夢を見れるだろうか、見かけばかりの安寧を築くこの壁のなかで。じわじわと白み明けるのは、希望の朝ではなく闘いと絶望の悪夢だ。そこではどんなにささやかな願いすら蒸気を纏う皮膚のないくちに喰われて朽ちる。ただ喰われるのを待つ夢ならば、見ずとも同じというものだ。

どうしてだか明け方近くに目が覚めた。食堂のちいさな窓から見える森の向こうがうっそりと薄明るい。眠気はすでに飛んでいた。ここ最近はただ、眠らねば・という意識だけで睡眠をとっている。
毎日の訓練は想像以上にひどく厳しかった。どんなに眠ってもからだは重く、食欲は消え、やけに喉だけが渇いた。パンよりも水をからだに入れて、わたしたちは今日までどうにか生きている。
「ずいぶん早いんだな」
「…ジャン、おはよう」
振り向いた先で、色素の薄い短髪とするどい瞳が気だるそうに頭に手をやって立っている。朝の挨拶に軽く手を挙げて答えながら宿舎の外へ繋がるドアに手をかけるので、わたしもその後について行った。ジャンは何も言わない。拒絶をしないことが彼の肯定だと知ったのは最近のことだ。

森の中にある訓練宿舎は、生い茂る木や葉に遮られて朝陽が射し込むのがずいぶん遅かった。周りの明るさはベッドを抜け出した時とさほど変わらず、夜明け直後のじんわりとした薄暗さを保ったままでいる。涼やかな朝の空気を吸い込むと、からだの中の疲労が一掃されていくような心地がした。
宿舎の壁にもたれるようにして座り込むと、隣のジャンもそれに倣った。ぐっと上半身を伸ばしてひとつ欠伸をする。揺れた肩がジャンの腕に当たって、彼との距離の近さを知った。チラリと目の端でジャンを見やると、深い色のベストから意外なほどに華奢な鎖骨が覗いていてわたしは思わず目を逸らす。
「おまえってさ、何で調査兵団に入りたいんだよ」
「ん?え?」
鎖骨に気を取られていたせいで、脈絡のない質問に間の抜けた返事をしてしまう。だからさ・と言ってまっすぐにわたしを見るジャンは、別段エレンを相手にするときのようにわたしを責めたてようという気はないようだった。そのことにまた安堵して、ほうと息が漏れる。どうもわたしは、彼に軽蔑されたくないという思いが強いようだった。それは、ジャンの言うことがたいていの場合真っ直ぐすぎる正論だからだろう。
「おまえは別にあいつみたいに死んでも巨人を駆逐してやる・とかそういうんじゃねえんだろ」
エレンの口癖であるところの物騒な台詞をくちにして、ジャンは眉根を寄せるようにして笑った。
「そうだね、巨人のために死ぬのは嫌かなあ」
思ったことをよく考えずに言葉にしたら、思いのほかのんびりとした答えになった。ジャンは呆気にとられたように目を丸くすると、けれど程なくしてくつくつ喉を鳴らしてまた笑う。
だから。なんとなく、彼には話してみようかという気になった。わたしの夢。悪夢に喰い潰されそうになりながらも、いつだってわたしを奮い立たせるあざやかな夢。

「わたし、壁の外が見たいの」

ジャンはわたしの言葉の意味を推し量るように少しのあいだ黙り込んだ。それから「…壁の外」と反芻するちいさな声が聞こえる。あとには、風にながれる木々のざわめきと曖昧な沈黙が残された。

いつの間にか昇った朝陽は森のなかに届くまでに高くなり、気温をぐんぐん上げてゆく。扉の向こうで起き出した訓練兵たちが騒がしく動き始める気配がした。ジャンが立ち上がる。朝陽の方を向いた彼の背中の輪郭から陽光が漏れ出て、まるで二枚の翼に見えた。

「壁の外に何があるっていうんだ」
やがて沈黙を破ったジャンがまぶしそうに目を細くして聞いてくる。わたしにはそんな彼こそがまぶしくて、目が眩む。いつだって真っ直ぐで正論で現実主義。彼の立体機動には、ちいさな自由の翼が見える。きっとジャンさえその気になれば、彼はどこへだって飛べるのだろう。放たれた弓矢のように、その切っ先が獲物をとらえるまで、どこまでも。
「ここには無いものが、壁の外にはある」
「ここに無いもの」
たとえばね、と言ってわたしは昔読んだ本の内容を思い浮かべる。空を反射して青くどこまでも広がる"海"と、はるか遠くまで地続きで連なる"大陸"と、それから、"四つの季節"。かつてあった東洋の島国では、四つの季節が順繰りにやってきて、折々の風景が見せるそれらはどれも、すばらしく美しいのだと。
「わたしは、調査兵団に入ってそういうものをぜんぶ、見たい」
わたしはまだ、なにも知らない。海を見たことはないし、大陸を踏みしめたことも、いまの季節の名前も、知らない。だけどそういうものを知ってゆけるのなら、それにわたしの命をぜんぶ賭けたって、ちっとも惜しくはないと思う。死んだら知るも知らないも何もないと、リアリストは笑うかもしれないけれど、そうやって生きてゆかずに死んだって、それこそそこには何もないのだ。空っぽのまま死んだら、人間も巨人のように蒸発するように消えるのかもしれない。はじめから何も、誰も居なかったみたいに。それは、それだけは、嫌だ。

「…そういう理由は、お前らしいな」
ジャンがあまりに難しい声音をしていうので、初めわたしは自分の主張が肯定されたことに気がつかないほどだった。はっと顔をあげるといつの間にか目の前に立っていたジャンがこちらに手を伸ばしている。その手を取るのに迷うことなどひとつもない。絡めた手のひらはリアリストの彼らしくひやりと冷たかった。彼に引っ張られるように立ち上がり、もう片方の手でほっそりと緩やかな曲線を描く鎖骨を撫でる。うつくしいかたちをした彼の骨は、現実を知る手のひらよりも熱く、捧げた心臓は多分それよりもっと熱いのだろう。

「…ジャン!」
「ん?」
「いつかジャンにも、見せてあげるから」
「…お前は頼もしいな」

もはや穴ぼこだらけの壁のそのずっと向こう。わたしの夢はそこにある、木洩れ陽のようなあやうさで

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