ざわざわという人の雑踏に埋もれそうになって、わたしは大きく息を吸った。平和島さんとの待ち合わせまでにはまだ時間があるけれど、すでに周りはお祭り独特の高揚した雰囲気で何だか居ても立ってもいられなくなる。突っ立っているわたしのお向かいでは、お面をつけた子供たちがしゃがみこんで金魚すくいに夢中になっていた。きらきらとした目は皆一生懸命に水の中の真っ赤な金魚たちを追いかけている。おれ10匹とった!かったおれは11匹ー!そしてはしゃぐ男の子たちの隣では、一匹も掬えなかったのか女の子がしょんぼりとその様子を見つめている。
これ、おれのやるよ。いいの?うん、お前に全部やる!あ、ずりい俺も!ばーかこんなにいっぱいいらねえだろ!ねえ、じゃあ3人で分けっこしよう?…うん!
実に微笑ましい光景に、思わず頬を緩めていると後ろから頭をこつんとされた。振り返ると灰色に縦縞の透かしが入った浴衣を着た平和島さんが立っている。金色に鮮やかな髪の色と端正な顔立ちに、その装いはわたしが想像した以上に似合っていた。
「お前、そんなに祭が好きなのか」
「え、」
「さっきからずっとにやけてたぞ」
「ずっ…み見てたんですか!」
本当に、平和島さんには変なところばかりを見られているから困る。きっとわたしに対する平和島さんの心評はあまり芳しくないに違いない。
「そ、それより平和島さんも浴衣なんですね」
「ん?ああ、いつものバーテン服じゃ目立つからってトムさんがよ。…なあ、これどっか変じゃないか?」
「いいえ、すごく似合ってます」
心配そうに自分の身体をあちこち見まわす平和島さんにわたしがにこりと笑って言うと、今度はわたしを上から下まで眺めて感心したように呟いた。
「しっかし、浴衣ってすげえ雰囲気変わるんだな」
「そうですか?それは平和島さんも同じだと思いますけど」
「いや、そうだななんつうかこう」
平和島さんはまた浴衣姿のわたしを観察し始めた。しかも全形が目に入るようにと少し離れたところから見まわす徹底ぶりである。そんな風にじっくりと見られると、なんだかわたしも緊張してしまってさっきの平和島さんのように自分の身体をあちこち見まわしてみる。こげ茶色の生地に淡いピンク色の桜が散った浴衣は、夏祭りが好きなわたしの多くのコレクションの中でもとびきりお気に入りのものだ。帯はすこし落ち着いた赤色に桜の透かし模様が入った、作り帯ではない昔ながらのそれである。今風の形には結べないけれど10代のうら若い娘でもあるまいし、控えめの小ぶりな形が日本人らしくて好きなのだ。

「すっげえ綺麗だな」
「は……」
ぽかんと開いてしまった口を慌てて塞ぐ。何と言うか、わたしも口は上手い方ではないけれど、平和島さんの言葉は本当に心臓に悪い。しかも当の本人はその言葉がどれほどの破壊力を持っているかまるでわかってやしないから余計にタチが悪いのだ。
「?、どうかしたか」
「……平和島さんはいつか女の人に刺されますよ」
「ん?」
平和島さんはきょとんと首を傾げて、
「知ってんだろ俺ナイフ刺さんねえぞ」
「……そうでしたね」
目を細めて平和島さんを見るわたしを、子供たちが追い越して行く。ふわりと甘い匂いが鼻を掠めた。
「あ、わたあめ!」
実家が洋菓子屋だからか、甘い匂いには人一倍敏感なのだ。わたしが振り返った先ではピンクや白のわたあめがふわふわと揺れながら売られていた。駆け寄って平和島さんを呼ぶと、夜店のおじさんがぎくりとした顔でその金髪頭とわたしを交互に見る。
「おじさんわたあめ下さい」
「は、はいよ。そ…そっちの兄ちゃんも買うかい?」
「あー俺はいい。ひとつだけくれ」
てっきり甘いものは総じて好きなのかと思っていたけれど、わたあめは範囲外のようで平和島さんはそう言って袖から財布を取り出した。慌ててわたしも自分の小銭入れを取り出す。
「あ、いいですよ自分で」
「こういうのは男が払うもんだろ」
「でも」
「いいから」
「ええと、すみませんじゃあ…お願いします」
わたしたちのやりとりを出来上がったわたあめ片手に見ていたおじさんが恐る恐るといった感じで平和島さんに声をかける。
「あ、あんた平和島静雄だよな…」
「ん?ああそうだが」
「噂じゃ酷いもんだと聞いてたが、女の子にわたあめ買ってやるような気のきく男だったとはねえ」
「…は?」
困惑する平和島さんを余所におじさんはたちまち笑顔になって、さっきのわたあめをもう一回り大きくしてこちらにずいと差し出した。平和島さんはいよいよ目をぱちぱちさせて困ったようにわたしを見る。この人は、きっとこうやって他人の真正面からの好意をあまり貰ったことがないのだろう。それはとても悲しいけれど、でもこんな風に人は変わっていくのだ。誰からも愛されないひとなんて、きっと居ない。
「ほいお嬢ちゃん、こいつぁサービスだ。俺はこの兄ちゃんみてえな奴が好きでねえ、最近じゃ草食系だなんだつって若え男どもが情けなくっていけねえよ」
「わあ、ありがとうございます」
わたあめを受け取って平和島さんを見上げると、さっきの困った顔の中で少しだけ微笑んでいてつられてわたしも笑う。




わたあめ屋さんを離れても平和島さんは暫く無言のままだった。きっとどんな顔をすればいいのかわからないのだろう。わたしは隣を歩く平和島さんを見上げながらわたあめをかじる。
「平和島さんわたあめは好きじゃないんですか?甘いのに」
「ん?…ああ、口の周りべたべたするだろ」
「それがいいんじゃないですか」
「お前はほんとに祭が好きだな」
話が噛み合っていないような気もするけれど、楽しいから気にしないことにする。特大のわたあめにかじりついてから、ふと思いついて口の端を撫でると体温で溶かされたわたあめの名残が指をべたりとくっつけた。
「…平和島さんわたあめ食べませんか」
「お前俺に押しつける気だろ」
「いいえいいえ、半分こです」
じとりとした視線を投げてくる平和島さんにわたあめを差し出すと、平和島さんは身を屈めながらわたしの方に顔を寄せてわたあめをかじった。思いがけない距離にどきりと心臓が跳ねる。
「…くそ、やっぱ上手く食えねえな」
平和島さんはわたあめを付けてしまったらしい口の端を悔しそうにぬぐっている。わたしは鼓動が速いままだ。わたあめの棒をぎゅっと握り締めたり乱れてもいない浴衣の裾を触ってみたり挙動不審なわたしを、平和島さんが振り返って変な顔をする。
「どうかしたか?」
「いっ、いいえ!」
「ん?お前、」
「ほんとに、なんでもないですから」
「いや、ちょっと待ってろ」
平和島さんはくるりと身を翻して参道から外れた細い道に入って行ってしまった。仕方なくわたしは平和島さんの言いつけどおりわたあめ片手に人通りの多い道の端に寄って彼を待つ。心臓はどきどきとうるさいままだ。ひとつ大きな息をついて参道を行く大勢のひとたちを何とはなしにぼんやりと映す。人の流れを止めるように立ち止まっているわたしは、さしずめ置いてけぼりの淋しい女に見えるだろうなと考えて手元のわたあめに視線を落とした。
平和島さんは、いったいどういうつもりでわたしを祭に誘ってくれたのだろう。
単純にわたしの夏祭りに対するあの妙な執着ぶりを見たからというのも考えられなくはない。なにせ、相手はあの平和島さんなのだ。
「平和島さん…」

わたあめに目を落としているとさっきの至近距離で見た平和島さんを思い出して思わず顔が熱くなった。鋭く整った顔に少し痛んだ金色の髪、香水ではない自然な男のひとの匂い。
巡り合わせとは不思議なものだと思う。兄の親友の後輩がうちの常連さんで、わたしは今その人とこうしてお気に入りの浴衣を着て夏祭りに来ている。ついこの間までは、名前とほんの少しの悪い噂しか知らなかったひとなのに。
「……?」
どこからか強い視線を感じてわたしは俯けていた顔を上げた。きょろきょろと視線の出どころを探すもあまりの人の多さにくじけてしまう。これだけの人の数だ、気のせいだったのかもしれないし。
「なまえ」
やにわに名前を呼ばれてはっと振り向くと、それは見知った金髪でわたしはほうっと息をついた。今の今まで感じていた痛いほどの視線も、気付けばふっと消えている。平和島さんに一人残されたことで知らずわたしは緊張していたのかもしれなかった。置いて行かれるのは苦手なのだ。
平和島さんはペットボトルの水を持っていた。どこか自動販売機か何かで買ってきたらしい。わたあめで喉が渇いたんだろうか。もしそうなら半ば無理やり押し付けたりして悪いことをしたな。
「すみませんあの、それ…?」
「ん?ああ、ちょっと待ってろ」
おもむろに平和島さんはハンカチを取りすとペットボトルの水を含ませるようにして濡らし始めた。水を吸っていくハンカチを見ながらわたしははてと首を傾げる。どうやら飲むための水ではなかったらしい。わたしが疑問を解決する前に、よしと呟いて平和島さんが顔を上げた。
「あの、平和島さ」
言葉途中で口元にひやりとした感触を覚えてわたしは思わず口をつぐんでしまう。唇の輪郭をなぞるように這う濡れたハンカチ。随分前から感じていた嫌なべたつきがさらりと消えて行く。

"平和島さんわたあめは好きじゃないんですか?甘いのに"
"ん?…ああ、口の周りべたべたするだろ"

わたしがはっと視線を上げるのと平和島さんの顔がこちらへ降りて来るのはほぼ同時だった。わたあめを差し出したさっきよりも心持ち近づいたその距離にわたしの心臓は再びどきりと跳ね上がる。けれど平和島さんは何故か至って真剣で、わたしの視線が泳ぐのに気付かないようで、うろうろと彷徨ううちにわたしの視線はもうひとつの強いそれとぶつかった。
どく、どく、どく。自分の拍動がくっきりと聞こえる気がした。心臓と鼓膜を直接繋がれてしまったみたいに。
人ごみの中から真っ直ぐにこちらを見つめる見覚えのあるその人は、もう会うことはないだろうと思い、そしてできればもう会いたくないと望んだ人だった。
「せん、ぱい…」

呟いたわたしを至近距離で見つめる平和島さんの整った顔が、大きな音を立てて上がった花火に明るく照らされた。周囲では夏祭りの人波が夏の空を見上げて、揃って歓声を上げている。特大のわたあめがゆっくりと地べたに落下していった。


110904 沈むプラネタリウム
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