それは、今年に入ってもう何度目かの真夏日のことだった。都会のコンクリートジャングルはヒートアイランドと云う呼び名に相応しく、そこかしこの熱を吸収して少し湿気を含んだ特有の暑さを纏っている。
昼を少し過ぎて太陽はますます元気に熱の島を照らし始め、外を歩く人はほとんどいなかった。なので、昨日からわたしが店番を任されているこの小さな洋菓子店にお客さんなど来るわけもなく。年季の入ったクーラーがちょうどよく冷えた店内は、ケーキがたくさん並べられたショーケースにぺたりと頬をくっつけて涼を取っているわたしだけだった。銀色のショーケースは冷えた空気をいちはやく伝えてくれるので目下のところ優秀なわたしの保冷剤なのだ。

「……うーん」
首の向きを変えて訳もなく唸ってみると、お向かいの喫茶店の「氷」の幟が目に映った。荒く削ったしゃきしゃきの氷にみぞれをかけるシンプルなかき氷はあの喫茶店の夏の看板メニューで、小さな頃は兄に連れられてよく食べに行ったものだ。大きな兄の手と小さな硬貨をそれぞれぎゅっと握りしめて。

ショーケースが頬の熱に温められてしまったので、わたしはまた心地好い冷たさを求めてずるずると顔だけを移動させる。
と、オアシスに辿り着く前に、からんころんと手動のドアが開いて男の人が来店した。開いたドアの隙間から夏の匂いがふわりと舞い込んで、照りつける太陽の存在を思い出す。白と黒のバーテン服をすらりと着こなしたその人は、首から上をショーケースに乗せた変な格好のわたしをじっと見て、一瞬何か言いたそうにまばたきをした。
「い、らっしゃいませ」
わたしはそそくさとショーケースから顔を上げて立ち上がった。たとえ変な格好なのを見られたとしても、お客様は神様なのだ。しかもこんな暑い日にわざわざうちのような小さなお店に来てくれたのだから、これはもう神様以外の何者でもあるまい。




「…見ない顔だな」
綺麗な顔立ちとは少しアンバランスな感じも受ける低い声でショーケースごとわたしを見下ろしているその人は、どうやらかなり背が高いようで彼と視線を合わせるためにわたしは幾分首を酷使することになった。それでも見下されている感じがしないのは、きっと滲み出るこの人の人柄なのだろうなと思う。
外見というのはそれなりに中身を反映するものだというのがわたしのゼミの教授の持論でもあったのだ。

「ええと、夏休みの間だけ店番なんです、家の手伝いで」
「…ああ、そういや娘がいるっつってたか」
「あの、母とはお知り合いで?」
「まあ、よく買いに来るからよ」
なんと。
バーテン服さんはうちの常連さんだったのか。わたしは思わず目の前に立っている、よほど甘い物とは縁がなさそうな彼を見つめてしまった。
「…ん、どうかしたか」
しまった。大学の学部柄わたしはどうにも所構わず人間観察をしてしまう節があったので、お客さんに対しては不躾にしないようにと母に店番を任される際再三言い含められていたのに。
けれど幸い、特に気分を害してしまったわけではないようなので、わたしは正直に答えることにした。何でもありません、というのはなんだか逆に失礼だと思ったからだ。
「甘いものがお好きだと言うのは、少し意外な気がしてしまったので」
「ああ、よく言われる」
彼はくしゃりと顔を崩して苦笑した。何だか子供みたいなひとだ。上背があって金髪にバーテン服という格好なのに、仕草や表情にはどこか少年のような幼さを隠し持っているように見える。
いけないいけない。またも不躾な視線を送りそうになってしまったのでわたしは慌ててショーケースに目をやった。せっかくのお客さんなのだ。さあ、商売商売。

「何になさいますか」
「そうだな、お勧めは」
「期間限定の店番にお勧めを聞きますか?」
「それでも、自分の家だろ?」
そう、なのだ。ここは両親の店でわたしの家で、兄の店になる予定の場所だったのだ。それも今はどうなるか、もうわからないのだけれど。
「うちのお勧めは、ショートケーキとシュークリームです」
「ああ、お前の親もそう言ってた」
彼はまたくしゃりと笑って、じゃあそれを2つずつ、と左手の指を二本立てた。
うちの店にはデパートやホテルで売られているような、こじゃれた洋菓子は置いていないのだ。ショートケーキにチーズケーキ、ガトーショコラやシュークリーム。名前を聞けば誰でも思い浮かべられるような定番メニューしかないけれど、それでもこのシンプルさが良いと言ってくれるお客さんのおかげでうちの店はどうにかやっていけている。
そう例えば、このバーテンさんみたいに。

注文通りショートケーキとシュークリームを二つずつ、店の名前が印刷されている紙の箱に詰めていると、からんころんと音を鳴らしてまたひとり男の人が入ってきた。店内に三人(これはわたしも含めて)も人がいるなんて珍しい。うちはそういう店なのだ。
「いらっしゃいませ」
「おー静雄、やっぱここだったか」
「すいません、休憩時間過ぎてましたか」
「ん、いーや。俺もたまには甘いもんでも食うかと思って」
ドレッドヘアに眼鏡とスーツという、ちぐはぐな見た目のその人はバーテンさんの知り合いだったらしく、彼と言葉を交わしながらショーケースを覗きこんでいる。バーテンさんといいこの人といい、どうしたって甘い物を好むような風には見えないのに。男の人ってわからないな。
「そう思って。2人分買ったところです」
「お、さっすが静雄。ん、どれどれ」
ドレッドヘアさんはケーキを箱に詰めているわたしの手元を覗きこんできたかと思うと、「あれ、」と首を傾げていた。どうしよう、何か不手際があったのかもしれない。それともケーキの種類が気に入らないとか。

「もしかして、なまえちゃん?」
「はい?」
せめて配置の見栄えを良くしようと箱の中でケーキをあっちへやったりこっちへやったりと悪あがきをしていたわたしは、不意に名前を呼ばれて顔を上げた。わたしにはドレッドヘアの知り合いが居た記憶はないので少しの間考え込んでしまう。彼をじっと見つめてその特徴的な髪形と知的な印象を醸し出している眼鏡を頭の中で外してみようと悪戦苦闘するわたしを、その人は面白そうに見ていた。自分から名乗り出る気はなく、わたしが思い出すのを待っているらしい。
背はバーテンさんに比べれば低いけれど彼がとくべつ高いのだから平均くらいだろう。年齢は、兄と同じくらいだろうか。もっとも、ここ数年兄には会っていないからものすごくおおざっぱな計算なのだけれど。

「……トムさん?」
兄のことを考えていたら無意識にその名前が零れ落ちていた。眼鏡の下の表情が柔らかい笑顔に変わる。どうやらわたしは正解を出すことができたらしい。
「トムさん、知り合いなんすか」
「お前も知ってんだろ中学ん時よく俺とつるんでたみょうじ。あいつの妹のなまえちゃん」
「みょうじ先輩の、」
「兄のことご存じなんですか」
「静雄は俺の中学の後輩だから、まああいつの後輩でもあるってことだな。今は俺と一緒に働いてんだ」
「そうでしたか」
これは意外な繋がりだ。うちの常連さんが、兄の親友とも呼ぶべき人の後輩で仕事仲間だったとは。二人の様子を見る限り、ここが兄の家の店だということも知らなかったようだし。トムさんは本当に嬉しそうな笑顔で、なぜかわたしとバーテンさんを交互に見ている。少し気恥ずかしくなって、わたしは彼から目を離して放置していたケーキの箱の内側にドライアイスを貼りつけた。トムさんの声が上から降ってくる。

「そういや、兄貴今どうしてんだ?」
「…兄は、」

兄は2年前に洋菓子を勉強してくると言ってフランスだかに渡っていってしまった。兄も兄なりにこの店を守りたかったのだと思う。それがなかなかどうして日本に帰ってこないのは、なんでも向こうで素敵な女の人を見つけてしまったかららしい。国際電話の向こうの兄は生き生きとしていた。兄が幸せなら、とりあえずはそれで良いと思う。洋菓子屋の長男に生まれたからといって跡を継がなくてはならないご時世でもないのだ。

「というわけなのでここ数年まるきり会っていないんです」
わたしが言うと、トムさんは「あいつらしいなあ」と笑った。兄は昔からそういう人だったのだ。良くも悪くも行動力に長けている。
「お二人がいらしてくれたこと、今度兄に伝えておきます」
言ってわたしはバーテンさんの名前を聞きそびれていたことに気付いた。いつまでも"バーテンさん"ではいけないだろう。仮にも兄の知り合いなのだし。
「あの、お名前聞いてもいいですか」
バーテンさんとトムさんは一瞬驚いたような顔をしてわたしを見た。可笑しなことを聞いたつもりは、ないのだけれど。わたしの顔に疑問符が浮かんだのを一等早く見つけたトムさんが、
「なまえちゃん、こいつのこと知らねえの?」
「ええと、はい」
「へえ、お前のブクロ知名度も意外とまだまだだなー静雄」
「いや、俺知名度なんていらないっすから」
「いえあの、わたし普段は一人暮らしなんです、実家は池袋ですけど」
「平和島静雄って、名前くらい知らねえ?」

平和島静雄さん。
池袋外とは言え、一応23区内に住んでいるわたしもその名前には聞きおぼえがあった。めっぽう喧嘩が強くて「喧嘩人形」とか「池袋最強」とか呼ばれてる人だ。サングラスにバーテン服。目の前の常連さんは言われてみれば確かに噂通りの格好の人だった。

「すみませんわたし、気付かなくて」
「あはは、謝るこたねえよ。なあ静雄」
「はい。名前知ってて気づかれなかったのは初めてですけど」
「う……すみません」
「ほら、静雄もあんまいじめてやんな」
トムさんの言葉に顔をあげると、平和島さんはあのくしゃりとした笑顔で悪戯っぽく笑っていた。その綺麗な顔で見つめられてわたしはなんだかどぎまぎしてしまう。
「ええと、その、噂をたくさん聞いていたので"池袋最強"の方がこんな綺麗なひとだとは思わなくて」
そうしてフォローしようと口をついて出たのは我ながらびっくりするほど下手くそな言葉だった。綺麗だなんて男の人が言われても嬉しくないだろうし、それに顔が綺麗なのと池袋最強なのは関係ないだろうに。考えていることが顔だけでなく言葉にも出てしまうのは昔からいつまでたっても治らない。おかげでわたしはもうひとつ余分に謝ることになってしまった。
「す、すみません、今のは」
「…そんなこと言われたのも、初めてだな」


それは、今年に入ってもう何度目かの真夏日のことだった。お向かいの喫茶店には「氷」の幟が揺れていて、わたしが店番をする小さな洋菓子店は旧式のクーラーが丁度良く冷えていて。わたしの前では「池袋最強」が綺麗な顔で笑っている。顔があつい。
そうか、だってもう夏なのだ。


110701 淡色ヒーローの呼吸音
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