お盆を間近に控えた時分だった。相変わらず客入りの少ないうちの店なので、からんころんとお客さんが入ってきたときもわたしは大学の課題をがりがりやっていて、その特徴的な金髪とバーテン服が目の端に映ったから特に急いでカウンターから立ち上がることもなくがりがりを続けていたのだけれど、しかしそれがいけなかった。

「瞬間接着剤、あるか」
いらっしゃいませもそこそこに、平和島さんはカウンターまで寄ってきてそんなことを言った。わたしは今さらのように課題のノートやら資料の束やらをがさがさとかき集めて接客の体勢を整えながらそれを聞いている。
「瞬間接着剤ですか?家の方にならあると思いますけど」
「借りていいか」
「ええ、もちろんですけど…爪でも割れましたか?」
爪を伸ばしていると時々半ばで割れてしまうことがある。爪が弱いわたしはよくそれをやってしまって、なにしろ見栄えが悪いものだから応急処置に瞬間接着剤でくっつけておいたりするのだ。
そんな呑気なわたしの返事に、平和島さんものんびりと答える。

「いや、血止める」
「ち…、?」
平和島さんの言葉と瞬間接着剤がどうにも上手く繋がらなくて、わたしはその一文字を繰り返す。
「ああ、これ」
平和島さんが差し出した右手は、何と言うか、わたしが今までに見たことのない格好をしていた。
すなわち、普通のボールペンが手のひらから手の甲へ貫通している状態で。
「な、なんですかこれは」
「?ボールペン」
平和島さんはわたしの言っていることが分からないとでも言うように首をかしげてそう答えた。恐るべきことに、平和島さんにはこの異常事態など特に驚きに値するものではないらしかった。
「いやな、抜いたら血出るから瞬間接着剤で止めようと思って。絆創膏じゃまあ無理だろうしなあ」
「…」
あまりに平和島さんがのんびりしているので、わたしももうなんだか落ち着いてきてしまった。
ひとまず接着剤が正しい治療法ではないことを伝えると、平和島さんはボールペン付きの右手をひらひらさせて
「でも前はそれで治った」
「前は、って…前にもボールペン刺さったことあるんですか?というかさすがに痛そうなのでそれやめてください…」
落ち着いたとは言え、さすがに目の前でボールペンが刺さった手がひらひらと揺れているのを呑気に見ていられるほどわたしはエマージェンシーな事態に慣れてはいない。もうなんだかわたしまで右手が痛くなってきてしまった。
けれど無意識に右手の甲をさすっているわたしを余所に、平和島さんは自分の右手の異常事態を忘れてしまったように身を屈めてショーケースを覗きこんでいた。
「お、ゼリーかこれ」
今右手にボールペンが刺さっているひととは思えないくらい嬉しそうな顔で平和島さんが言うから、わたしもほとんど呆れてしまう。
「はい、夏季限定なんですよ。でも選ぶのは、それ消毒してからにしてくださいね」
わたしが言うと平和島さんは少々不満げに頷いた。わたしはカウンターから例のテーブルに移動して、平和島さんの傷の具合を見る。医学に明るくないわたしが見ても、その右手は明らかに軽傷でないことが知れた。これを瞬間接着剤で治そうとするのだから、まったくこの人は違う意味で恐ろしい人だ。
「救急箱、とってきます。それまだ抜かないでくださいね」
「ああ。血出たら店汚しちまうからな」
「いえ、そういう意味でなく…」
わたしが言うと平和島さんはきょとんと首を傾げた。わたしがその可愛らしい仕草に見とれている間にも"池袋最強"さんは熱心にショーケースへきらきらした視線を送っていた。夏季限定の夏蜜柑ゼリーが相当気になるらしく、これ以上のおあずけはわたしとしても心苦しいので、急いで救急箱を取りに店の奥へ引っ込む。



ボールペンを抜く作業は、さすがに平和島さん本人にお願いした。わたしの想像力の幅を遥かに超えているとはいえ、その感触が心地良いものだとはどうしたって思えなかったからである。
けれどそうして平和島さんがさっさと引き抜こうとするので、心の準備ができていなかったわたしは思わずストップをかけてしまった。
「?なんだ、」
「あの、いえ…何でもないです」
平和島さんはいよいよ怪訝な顔で、テーブルの向かいで思いつめた表情をしているわたしを見た。わたしは、ぐっとお腹に力を入れて消毒液を浸したコットンを握り直す。
血や怪我は昔からどうしても苦手なのだ。痛いのも悲しいのも、痛そうなのも悲しそうなのも苦手だ。幼い頃、わたしの目の前で盛大に転んだ兄が膝小僧から血を流すのを見て、兄よりも先にわたしが泣きだしてしまったことがあった。あまりにわたしが酷く泣くので、兄は自分が泣くのも忘れてわたしを泣きやませるのに一生懸命だったと、後から笑っていたのをよくおぼえている。
わたしの顔が引きつっているのを見かねた平和島さんが眉を下げてくしゃりと笑った。その手がテーブル越しに伸びてきて、わたしの頭をぽんと撫でる。もちろん、ボールペンなど刺さっていない方の手だ。
「俺は痛くねえから。大丈夫だ」
「…すみません…」
痛くもないわたしが傷ついた顔をするのは平和島さんに失礼だ。わたしは手の中の消毒液とガーゼを弄りながら俯いた。わたしは、きっともっと強くならなければいけない。


驚くべきことに、平和島さんが頑丈なのはどうやら血管までもがそうであるらしく、手のひらを貫通したボールペンを抜いても血はあまり出なかった。わたしは思わずほう、と安堵と感心の混じった息をついてしまう。平和島さんは包帯の巻かれた自分の手のひらを見つめて変な顔をしていた。
「包帯、巻き直しましょうか?」
わたしの包帯の巻き方が気に入らなかったのかもしれないと、わたしがそう申し出ると平和島さんは途端にその包帯の白から目を離して困ったように笑った。
「いや、そうじゃなくてよ、なんつうかこう…なんか忘れてるような気がして」
「?瞬間接着剤は駄目ですよ」
「はは、わかってる」
ひとまず平和島さんがからりと笑ってくれたのでわたしは漸くその顔を真正面から見られるようになった。そうして平和島さんの笑顔を見て思い出す。わたしにも忘れていたことがあった。
「なまえ?」
おもむろに立ち上がったわたしを平和島さんの視線が追いかけてくる。不思議そうな顔は、わたしがショーケースから取り出したものを見てたちまちぱあっと明るくなった。
季節限定、夏蜜柑のゼリー。
こうやってうちの商品を見て嬉しそうな顔をしてくれるというのはやっぱり嬉しいなあと思う。やっぱりここはわたしの家なのだ。
ふと思いついて、わたしはショーケースからもうひとつ同じゼリーを取り出してお財布からレジに百円玉を二つ入れた。手軽さが売りのうちのお店はわたしの財布にも同様に優しい。わたしが振り返ると、平和島さんはこちらをみて口角を上げた。

涼しげな夏蜜柑色のゼラチン体は、プラスチックのスプーンでつつくと身を揺らして仄かながらもしっかり柑橘の香りを振り撒いた。クーラーの風に吹かれた風鈴がちりんとひとつ鳴く。
「ん、うまい」
平和島さんがゼリーを口に入れて感心したように呟く。飾らない平和島さんの言葉はその分嘘を含まないから、わたしも何だか誇らしくなってお礼などを言ってみる。ありがとうございます。ああ、どういたしまして。
「これあとでもうひとつ包んでくれるか」
「はい。トムさんにですか?」
「ああそう、……あ」
平和島さんが何かを思い出した顔をした。バーテン服のポケットに手を突っ込んで、そうして出てきたのは見覚えのあるわたしのハンドタオルだった。でもなぜ平和島さんがそれを持っているのか思い出せなくてわたしははて、と首を傾げる。
「ええと、」
「トムさんからだ。お前に借りたって言ってたぞ」
「ああ、そうでした」
わたしが打ち水をしてしまったトムさんに差し出したものだ。そういえば貸したきりになっていたような気もする。平和島さんからハンドタオルを受け取ると、トムさんが洗濯までしてくれたらしいそれは中でかさりと乾いた音を立てた。およそタオル地らしくないその音なので4つに折られたハンドタオルを開いてみる。はたして中には小さな紙片が収まっていた。
「これ平和島さんのですか?」
「ん?いや知らねえな」
平和島さんのポケットの中で入り込んでしまったのかもしれないと思ったのだけれど、違うらしく平和島さんも首を傾げている。つまみ上げて平和島さんの指が折り畳まれた紙片を開いた。

「…夏祭り、?」
「これトムさんの字だな」
そこには一言、夏祭りとだけ書いてあった。しかもこれは平和島さんによればトムさんの直筆らしい。ますますわたしたちは首を傾げてしまう。このままでは筋を違えてしまいそうだ。
「ああ、そういや来週ここら辺で夏祭りがあるとか言ってたな」
「うわあほんとですか!」
「……お前はテンションの上がり方が意味不明だな」
平和島さんは笑いを噛み殺したように眉間に皺を作ってわたしを見た。心外なわたしはむう、と唇を尖らせてそれに対抗する。
「だって夏祭りですよ」
「そんなに好きなのかよ」
「はい、それはもう」
「じゃあ、一緒に行くか」
平和島さんは紙片をひらひらと振りながら笑った。わたしはまたトムさんに乗せられたのかも知れなかったけれど、今回ばかりは頬が緩むのを引き締めるのにいっぱいでそれどころではなかった。はい、はい、と馬鹿みたいに何度も頷く。

平和島さんと、夏祭り。
大好きな、という形容が付くのは本当はどちらなのか、きっともうわたしは知っている。


110813 夏のしじま
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -