昼前だというのに気温はぐんぐん上がっていて、どうやら今日の太陽は今年の最高気温を叩き出す予定のようだった。
相変わらずお客が来ないので、わたしは店の前の暑気払いで客寄せを目論み、打ち水に精を出している。すでにたくさんの熱を吸収しているアスファルトは、わたしが撒いた生温い水をあっという間に蒸発させてしまった。これでは楽しいお散歩も台無しだろうなと散歩中のワンちゃんを見て思う。彼らの身体はわたしたちより幾らも地面に近いのだ。

あれから、平和島さんは店に顔を見せていない。もちろん、洋菓子屋のうちの店に毎日やって来る方が普通ではないのだけれど、いかんせん平和島さんがお昼時に店にやってきて楽しそうな顔でケーキを選んでいるのがわたしにとって日常になりつつあったので、それが突然途切れたとなるとどうにも気になってしまう。「…また来る」平和島さんがそう言ってわたしの頭を撫でたあの日から、わたしの鼓動はずっと速いままなのだ。

「お、なまえちゃん。て、うわっ」
ぼんやりとした思考の中で突然名前を呼ばれたのでわたしは持っていたホースごとそちらを振り返ってしまった。あやうく打ち水されそうになったその人は、この暑い中きっちりとスーツを着込んだトムさんだった。
「ご、ごめんなさい、濡れましたか?」
「ああいや、平気だ。んな良いもんじゃねえからよ」
トムさんは笑って言うけれど、スーツのズボンの裾に水しぶきが掛かって色が変わってしまっている。わたしは急いでハンドタオルを差し出した。
「すみません、早く拭かないと」
「え、ああマジでいいから、この気温じゃすぐ乾いちまうって」
「いーえ駄目です、スーツは濡れると悪くなってしまいますから」
頑として聞かないわたしに、トムさんは何故か嬉しそうに笑う。
「ん?何ですか?」
「みょうじも相当な頑固だと思ってたけど、あれは血筋だったんだなと思ってよ」
ハンドタオルを受け取ってトムさんはそんな風に言った。家族以外で兄の話を共有できる人は、わたしには今のところトムさんくらいなのでやっぱり嬉しい。だってきっと、トムさんはわたしの知らない兄を知っている。そしてそれは多分、平和島さんも。

「あー、そういや静雄が、」
「え、あ、はい!」
ちょうど考えていた名前がトムさんの口から出てきたので、わたしは何だか慌てて元気良く返事をしてしまった。謎の威勢の良さにトムさんがきょとんとした顔をする。
「…あ、すみません…平和島さんがどうかされましたか?」
「それがよー、静雄の奴ここ最近元気がねぇみてえだからどうしたんだって聞いてみたんだけどな」
そこでトムさんは言葉を切ると「静雄、今日来てないよな?」と言ってわたしの後ろの店に覗き込むようにして目を遣った。今日どころか、かれこれ一週間平和島さんはうちの店に来ていないのだ。
「平和島さん、どうかしたんですか」
「あー…なまえちゃんには言うなって言われてんだけどよ…まあなまえちゃんもあいつのこと気にしてるみたいだからいいか」
「気にして…」
「違うか?」
「…違わないです」
もごもごとわたしは歯切れ悪く答える。兄のことと言いわたしのことと言い、トムさんはきちんと人を見ているひとなのだ。誤魔化したって仕方がない。

「なまえちゃんもう昼飯食ったか?」
脈絡なくトムさんがそう言って、とうにお昼を過ぎていたことに気づく。途端に空腹を主張するお腹を押さえてまだです、と答えるとトムさんは笑ってお昼ごはんに誘ってくれた。
「暑くて立ち話もできねえしな、飯食いがてらにしようぜ」
「あ、はい!」
わたしは店の扉にclosedのプレートを掛けてトムさんの後を追った。
「誘っといて何だけど店空けて大丈夫か?」
「平気です。どうせこの時間帯はお客さん来ませんから」
打ち水の効果もなかったのだ。ますます暑くなる昼どきにうちに来る人と言えば平和島さんくらいしかいないのだけれど、その平和島さんもトムさんの口ぶりを聞くにやって来ることはないだろうから、少しくらい店を空けても問題ないだろう。

じりじりと頭のてっぺんを焼かれる感覚はまさに夏だ。ぐるぐると考え事をしている頭は内側も外側も熱い。耐え性のないわたしは、トムさんの言う「食べがてら」を待てずに切り出した。
「トムさん。あの、平和島さんは、」
「ん?ああ。いつだったか静雄がなまえちゃんとこ居るとき入れ違いで客が来たことがあったんだってな」
「あ、ええ」
平和島さんが最後にうちに来た日だ。
「その時な、静雄聞いちまったんだってよ、なまえちゃんとその客の会話」
「会話、」
"わたしは…平和島さんが他の人にどんなふうに言われていようと、わたしの目の前の平和島さんをいつもいちばんに信じています"

「あっあの!平和島さんはどこら辺まで聞いて、」
「あーなんつったかな、平和島静雄が出入りしてたら客来なくなるぞ、みてーな」
「そうですか…」
あの恥ずかしい台詞を聞かれていなかったのは幸いだけどそれではまるで、
"俺が居るとこの店に迷惑かけるからよ"
「もしかして平和島さんがうちに来なくなったのはそのせいなんですか」
「ん?何だ静雄最近行ってねえのか」
「もう一週間になります」
「ははあん、そうか」
トムさんは何かがわかったというような顔をしたけれど、わたしはわけがわからず首を傾げるばかりだ。
「なまえちゃん、」
「はい」
「なまえちゃんはあいつが店に来るの、どう思ってる?」
「わたしは、平和島さんがうちにいらしてくれるの嬉しいです。お話するのも楽しいですし」
「そうか。んじゃあそれ、直接あいつに言ってやってくんねえかな」
言うなりトムさんはわたしの背中をぽんと押して笑った。そうして一歩踏み出したわたしの対面には、ガードレールに腰かけた平和島さんの後ろ姿があった。思わず振り返れば、トムさんはひらりと手を振ってもうどこかへ歩き出そうとしている。ええと、これは

た の ん だ ぜ
不意にこちらを振り返ったトムさんの唇がそう動いて口角を上げた。
仕方ないので平和島さんに後ろから近づいて小さく名前を呼んでみる。平和島さん、平和島さん。
「ん…うおっ、なまえ」
平和島さんはいささか失礼なリアクションでわたしを見た。さっきまで手を置いていた部分のガードレールが変な具合に歪んでいる。金髪にサングラスをかけたバーテン服の装いは、確かにわたしが噂に聞く「平和島静雄」だ。そう言えば彼はうちに来るときサングラスをしないから、その姿は少し新鮮だった。

「お前、こんなとこで何して…つーか店は」
「さっきまでトムさんと一緒だったんですけど…どうやらわたしは乗せられたようです」
「は?」
「それにお店は、この時間帯は平和島さんしか来ませんから」
何より真っ先にうちの店の心配をしてくれる平和島さんが、今は少し悲しい。平和島さんがうちに来なくなったのも、きっとそういうことだから。

「あの、わたし」
不意に後ろからぐい、と腕を引かれて言葉が途切れる。ふらついたわたしを押し退けて人影が数人分、わたしと平和島さんの間に割り込んだ。喧嘩など経験も免疫もないわたしはあっさりと押し負けて地面に膝をついてしまう。
「わりーな姉ちゃん、俺らちょっくらこの平和島静雄に用があるからよぉ」
言うが早いか、まずはひとり、フードを目深に被った男の人が平和島さんに突進していく。その手には、きらりと閃くナイフ。
「平、和じ、まさん…っ!」




先ほどまでの喧騒が嘘のように、池袋の街は不自然に静まり返っていた。空の端からやってきた灰色の雲が街の音をぜんぶ吸いとってしまったみたいに。
わたしから少し離れた所に立っている平和島さんの周りにはさっきの人たちが気絶させられて倒れている。さらにその周りには、自販機、標識、ガードレール、果ては駐禁の張り紙が貼られたバイク。すべて、彼が武器として投げ飛ばしたり振り回したりしたものだ。
わたしに忠告してくれた常連さんは、自販機を投げる恐ろしい人物なのだと平和島さんを評したけれど、その姿を見た今も、何故だかわたしは彼を怖いだなんてちっとも思えなかった。本当に、可笑しいくらい、わたしの中の平和島さんは、うちの店でケーキを選んでいるきらきらの星屑をたくさん詰めたような目をしたあの平和島さんなのだ。
やっぱり、わたしに商売は向いていない。

平和島さんは暫く火照ったアスファルトを睨んだまま動かなかった。ぎゅっと握りしめた拳には微かに血が滲んでいて、何が喧嘩人形なものか、彼にはこうして真っ赤な血が通っているというのに。
歩み寄ってその拳に触れる。ぴくりと肩を揺らした平和島さんは頭を垂れたまま何事か呟いた。
「……かっ…だろ、」
「平和島さん?」
「……わかっただろ、お前はもう俺なんかに関わらねえ方がいい」
ぽつん、耐え切れなくなった灰色の雲が静かな街に雨を落とした。瞬く間にそれは激しい雨足に変わり、街中の熱を冷やし始める。アスファルトも、空気も、平和島さんも、わたしも。みんな一緒くたに冷やされて濡れていく。
「嫌です」
「なまえ、」
平和島さんが驚いたように目を見開いた。
「わたしにはわからないです。どうしてわたしが知ってる平和島さんじゃ駄目なんですか、喧嘩人形とか池袋最強とか、そんなことどうだっていいのに、みんな、みんなそんなのは本物の平和島静雄なんかじゃないって言う…わたしにとって、本物の平和島静雄はわたしが知ってる平和島さんでしかないのに…!」

どうやらこの夕立はここ最近の真夏日続きでこの街に溜まった熱を、すべて冷やそうと躍起になっているようだった。
火照ったアスファルトに雨が弾けるあの独特の夏の匂いが鼻を掠めて池袋の街に溶けていく。
輪郭に沿って顎からつう、と流れ落ちたしずくは冷たい雨に紛れて一粒だけ温かかった。どうか平和島さんに、ばれませんように。

そっと拭うわたしの手を掴んで、平和島さんが夕立の街を走り出す。
西の空は少しだけ明るくなっていた。


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