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夏の日は子どもに還るような心地がする。溶けかけの氷が入った麦茶のグラスに、机の上に広げられた二人分の宿題、二段ベッド、ゆるりと首を振る扇風機。

悠太は麦茶のおかわりを取りに下に降りている。宿題なんてさっきからちっとも身に入らなくて、わたしは散らかっただけの机に肘をついて悠太を待っていた。祐希は出かけている。彼なりに気を使ってくれたのかもしれないし、単に読みたいアニメ雑誌の発売日だっただけなのかもしれないけれど、あとは若いお二人で、とか何だと言ってわたしと入れ違いに出て行った。
とにかくそんなわけで浅羽兄弟の部屋には彼らのどちらでもなくわたしだけが居て、それ自体は昔からよくあることだったからどうということはない。どうにも落ち着きが悪いのは、この夏が始まってからずっとだ。受験生という肩書きを新たに得たわたしたちの夏は、全くいつもどおりの夏というわけにはいかなくて、「進路」の二文字が常に頭の周りをぐるぐる回っているようで、何かがすべてしゃんとしない。
足の短い机を出して床に座り込んでいる体勢からは、二段ベッドも双子の勉強机もいつもよりすこし大きく見えた。昔に戻ったみたいに。漫画や雑誌で散らかっている弟のに比べれば、悠太の机はわりときちんと片づけられている。それに向かっていつもの無表情で参考書と格闘する悠太をぼんやりと想像していると、積まれたノートや教科書の間に挟まっている白い紙が目に入った。メモやプリントはいつもきちんとクリアファイルに入れて整理している悠太にしてはめずらしい。

それはもう、ほんとうに、魔が指したとしか言いようがなかった。薄く透ける「進路希望」の文字がわたしにそうさせたのだ。この夏が始まってからずっと、頭の周りをぐるぐる回るやっかいな、落ち着きの悪い原因。指先で紙を挟んで引っ張り出す。何度も折り目をつけられて柔らかくなった十文字を開いて羅列された文字に目を走らせようとしたところで、その文字たちにまあるい影が落ちた。
「こーら、何やってるの」
「悠太」
後ろからのぞきこまれてびくりと肩が揺れた。驚いたのと後ろめたいのと半分半分。麦茶のグラスをふたつ持った悠太は怒った様子もなくて、しゅんと肩をすぼめたわたしを見て可笑しそうに、あるいは呆れただけかもしれないけれど、少しだけ笑った。
「…ごめんなさい」
「ううん、べつにいいけどさ」
悠太が二人分のグラスを机に置く音がとしずかな部屋にコトリコトリ、と響いた。浅羽家の麦茶はいつだって懐かしい味がする。ひとくち含んで、干からびた喉とくちびるを湿らせてから優しい顔をしている悠太を見た。ぬるい空気をかき回して首を振る扇風機が、真ん中で分けられたその前髪を揺らしている。表は蝉しぐれ。夏の日没はまだ遠い。

「絢音は大学どこ受けるか、もう決めたの」
「…ううん、まだ。やりたいこととか、思いつかなくて」
すこしの沈黙のあと、悠太が控えめに問うてくる。正直に答えると、悠太はそっか・と言ってたっぷりの麦茶が入ったグラスの水滴を指で撫でた。こんどはこちらを向いていた扇風機が弱い風を送ってくる。
いまは夏休みで、わたしたちは受験生で、浅羽家の麦茶は相変わらず懐かしい味がするけれど、わたしたちはこれからどんどん前に進んでいかなければならない。それは時にわたしたちの意思とは無関係に、後ろからくる大きな流れに飲まれて立ち止まる背中を押されるように。流れに揉まれるその中でわたしは、これまでずっとつないでいたこの手が、あっさり離れてしまうのが何よりいっとう怖かった。
「悠太は、もう進路決めたの?」
悠太は眉を下げて、わたしが握りしめている進路希望調査の紙を指で示した。勝手に見ようとしていた手前すこし後ろめたい気持ちもあって、わたしは俯いてその紙をふたたび開くのを迷ってしまう。のろのろとしているわたしの方へ悠太の手が伸びてきた。わたしが、離れてしまうのを怖がる手。ずっとやさしく繋いでくれていた悠太の手。その手がペラリと紙を開いた。
「俺も、おなじ」
悠太の進路希望は真っ白だった。困ったようにわらう悠太を見るに、彼なりにきっとたくさん考えたんだろうけれど、おなじ・という言葉が、この夏が始まってからずっとしゃんとしなかったわたしの何かをすこしだけ楽にしてくれた気がする。悠太がずっと先に行ってしまって、自分だけが置いていかれるのがきっとわたしは怖かった。
「ねえ悠太」
「うん」
「こういうのってあまりよくないのかもしれないけど」
「うん」
「わたし、悠太と同じところに行きたいよ」
「…うん」
悠太はめずらしく目を見開いて、それからようやくすこし笑った。大きな流れに飲み込まれても、わたしはこの手を離したくない。置いていくのも、置いて行かれるのも嫌だ。
「自分がやりたいこととか、まだ全然わからないけど」
悠太がぽつりとつぶやいた。指先はまたグラスの水滴を撫でている。麦茶はきっとすっかりぬるくなっているだろう。それでも、夏のあいだ浅羽家の冷蔵庫にはたっぷりの麦茶が冷えていることを、わたしは知っている。
「俺も、そう思うよ」

溶けかけの氷が入った麦茶のグラスに、机の上に広げられた二人分の宿題、二段ベッド、ゆるりと首を振る扇風機。机越しに重ねられたくちびるの熱は、誰にも内緒のわたしたちの秘密基地にそっと仕舞われる。

「ね、すいか食べようか」
「すいか?」
「千鶴んちの畑で獲れたんだって」
「祐希の分は?」
「いいのいいの、食べちゃおう」
「やったっ」
「庭に持ってこうか」
「あれ出そう、ちっちゃいころ入ってたビニールのプール」
「まだあるかなあ」
「きっとあるよ」
「食べたら宿題やるんだよ」
「…はーい」

表は蝉しぐれ。昼のあいだに太陽が焦がしたアスファルトは夕方の涼しい空気も吸収して夏の暑さに変えてしまう。陽射しは傾くけれど、地平線にはまだ遠い。切った西瓜の赤はあざやかで、ふたりして足を突っ込んでいるビニールプールの氷水はくっきりと冷たい。不安はたくさんあるけれど、背筋はしゃんと伸びた気がする。
たっぷりと時間をかけて暮れる夏の日に、あしたはまだ来ない

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