学校でいちばん高い場所に上って、わたしは一人だった。ずっと下の方で体育の授業らしき笛の音が聞こえる。階下の教室からは古典だろうか、すっかり現代には馴染まなくなった雅な言葉遣いがつっかえつっかえ音読されている。
つまりは授業中だった。
トイレにふらりと出掛けたまま帰ってこないわたしを心配したのか、あるいは抜け駆けでサボタージュを敢行したことに文句のひとつでも言いたいのか、さっきからわたしの携帯は千鶴からの着信を知らせて震えっぱなしだ。祐希と要からは何のリアクションもないのは通常運転であるけれど。そもそも授業中に電話をかける千鶴が考えなしなのだ。わたしが出たらどうするつもりなのだろう、あのおサルさんは。
「あー……」
間延びした、声とも溜息ともつかぬ感情の音は、曇り空の隙間に吸いこまれていく。わたしはわたしの感情を持て余していた。

『絢音って…好きな人とか、いるの』
『…いるよ』
わたしのいっぱいいっぱいの答えに、けれど悠太の反応は芳しいものではなかった。いつもの無表情で、そう、と答えてそれきり、話題はあっさり次へと変わっていったのだ。
わたしのその手の話に興味などないと言われたようで思い出すだけでも居たたまれなくて、わたしは狭い給水塔のてっぺんをごろごろ転がる。ああもう、きついなあ。
今まで隣にいるのが当たり前だったのに、悠太を好きだと自覚したとたんに不安になる。それが当たり前じゃないと、気づいたから。
わたしが悠太のそばにいられるのは幼馴染みだからで、それ以上にもそれ以下にもなってはどのみち今のままではいられない。それでもいいやと簡単に割りきれるほど、13年という時間は短くはなかった。

そして結局、抜け出した1時間はなんの収穫も得られないまま終業のチャイムを迎える。





「まったくー急に居なくなるから何事かと思ったじゃんよ」
「ごめんごめん」
「絢音がサボりとか、めずらしいよね」
「まあわたしだってたまにはね」
まさか悠太のことで悩んでました、と言えるわけもなく。曖昧に濁して本日のBランチについていたポテトサラダにフォークを突き刺す。白く粉吹いたジャガイモは大きく入ったフォークの重圧に耐えきれずにポロリと左右に割れた。
「で、絢音どこに居たの?」
「ん?屋上」
「マジでさあ、俺絢音のせいでさっきの数学当てられたんだかんな」
「え、なんでよ」
「前の席の絢音が居なかったら寝てんのすぐバレるだろー」
「いや、つーかまず寝んな」
数学、というか勉強が苦手な千鶴さんはプンプンご立腹だ。わたしは知らないうちに千鶴の壁にされていたらしい。ごめんね、とお詫びの印に嫌いなミニトマトを献上したらとりあえずそれを口に運ぶことで千鶴は少しの間静かになった。
「絢音が屋上でのんきにサボってる間俺はめっちゃ計算させられてたんだかんな!ミニトマトで手を打てると思うなよ」
「えーわたしだってすごい計算してたよ、あと何回サボれるかなって」
「授業に出ろおおお!」
「つーか手を打つも何もお前それ絢音の嫌いなもん押し付けられただけだからな」
「要、しー!」
これだから幼馴染みは困る。当然のように互いの食べ物の好き嫌いまで把握しているのだから。
…好き嫌いか。食べ物の好みは何年も一緒にお昼を過ごしていればわかるけれど、そういえば悠太がどんな女の子が好きなのかは知らない。悠太に限らず、年上好みが周知の要を除けば祐希の好みだって春の好みだってわたしは知らないのだ。
こういうところが、わたしが彼らの幼馴染である所以なのだろうなと思う。自分が彼らの恋愛対象になりたいと思わなければ、それ以外に優先して知るべきことなどいくらでもあるのだから。そしてわたしはこの13年間、その"それ以外のもの"を優先して知ってきたのだ。今はそのツケが回ってきたと言うべきなのかもしれない。

「絢音、聞いてんのかこらー」
「う、え、ごめん何ちーさん」
「ったくー大丈夫かー?何かここんとこ変じゃね?授業サボるし何か上の空だし」
「そうか?いつもこんなもんだろ」
「絢音ちゃん何かあったんですか?」
「んー大丈夫、何もない何もない」
強いて言えば何もないことが問題なのだが。言外の溜息が聞こえたわけではないだろうが、祐希が意味深にこっちを見てきたのでとりあえずテーブルの下の上履きで遺憾の意を示しておいた。向こう脛に上履きの先が綺麗に入って、祐希がテーブルに突っ伏する。しばらく余計なことは喋れまい。参ったか。
「?何してんだ祐希」
「急に何も喋りたくなくなったんじゃない」
「はあ?」
「それよりさ、午後の授業何だっけ」
「古典と数Uだろ」
「また数学かー…ふーん」
わたしの脳が結論を出す前に、わたしの返事に不穏な何かを感じ取ったらしい千鶴がわたしを指差してわめきはじめる。
「オイコラまたサボる気だろおお!俺また寝れねぇじゃん!」
「ちょっと千鶴、わたしは千鶴にとって壁でしかないわけ」
「友達 兼 壁だ!」
「そんなカテゴリーの人間関係は聞いたことない」
「まあ半分壁だからな」
「いやいや絢音という壁があるからこそ俺は安心して寝れる訳だよ、むしろ誇っていんじゃね?」
「わかったよ千鶴、これ以上わたしを壁扱いするなら友達の方もやめさせてもらいます」
「ええ!友達やめるくらいヤなの俺の壁!」
「違うよ千鶴、絢音は千鶴の壁が嫌なんじゃなくて千鶴の友達がどうでもいいんだよ」
「フォローになってねえ!」
いつの間にかわたしの脛蹴りから復活した祐希が半眼で千鶴を見るけど、千鶴は全く反省の色がない。
「しょうがないな、千鶴くんが真面目に数学を受けられるように絢音お姉さんが一肌脱いであげよう」
「いらん世話だあああ!」


結局、千鶴の絶叫は見事なまでの前振りになってしまった。昼休み明けの最初の授業、古典の間ずっと千鶴の刺さるような視線を背中に感じていたけれど、金髪のおサルさんごときの目力がわたしの抑止力になるはずもなく、とっくにサボりの意思を固めていたわたしは授業が終わるチャイムと共に窓の外を指して あ、茉咲!という古典的な手段で千鶴の目を欺くことに成功したのだった。
正直、もう色々と考えすぎて煮詰まっているわたしだからここへ来てどうするということも無いのだけれど、本日最後の授業のこの時間を教室で過ごせば、そのままいつもの流れでまた6人で一緒に帰ることになる。今ばかりは、それが少し憂鬱だった。

悠太を好きになってから、わたしは悠太の顔を見るのが少し怖くなった。わたしにとって好きという感情は、何だかとても厄介だ。今まで普通にできていたことができなくなって、気にもしなかったことがとても気になる。今までの方が近すぎて、いざ恋愛感情でもって悠太と正しい距離を取ろうとするとわたしはふらふらと蛇行運転ばかりで。何だかとても、しんどいのだ。

わたしたちのクラスの数Uの授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。とりあえず一緒に帰れないことを伝える旨を要にメールしておいて、給水塔の上で背筋を伸ばす。
今日が終わったら、明日からは普通に戻ろう。数学もちゃんと出て、休み時間には祐希たちとジュースじゃんけんをして、お昼には6人で屋上でお弁当を食べよう。たまに茉咲も交ざったりして、わたしは祐希と千鶴と一緒に要を怒らせて、悠太にしょうがないなあって笑ってもらおう。春はきっとあたふたしてお花を飛ばしている。いつもどおりの明日に戻ろう。茉咲は春が好きで、千鶴はそんな茉咲を好きだけど、わたしはそんな二人を笑って応援してあげよう。わたしが悠太を好きだとか、そんなのはそれからだ。
今までどおり、いつもどおり。
わたしたちにはそれが1番正しくて1番大切なことなのだ。

だってやっぱりわたしたちは、どうしたって幼馴染なのだから


立ち上がって よし、と両手の拳を握ると、給水塔の下の屋上の扉が開いたのでわたしは慌てて腰を下ろす。人知れず気合いを入れているところなんて、見られたいものじゃない。
ドアから出てきたのは見知った顔だった。
「浅羽くん!」
追い掛けてきた声は、少しだけ緊張を含んでいて、これまでわたしがたくさん見てきた浅羽兄弟に想いを寄せる女の子たちのものとよく似ていた。屋上の中央でドアに背を向けて立っているその影が、声に気付いて振り返る。それと同時に、その彼女がコンクリートの地面の割れ目につまずいて前のめりに体勢を崩すのを、わたしは嫌に冷静な頭で見ていた。


『絢音』 『階段。ぼーっとしてると危ないよ』 『ほら…危ないから』


「大丈夫?そこ、コンクリート出てるから」
「あ…ありがとう…あ、ごごめんね…!」
悠太に抱き止められるようにして助けられた女の子が、いつかのわたしと重なる。
顔を真っ赤にした女の子と無表情の悠太は、その後も会話を交わしていたようだったけれど、わたしの脳はもはやそれを耳まで届けてはくれなかった。

いつもどおり。今までどおり。
「なんだ…簡単じゃん…」
だって、わたしの前の悠太は本当はずっと、みんなの"浅羽くん"でしかなくて、わたしはわたししか知らない"悠太"を好きになったけど、それもやっぱりみんなの"浅羽くん"で。何も変わらない。悠太はずっといつもどおりだった。わたしが勝手に、特別だと思っていただけ。
「…!」
やにわに屋上に響いた着信音は、4人の幼馴染と千鶴とそれから茉咲専用の。給水塔の陰に隠れて携帯を開くと、二人の姿は完全に見えなくなった。

from 塚原要
title Re;
了解。悠太もいないん
だけど絢音と一緒か?


悠太なら、ここにいる。わたしの背中の向こう側で、知らない女の子に"浅羽くん"の顔で、わたしにするのと同じことを、してる。

120524 暗転ファンファーレ
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