手を引かれながら走るうち、わたしはようやく平和島さんがどこへ向かっているのかを知った。甘い物が好きな平和島さん。うちの常連の平和島さん。
その足が、思った通りうちの店の前で止まって、わたしはようやく深い呼吸をすることを許された。大きな息を繰り返すわたしの隣で平和島さんは少しも呼吸を乱していない。運動神経の差だろうか、わたしは昔から運動神経がなかったのだ。運動と名のつくものは大体苦手で、けれど何故か運動会だけは楽しみな子どもだった。あの学校全体に漂う独特の雰囲気がとても好きだったのだ。夏休みが終われば運動会の季節がやってくる。蝉たちは鳴かなくなり、積み上がる雲は平たいそれになって、風が冷たさを纏う。けれどこうして夏の真ん中にいると、それがどうしても信じられないのだ。もうずっと、この国には夏しかなかったかのように感じてしまう。

平和島さんはしばらく何も言わなかった。何も言わないで、ただじっと店の扉に視線を寄越している。closedの札が掛かった扉。1時間程前にその札を掛けた時には、こうして平和島さんとふたりでこの店に戻って来るだなんて考えもしなかったのに。
握られた、というか掴まれたままの手を見る。繋がってはいるけれど、ちゃんとつないだわけではないのだ。どちらかと言えば親に手を引かれている子どもの方が近い。それでも。触れるのは、触れられるのは、やはりあたたかい、と思う。あたたかくて優しい。だからわたしは、掴まれた手をそっと閉じて平和島さんとちゃんと手をつなぐ。
「中、入りませんか」
「…ああ」
札は掛けたままにして店の中に入る。わたしたちから垂れたしずくはすぐに店の床を水浸しにしてしまった。天井の下に入って初めてわたしは、自分の濡れ方がひどいことに気が付いた。まさにゲリラ豪雨だったのだ。その中に長いこと居たのだからまるでシャワーを浴びたみたいに全身もれなくびしょ濡れだった。平和島さんもそれは同じで、バーテン服のシャツは水を吸ってぴたりと肌に張り付いてしまっているし、金色のふわりとした髪も今はぺたりと濡れて元気がない。
「タオル、持ってきますね」
つないでいた手を離すのが少し名残惜しかったけれど、このままでは二人ともいくら真夏とは言え風邪を引いてしまうに違いないのでわたしは店の奥へ引っ込んでいく。途端にあたたかさを失くした手のひらが少し淋しかった。こっそりと、手のひらを閉じたり開いたりしてみる。温度こそ無いにすれ平和島さんの感触がまだ確かに残っていることに少し安心した。
男のひとと手を繋いだのはずいぶん久しぶりだったのだ。ちょうど2年前、大学1年生の夏にひどい振られ方をして以来、なるべくそういうことに首を突っ込まないようにしてきた。10代の頃のように、手をつなぐのやキスでドキドキしたりはできなくなってしまったけれど、それらがわたしにとってまったく意味の無いものになってしまったわけではないのだ。重すぎはしないけれど、軽すぎもしないだけで。

「なまえ」
店の方で平和島さんがわたしを呼んだ。緩んでしまう顔をぱしりとひとつ叩いて引き締める。両手いっぱいに抱えたタオルと右手の消毒液。

店へ戻ると、平和島さんは一旦外に出て絞ってきたらしいバーテン服のベストを広げて、シワを伸ばしているところだった。本当に大げさでなく、絞れば水が出るくらいわたしたちはずぶ濡れだったのだ。両手一杯のタオルを手渡すと、平和島さんは笑ってその内の一枚をわたしの頭に乗せてくれた。バスタオル大の大きさのそれにわたしはすっぽりとくるまれて、真っ白な視界の中でわたしの頭をがしがしと撫でる感触。平和島さんがわたしの髪を乾かそうとしてくれているのだと気付くのに少し時間がかかった。だって、平和島さんがそんなことをしてくれるだなんて、わたしはとても想像できなかったから。
「…お前、兄貴のこと好きか」
髪を乾かす手を止めずに平和島さんがぽつりと呟いた。けれど耳元でタオルがわしゃわしゃと擦れて聞き取りづらかったので、聞き直そうと振り向きかけたわたしの頭は、平和島さんの両手で前向きに固定されてしまった。乾かしづらかったのか、顔を見られたくなかったのか、とにかく振り向かせてもらえなかったのでわたしは大人しく首を戻す。平和島さんは一瞬だけわしゃわしゃの手を止めて、お前は兄貴のこと好きか、ともう一度呟いた。
「どうでしょう…歳も離れていますし男女ですから仲が良いのとは少し違いますけど、兄はそれなりにわたしのことを可愛がってくれたので昔から懐いてはいたと思います」
好きかどうかと言うのは難しいですけど、と言うと平和島さんはまたわしゃわしゃを再開して少し笑っているようだった。兄は兄としてわたしは兄の妹として、互いに代替不可能な唯一としての存在だったから、そこに好きや嫌いの類いの感情が入る余地などなかったのだ。少なくとも、わたしたち兄妹の場合はそうだった。
「弟がひとりいるって、前に話しただろ」
「はい」
平和島さんは長男なのだ。モンブランの栗は最後に食べる。
「俺は昔からあんな感じだったけど、弟は俺と違って感情が顔に出ねえ奴でよ。何考えてんだかわかんねえんだけど、それでもこんな俺を見放したり拒絶したりしなかったんだ」
とても穏やかな口調だった。平和島さんはきっと、弟さんが大好きなのだ。
どんな人だろうか。平和島さんの弟さん。
「いつだったか、俺のこと怖くねえのかって聞いた時も『別に』って言うだけで」
「それは、…嬉しいですね」
わたしが言うと、平和島さんのわしゃわしゃが不意に止まった。黙ってしまった平和島さんを振り返ると、今度は彼の手はそれを阻まなかった。バスタオルを頭に乗せたまま、わたしは平和島さんと向き合っている。
「…ああ。嬉しかったんだ俺は。お前も、同じことを言ってくれたから」
「え…」
弟さんの話だと思って聞いていたわたしは、突然そんなことを言われて間の抜けた返事をしてしまう。平和島さんはまたバスタオルに手を伸ばしてわたしの頭にのせた。タオルと平和島さんの腕で、わたしからは彼の顔が見られない。だけど、
「だから、ありがとな」
「………は、い」
見えなくてよかったと思った。きっとわたし、今とても恥ずかしい顔をしてる。
平和島さんの手は、わたしの頭をゆっくりと往復してから離れていった。




「ええ、平和島さんの弟さんって羽島幽平なんですか?!あの、俳優の?」
平和島さんがさらりと大変なことを言うものだから、わたしは思わずその金髪の下にある整った顔立ちを凝視してしまった。ううん、言われてみれば確かに似ている。どうりで綺麗な顔をしていると思った。平和島さんの顔立ちは家系のものであるらしい。
「…お前、なあ」
「はい?」
平和島さんがタオルで口元を隠して何やら呟いたけれど、わたしは、あの最近テレビに出ずっぱりの羽島幽平と、その兄であるという平和島さんの顔を頭の中で重ね合わせてみようと一生懸命だったのでいまいち聞き逃してしまった。
「その、綺麗とか、そういうこと…あんま言うな。言われたことねえから、照れる」
「だって本当のこ……もしかしてわたしさっき口に出てましたか?」
「…」
平和島さんの無言の肯定が心に痛い。本当に、わたしってどうしてこうなんだろう。恥ずかしさに悶絶するわたしの頭に乗っかっていたバスタオルを引き取って、平和島さんはタオルドライでぐしゃぐしゃに乱れたわたしの髪をゆっくりと手櫛の要領で梳かしていく。そうしておとなしくなった髪を一房掬ってわたしの右の耳に掛けると、
「ありがとな」
綺麗な顔で笑った。今日は平和島さんにたくさんお礼を言われる日だ。
「…その余裕な感じは何かずるいです」
「まあ大人だからな」
「おとな、」
わたしだっていちおう成人だ。それでもやっぱり社会人と大学生の間には大人という大きな壁があって、事実わたしはまだ自分のことを大人だとは思えない。モラトリアム症候群と言われれば、それまでなのだけれど。
それでなくとも平和島さんにとってわたしは先輩の妹という立ち位置だから、子供に見えるのも仕方がないのかもしれない。
「わたしって、子供ですかね」
「ん?」
「…わたしはいつも余裕がないので」
拗ねたようにわたしが言うと、平和島さんは珍しく声を出して笑った。呆れられるだろうなとは思ったけれど笑われるとは思っていなかったので、わたしはいよいよ子供のように頬を膨らませてしまう。平和島さんはわたしの頬をつん、と突いて萎ませてまた笑った。
「…平和島さん、何か楽しそうですね」
「ああ、いや…なんか初めてだからよ、こういうの」
「?、どういうのですか?」
まさか拗ねた大学生の頬を突っつくことがではないだろう。心当たりを見つけられなくてわたしはふむ、と首をかしげた。平和島さんは自分の右手を開いてじっと見つめている。
「あれを目の前で見た奴と、何もなかったみてえに話ができるのがさ」
「あれって、あのすごく力持ちな、?」
「そう言えんのもお前くらいだよ」
「そうですか?」
「他の奴は、俺を遠巻きに見て化物だの喧嘩人形だの言うからな」
「…」
自分の手のひらを見ている平和島さんだから、わたしの方からは血の滲んだ手の甲が見えてまた思う。
何が喧嘩人形なものか、彼にはこうして真っ赤な血が通っているというのに。
「わたしは洋菓子屋の娘ですから。甘い物が好きなひとに悪いひとはいないと昔から父に教え込まれて育ちました」
父が間違っているとは思いません。わたしが言うと平和島さんも小さく笑った。
甘い物が好きなひとに悪いひとはいない。だからうちに来てくれるお客さんはみんな良いひとなんだよ。
父はよく幼い兄とわたしに言ったものだ。それは二十歳を過ぎた今でもわたしの心に根付いている。そして洋菓子を学びに外国へ飛んだ、兄にも。そういうものがきっと、今わたしたちを家族にしている。

平和島さんの右手を消毒し終わる頃には、表の雨もすっかり上がって嘘のように晴れている空の隅がほんのりと赤かった。ひぐらしが一日の終わりを告げるようにカナカナと鳴いている。


110807 夕焼けポラロイド
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