それは、今年に入ってもう何度目かの真夏日のことだった。お向かいの喫茶店には「氷」の幟が揺れていて、わたしが店番をする小さな洋菓子店は旧式のクーラーが丁度良く冷えていて。わたしの前では「池袋最強」が綺麗な顔で笑っている。



夏休みも終わりに近づきいよいよ気温も気候も秋めいてきていた。お店のクーラーもいらなくなり、わたしはショーケースに頬をくっつけることもしなくなった。着実に次の季節はもうそこまで来ている。

店番をするわたしの隣には少し大きめのキャリーケースが置いてあった。昨日一晩かけて荷物を詰め込んだそれを持って、あと数時間後にはわたしはこの店を、池袋を後にするのだ。「最後の日くらい店番代わったっていいのよ」と母は言ってくれたけれど、わたしはいつもどおりにしていたくて今日もカウンターに座ってまばらにやってくるお客さんの相手をしていた。お客さんが途絶えたあたりでチラリと時計を見るとお昼を少し回っていて、わたしの意識は無意識にドアの外へいってしまう。


「わたし、平和島さんが好きです」

わたしの言葉はかき氷の白に吸い込まれることもなく蝉たちに掻き消されることもなく平和島さんの耳に届いて彼を瞠目させた。なぜかわたしはとても冷静で、こんな風に平和島さんのいろいろな表情を見られるのもあと少しなんだとそんなことを考えていた。
それは何かを新しく始めるための言葉ではなくこの夏を夏として終わらせるためで、何日か落ち込む日があったとしてもその後にはきっと、わたしはこの夏が始まる前のわたしに戻ることができるのだろうと思っていた。思い込もうとしていたのだ。


あの日から平和島さんはお店にやってこない。わたしだってもう子供ではないのだ。好きという言葉がどんな意味を持つ好きなのかは痛いほどによくわかっている。それを相手がどんな風に受け取るのかも。
けれど、だからこそこれで良かったのだ。わたしは池袋を離れて、平和島さんから離れて行く。くだらない言霊で彼を縛るようなことになればそれこそ、わたしは池袋に後ろ髪を引かれてしまうだろうから。
ただ知っていてほしかった。貴方を好きになるひとはこの世界にもこの街にもきっといる。わたし自身が、その証明だと。あの池袋最強に、わたしは知っていてほしかった。

時計を見るのをやめにして、わたしはキャリーケースを持って立ち上がった。本当はお昼までで店を閉める予定だったけれど、惰性でここまでずるずると引き延ばしてしまっていたのだ。
ここからバスと電車を何本か乗り継いで、わたしは自分の日常へ帰っていく。池袋という街で、少し不器用でとても温かいバーテン服に恋をしたこの夏を綺麗な思い出にして。

わたしはひとつ深い息を吸ってショーケースからケーキ二種類を二人分、計四つ取り出して箱に詰めた。今までのどれよりも丁寧に、わたしの心をまるまる全部、詰め込んで。そうして一人暮らしの部屋に帰ったら、自分の心を食べてしまおう。きっとすこしも残らないように。そうして今度こそ店を閉める。わたしの家、両親の店、兄の店になる予定だった場所。

キャリーケースをカラカラ転がしながら池袋の街を歩く。キャスターがアスファルトを叩く振動が持ち手を伝って手のひらが痺れそうになったので、右手に持った箱と左手の持ち手を交換してまたカラカラと歩いた。今日は午後から夏が忘れ物を取りに来たみたいに少し蒸し暑い天気になった。じわりと滲む汗は少し懐かしい感覚で、箱を持った手の甲でゆっくりと拭う。
そうして歩いていければよかったのに、ふいに足が止まってしまったのは暑さのせいではなかった。わたしが乗る予定のバスの停留所は池袋の往来にあるせいでどの時間帯にも大抵5、6人のひとがバスを待っているのだけれど、それが今は誰もいない。正確に言えばバス停の時刻表に持たれて立っている白黒のひとを中心にザアっと人が引けているのだ。

「良いところにきたちょうどケーキ、買いに行こうと思ってたとこだ」
「へ、いわじまさん」
平和島さんはわたしの手元を見ながらニヤリと笑って言った。わたしはぽかんと口を開けたまま動けないでいる。だって、そんなのって、ない。わたしはもう平和島さんに呆れられているものだとばかり、思っていた。

「……今日は何に、しますか」
「ショートケーキと、シュークリーム。二つずつ」

うちの店にはデパートやホテルで売られているような、こじゃれた洋菓子は置いていないのだ。ショートケーキにチーズケーキ、ガトーショコラやシュークリーム。名前を聞けば誰でも思い浮かべられるような定番メニューしかないけれど、それでもこのシンプルさが良いと言ってくれるお客さんのおかげでうちの店はどうにかやっていけている。
そう例えば、この平和島さんみたいに。
"うちのお勧めは、ショートケーキとシュークリームです"
"ああ、お前の親もそう言ってた"

「はじめて予想が当たりました」
手に持っていたケーキの箱を渡して言うと、平和島さんはくしゃりと顔を崩して笑っているのか呆れているのか分からない変な顔をした。
「やっぱりお前、俺で遊んでるだろ」
「そんなこと……あるかもしれません」
自然に笑えてしまった自分に驚いた。こんなときでも、わたしは笑える。平和島さんと居るだけで。それは幸せで、今はすこし悲しい。平和島さんがいなければ、きっとわたしは笑うことができなくなる。「…なまえ、」平和島さんが何か言おうと口を開いたとき、わたしが乗る予定だったバスがやってきた。わたしがチラリとバスを見ると、平和島さんは口をつぐんでジッとわたしを見つめた。その視線に絡め取られるようにわたしは動けずに、そのままバスは停留所を離れて行ってしまう。その後ろ姿を見送りながら平和島さんはまたわたしの名前を呼んだ。
「俺、考えたんだ」
「何を、ですか」
「お前があの時言ったこと」
「……あれは、もういいんです」
平和島さんがわたしのあの言葉に返事をくれようとしてくれているのなら、それはいらないです。わたしが言うと平和島さんは今度は笑っているのか困っているのかわからない顔をした。わたしを映す鏡のような平和島さん。やっぱりわたしはいつも決心が弱い。
「本当に、もういいか?」
「……本当にもう、」
「お前は本当にそう思ってるのか?」
「……っ」
平和島さんにしては珍しく畳みかけるようにそう問われて、思わずわたしは目を逸らしてしまった。平和島さんはわたしの頬に手を添えてわたしと視線を合わせてくる。持ち手を離されたキャリーケースが大きな音を立てて地面に転がった。
「へ、いわじまさん…」
「なまえ、俺はな、ケーキも夏祭りも花火もかき氷も、後で思い出して懐かしむためにお前と行ったわけじゃない。あと何年か後に、ああそんな夏もあったなって思い出して誰かと笑うためにこの夏を過ごしてきたんじゃない」
「……」
平和島さんの言葉がずきりと心臓に刺さった。わたしは、そうしようとしていた。平和島さんとの夏を綺麗な思い出にして、あと何年か後には笑いながら思い出せればいいと思っていた。本当は、そんなのは嫌なのに。
「俺は、お前と…なまえと、この夏のことを一緒に話して笑いたい。ずっと」
「でもわたしはもう池袋には…」

「だから、会いに行く」

わたしが息を飲むのと、平和島さんがわたしに一歩近づいたのは同時だった。動けば触れてしまいそうなほど近くに平和島さんがいる。もうこんな距離で彼を見ることなどないと、思っていたのに。平和島さんを見上げると、彼はわたしに触れようとした手を一瞬躊躇させた。視線を合わせるためにさらに首を持ち上げれば頬から顎を伝って落ちるそれに、わたしは初めて自分が泣いていることに気づいた。上げかけていた目線を下げて目を伏せる。平和島さんに泣くのを見られるのは何度目だろう。本当に、わたしはすぐ顔に出る。
拭おうとした手を掴まれて、もう一度平和島さんを見ようと顔を上げると頬のあたりを温かい感触が掠めて離れていった。かすかに聞こえた音で涙に口づけをされたことを知る。その瞬間カァっと顔が熱くなった。普通のキスよりも何倍も恥ずかしい。けれどチラリと平和島さんを見ると、わたしと同じくらい顔を赤くしていて思わず笑ってしまった。

「はい、待ってます」




池袋での特別な夏が終わって次の季節がやってきて、またそれも終わろうとしていた頃、一通のエアメールが届いた。送り元はフランス。兄からだった。待ち切れずにわたしはマンションのエントランスで封を切る。一枚の写真と、短い手紙が入っていた。

「みょうじ先輩からか?」
「静雄さん!早かったですね」
「まあな、仕事早く終わらせてきた」
「ふふ、お疲れさまでした」
「それより手紙、何だって?」
「兄が帰国するそうです。フランス人のお嫁さんを連れて」
「へえそりゃいい話だな」
「ええ。お店も二人で継ぐそうですよ」
「それは楽しみだ」
「本当に……っくしゅん」
「寒くなってきたな。中、入るか?」
「はい、そろそろ冬ですね…」
「最近特に冷えるからな、とりあえずこれ着とけ」
「わ、すみません。あ、静雄さん夕飯はもう食べましたか?」
「いやまだだ」
「じゃあ今日はシチューにしましょうあったまりますよ」
「じゃあ食後はこれだな」
「うちのケーキ…!ありがとうございます、美味しいシチューにしますね」
「ほら入るぞ」
「はーい」


それは貴方と繋いだ、たった一度の甘くて優しい夏のことでした。


110921 シュガープール・サマー〆
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