あしたはまだ来ない。むしろこの先ずっとそれが来なくたっておかしくない。そう思えるほどには絶望的な日々だった。日が落ちればあれらは人を喰うのをやめて、いっときの安寧が訪れるはずなのに、まるでそれを明けない世界のはじまりのように感じてしまうのは、きっと傾く夕陽が赤すぎるせいだ。

「へいちょう」
「…いつも思うがおまえの発音はおかしい」
「そうですか?」
「何でそうくっきり発音するんだ」
「そう言われましても。もう癖みたいなものです」
わたしが答えると兵長は眉を寄せて不機嫌な顔をした。その眉間のしわまで夕陽が赤くそめている。隣に立って兵長と同じほうを向くと大地の果てのそのずっと向こうで、今にも沈みそうな太陽がじりじりと高度をさげているのがよく見えた。
兵長とわたしは、からだ全部を返り血ではなく夕陽で真っ赤にそめながら、壁の上に立っていた。奪い返したばかりのウォール・ローゼ。人類はじめての勝利の壁。
「で、何の用だ」
「そろそろ降りないとさすがに駐屯兵団の連中に嫌な顔をされますよ」
「そんなものは放っとけ、どうせろくに仕事もしねえ腰抜けの集まりだろ」
「と、エルヴィン団長が」
「チッ…てめえも口が上手くなったな」
「お褒めにあずかり光栄です、リヴァイへいちょう」
おどけて敬礼をしてみせると無言の兵長に背中から蹴りを入れられた。ふらりと傾いた体が壁の外へはみ出る。倒れながら慌てた顔を作って兵長に助けを求めると、巨人の吐瀉物をみるのと同じ目がこっちを向いていた。仕方なく立体機動で元の体勢に引っ張り上げる。兵長は眉間をぴくりとも動かさないまま、まるで夕陽に立ち向かうように腕を組んで仁王立っていた。

「わたしたちがもう少し早く帰っていれば、とか考えてます?」
「…何の話だ」
兵長はそれで誤魔化したつもりらしかった。たしかにわたしは学がある方ではないけれど、ひとの心の機微には鋭敏であろうと努めている。調査兵団が前線に出られなかったトロスト区攻防戦について、兵長が何かしらの責任を感じているらしいことは手にとるようにわかった。
「べつに兵長のせいではないですよ。あいつらがいつ壁を壊すかなんて、予測できる方がおかしいです」
兵長はフン、と鼻を鳴らしただけで答えなかった。夕陽がすべてのものの輪郭を濃い黒にそめていく。仲間を喰ったあれらもいまはこの赤と黒が広がる空の下にいるのだと思うと、腹立たしさは不思議と消えた。それでもわたしの深いところでくすぶる怒りや憎悪まで消えてなくならないのは、奴らを屠るために生きて、おそらくは死ぬ種類の人間としては喜ぶべきなのだろう。隣に立つ兵長が背中の翼を真っ赤にそめてこちらをチラリと見やる気配がした。
「…おまえ、普通に呼べるじゃねえか」
「はい?」
「普通に発音できるじゃねえかって言ってんだ」
「ああ」
得心がいくのにすこし時間がかかったのは自覚がなかったからだ。それに、兵長がそれほどわたしの口癖を気にかけているとも思わなかった。
「何でしょうね、本当に思わず出てしまう癖なんです」
わたしにもよくわかりません・と言うと、兵長がむつかしい顔をすこしだけ解いた。相変わらず眉間のしわは深いけれど。
「兵長がおっしゃるなら直しますけど」
「べつにいい」
「でも気になるんですよね」
兵長はまた夕陽の方を向いていた。いよいよ沈んでゆく太陽のひかりは、もう赤よりも黒のほうがずっと強い。うつくしく残酷な世界が燃えて、焦げて、灰になる。
「気になるんじゃねえ。気付くだけだ」
「何にですか?」
「…お前が俺を呼んでいるんだと」

そうか。ああ、そうだ。わたしが「へいちょう」と妙な呼称を使うのは、確かに彼を呼ぶときだ。掃討作戦で彼が巨人三体に囲まれたとき・仲間を失った夜には決まって眠れないその背中を薄暗い宿舎の廊下で見つけたとき・昏睡のわたしの手を握って眠る彼のつめたい体温で目覚めたとき。
わたしが呼べば、兵長はいつだって振り向く前に返事をした。だからわたしは不格好な呼び方で彼を呼ぶのだ。貴方を呼ぶのがわたしだと、気付いてほしくて。

「そう、でした」
「は?何だその呆けたツラは」
「じぶんでも忘れてました。昔は意識していたのに、いつの間にか癖になってたんですね」
「…てめえの事情なんぞは知らねえよ」
「ですよね」
兵長はそういうけれど、わたしはそれでも嬉しかった。わたしの一方的な思いを、この人が少なくとも受け止めていてくれたこと。わたしはそれをとても、幸せだと思った。

「へいちょう」
「…何だ」
「そろそろ帰りましょう」
「そうだな」

街並みは燃えて、焦げて、真黒に沈む夜がやってくる。ガスの節約だ・と、けちくさいことを言う兵長に抱え上げられながら彼の立体機動で降りていく壁の向こうに、真っ赤に燃える世界が見えた。ああ、空の碧が死んでいる

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