海を見たことがないと彼が言うのを、すこし意外な心持ちで聞いていたのを、わたしは今でもよく覚えている。自分より数百年も長く存在している彼が、その彼よりももっとずっと前から在る海を見たことがないというのは、なんだかとても不思議だったのだ。
曰く、刀で在ったときの記憶は、その刀身で触れたものしか残らなかったらしい。
「錆びたら格好悪いからね」
そう言って伊達男然として笑う彼を、愛おしく思ってしまったのは、しかしながら矢張り避けられようもないことだった。
記憶の残り方は、どうやら刀剣男士によっていささか異なる様子で、たとえば短刀たちのなかには触れたことはなくとも、白波の行き来する海辺の美しさや、あるいは岸壁に打ち付ける荒々しい波々の轟きを、目を輝かせ仔細に語ることのできる子らもいた。
記憶の定着度の違いはおそらく、彼らの本体によるところが大きい。刀身がいちど焼身した刀剣たちの記憶が一部曖昧であるように、かつての大地震で被災した光忠の記憶もそのあちこちが剥がれ落ちてしまっているのだろう。触れたものの記憶だけが、人の身を得てもなおこぼれ落ちずに残っているのは、刀剣にとりそれが唯一無二、彼らがあの時代を確かに生きていた証のようなものだからかもしれない。

そうして或る日、わたしは光忠のその手をとってふたりだけの海へと赴いた。長かった夏もいよいよ終わるかという頃だった。

「案外しずかなんだね」
眼前に広がる海をその隻眼でながめて、光忠は言った。夏の盛りの頃には海水浴でにぎわったこの場所も、いまは私たち以外には、誰もいない。
「このくらいの時期は、くらげが出るので泳げないの」
「くらげ?」
光忠が首をかしげる。背丈に似合わない仕草が幼子のようで可笑しい。
「こういうかたちの海の生き物で、毒があるから刺されるととっても痛くてね」
光忠と繋いでいない方の手で傘の形を作る。わたしの拙い説明では、触れたことも見たことすらない生き物を正確に思い描くのは難しいだろうに、光忠はなぜか神妙な面持ちでそれを聞いていた。好奇心は人を幼くするものらしい。これもずいぶん人らしくなったものだなあとわたしはひとりでふんふんと感心していた。
「昔、刺されたことがあったの。あんなに可愛らしい見た目なのにそれはもう痛くて痛くて、わたしはまだ小さかったからわんわん泣いたわ」
「ふうん。くらげってまるで君みたいだ」
「わたし?」
「可愛らしい見た目に誘われて、触れてしまうと毒に刺される」
「ひどい。わたしは光忠を刺したりしないのに」
「ものの例えだよ、主」
刀に日本語の使い方を諭されてしまった。光忠は、むきになって鼻息を荒くしているわたしを笑っている。その後ろですこし波を高くした夏の名残の海がざあんざあんと裏淋しく響いた。
「くらげかあ。海に入ったら見られるかな」
「聞いていた?刺されちゃうのよ」
「でもほら、僕は、触れないと忘れてしまうから」
光忠が、繋いだ手の力をほんの僅かに強くした気がした。忘れたくないと、思ってくれていたらいい。この雄大な海の青と、それを一緒に眺めた人間のことを。

恐る恐るといった風に、光忠が裸の足を浅い波の隙間に差し入れた。引く波にさらわれて、足元の砂がさらさらと崩れていく。くすぐったいね、と光忠が笑った。ひときわ大きな波がきて、撥ねた飛沫がジーンズの裾を濡らす。どうせならもう少し深いところまで、と言う光忠を無理に止めるのも忍びなくて、彼の手を離してその背中を見送った。遠浅の海、光忠の姿はみるみる小さくなっていく。
「光忠、あんまり沖へ行くと危ないよ」
わたしの声も届いているのだか。落ち始めた夕日の色が、海の青を光忠ごと橙色に染めて行く。やがて空も海も燃えるように赤くなり、一瞬、彼の背中が炎に包まれたように見えた。

もしもこの先、彼が人の身を喪ったとき、声を発さず手足を持たない刀剣に戻ったとき、そのとき遺る記憶は、瓦礫の山や炎や真っ黒に燻る夜の空などではなく、夏の終わりの夕暮れに寄せて返すこの大きな大きな海の青であるように。

私の手を離れた隻眼が、不意にこちらを向いて、この景色を記憶に切り取るように佇んでいた。真ん中に佇んでいた。夏の残滓が流れていく。からっぽの左手が、彼の体温を求めて淋しく冷えた。

- 海月と亡骸(燭台切光忠)
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