ドン、ドン、一呼吸ごとにお腹の奥まで響く音がして、空が赤や緑、青に黄色と色とりどりに変化する。いつものわたしならば、手放しで愉しんで夏の空を飾る花火のあかりを見上げているだろう。けれど今度ばかりはそれができずに、勿体ない事をしたと思えたのもずいぶん後になってからだった。
「せん、ぱい…」
「なまえ?」
強い視線に絡めとられて動けないわたしを怪訝そうに見た平和島さんが固定されたままのわたしの視線を辿った。それが平和島静雄だと気付いたのだろう、相手はぎょっとした顔付きになって連れていた女の子を促すと人波の中に消えて行った。安心したのか思わず力が抜けてよろけてしまう。

それを抱きとめてくれたのも平和島さんだった。けれどその顔は今まで見たことのないような厳しい顔付きをしていて彼の腕の中でわたしは身を竦める。息が苦しかった。先輩に久しぶりに会ってしまったことも、それを平和島さんに目の当たりにされてしまったことも、こうして今平和島さんに抱きとめられていることも。平和島さんがこんな顔をしていることまで、全部、息が苦しい。
やがてわたしから体を離した平和島さんは、今度はわたしの手を取って足早に歩き出す。けれど怒っているのではないらしいことが、柔らかく握られた手のひらとわたしに合わせる歩幅の大きさでわかった。だからわたしも何も言わずにその手のひらに従う。温かくて大きくて、人柄がにじみ出るような平和島さんの手のひら。



「…大丈夫か」
次に平和島さんが口をきいたのは参道から随分離れた神社の鳥居の前まで来た頃だった。花火の上がる音と、ザワザワとした人ごみの喧騒がすこし遠くに聞こえる。祭の真っただ中にあって、それを忘れてしまうようなその空間にさしもの祭り好きのわたしもほうっと安堵の息をついた。
ドン、またひとつ一際大きな花火が上がる。
「ええ。平和島さんが、ゆっくり歩いてくれましたから」
「そうじゃなくて」
「……」
わたしの手を離した平和島さんが鳥居をくぐって歩いて行ってしまうのでわたしも慌ててその後ろ姿を追いかける。カラン、コロン、下駄が石畳を叩いて乾いた音を立てた。
隣には並ばずに、闇に溶ける平和島さんの背中の一歩後ろで立ち止まる。今は彼と顔を突き合わせながら話ができる自信がなかったのだ。わたしはすぐ顔に出る。

「…ちょうど2年前です。わたしはあの人と付き合っていたんです」
平和島さんは振り向くことなく返事も寄越さずにただじっと黙っていた。わたしはその金髪を見つめながらぼそぼそと続ける。
「わたしは大学1年生で、彼はサークルの2つ上の先輩でした。もともと気の多いひとだとは知っていたのですが、やはりというか結局わたしは振られました」
思えば終わりはずいぶん簡単だったのだ。新しい彼女が出来たから別れてくれ。別に好きな子ができたからでもなく、わたしが嫌になったからでもなく。そんな風に言われてしまえば、あの時のわたしには黙って頷くことしかできなかった。
「早い話、わたしは彼の1番でも、2番ですらもなかったんです。…いや、そもそも1番とか2番とか、そういう考え自体が彼にとっては面倒だったのかもしれません」
少しだけ笑ってみると、平和島さんが首だけこちらに向けてわたしを見た。きらきらの星屑をたくさん詰めたような平和島さんの目。今はそれが小さく曇っていた。
平和島さんと出会ってまだ2週間と少し。けれどその短い間にわたしは、平和島さんのその目が何よりわたし自身を正直に映す鏡であることを知った。
そんな平和島さんの目が、今は曇っている。だから、自分が上手く笑えていないことにわたしは気付く。

何も言わずにこちらを見つめている平和島さんを見ていることができなくて俯くと、頬を伝った水分がぽたぽたと境内の石畳を黒く濡らした。ますます顔を上げることができなくなってわたしは食い入るように地面をにらみつけていた。平和島さんは、何も言わない。
ドン、少し控えめな音を上げて金色の光が夜の空に散らばった。残光をちりばめてゆっくりゆっくり消えて行く。後には少し煙った夜空だけが残された。

夏祭りで、浴衣で、花火で。
なのにわたしは泣いている。

「…怖いんです、また誰かを好きになって、捨てられるのが、とても」

不意に腕を取られたかと思うと、転がり込むようにわたしは平和島さんに抱きしめられていた。わたあめを差し出したときよりもずっと強く平和島さんの匂いを感じる。
平和島さんにこうされるのは今日だけで二度目だ。けれどさっき感じた息苦しさはもうない。もっと平和島さんに触れてみたくて、わずかな隙間さえ埋めたくて、わたしは彼の背中に腕を伸ばす。ぎゅっとくっつけば、浴衣の襟から覗く素肌に頬が触れてどきりと心臓が跳ねた。

温かい。どんなひとにも体温はあって、そしてそれは等しく温かい。
それだから。きっとそれだから、わたしはこうやってまた人を好きになってしまうのだ。
それは少し厄介だけれど、それでもわたしの誇りだ。

「男が全部同じなわけじゃねえ」
平和島さんの声が耳のすぐ後ろから聞こえた。まるで鼓膜に直に響くような距離で少しくすぐったい。
「あいつが最低の野郎だったってだけで、男が全員お前を捨てるわけじゃねえ」
はい、はい、と馬鹿みたいにわたしはただ頷くことしかできず、平和島さんもそんなわたしに返事を強要したりはしなかったので、平和島さんの浴衣とわたしの髪が擦れる音がわたしの返事になった。

いつの間にか花火は終わっていて、お腹の奥まで響くような音も夜空を明るく飾る光ももう見えなかった。
夏祭りは終わってしまったのだ。直に屋台も仕舞われて、祭の名残をめいめい握りしめながら家に帰っていく。金魚にヨーヨー、お面やわたあめ。夏の終わり。
この夏が終わってしまったら、わたしはどうすればいいのだろう。池袋を離れてあの店で店番をすることもなく大学に通い、またいつもの生活に戻っていく。そこに、平和島さんは居ない。
「へいわじまさん」
平和島さんの浴衣に顔をくっつけたままだったので、彼を呼ぶわたしの声はくぐもって上手く響かなかった。けれどそれでも返ってくる優しい温度の返事に、引いていた涙がすこしぶり返した。
「今日はありがとうございました」
「ん?」
「夏祭り、連れてきてくださって」
「…ああ」
平和島さんに抱きついたまま顔だけ上げて、きっとわたしは上手く笑えていたのだと思う。だって見上げた平和島さんも、きらきらの目をして静かに笑っていたから。きらきらの星屑をたくさん詰めたような平和島さんの目。わたしを映す鏡。

「とても、楽しかったです」


110911 蝉時雨の咲く場所
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