでわたしがガールズトークをするに足る女子的要素を持ち合わせていないとでも言いたげな口ぶりである。あらためてわたしは悠太の中の自分の位置が嫌になってしまう。悠太の横顔を見つめるのをやめにして少しだけ早足で歩くと、半歩遅れた悠太の声が後ろからわたしを追い越した。
「絢音って…好きな人とか、いるの」
思わず振り向いて見えた悠太は、いつも以上に何を考えているのかよくわからない無表情で夕日を浴びて立っていた。はしゃぐ千鶴や茉咲たちの声がずっと遠くの方に聞こえる。
わたしには悠太を好きな他の女の子がきっとやるような駆け引きなんて、少なくとも悠太相手には絶対にできやしないから、

「…いるよ」

これは宣戦布告なのだ。悠太と、その一歩が踏み出せなかったわたし自身への。もう後戻りはできない。この気持ちがどんな形で決着を迎えようとも、その瞬間まで、わたしはこのじくじくとした痛みを抱えて決して手放してはいけない。手放したり、するものか。

悠太が、やっと影から目を離してわたしを見た。代わりに長いその影が、わたしの影も飲み込んで、やがて一緒になって赤い地面を伸びてゆく。


120503 眠り姫のおままごと
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