――忘れられない女性(ひと)? 
ひどいなあ、ベッドの中で他の女の話をさせるだなんて。うん、そうだね、僕はできれば君がそうなってくれたらいいと思っているのだけど。いや、もちろん本心さ。うーん、信用ないなあ、僕。
オーケー、わかった。降参だよ。話すとも。だから、そんなふうに僕を煽るのはやめてくれよ。これから話すのは、理性無しには語れない昔話なんだから。君の可愛い誘惑に、僕が負けてしまったら、この話はお終いだよ。いいね。


ひどく昔のような、あるいはたった昨日のことのような、けれども、とにかくそれはもう過ぎた日の話だ。もちろん僕は今よりも若く、そのくせ世界の全てを見てきたような顔をしていた。そう、世界が再構築されたあの大崩落の日を、ヘルサレムズ・ロットの始まりを、この目で見、そして生き延びたことが僕の驕りになっていた。彼女と出会ったのは、そんな頃だ。
ただし、その出会いは間違っても偶然ではなかった。僕の「驕り」が僕と彼女を引き合わせ、そして引き裂いた。
彼女はHLで二番目に大きな新聞社に勤める記者の卵だった。ライブラの維持には、警察とメディアとのコネクションが不可欠だと考えていた僕は、手始めに新人記者の彼女に狙いをつけた。(ちなみに警察の方はよれよれのトレンチコートに長い前髪が暑苦しい警部補殿で手を打った。もちろん、当時はまだ駆け出しの志高き巡査だったけれど。)
報道への情熱、真実追究の信念、底無しの好奇心、エトセトラエトセトラ。真っ直ぐで若い彼女の持つそれらすべてが、僕にはすべて都合よく、僕と彼女との距離はたちまち縮まっていった。もちろん、自分がライブラの構成員であることは伏せていたけれど、そこは彼女もジャーナリストの端くれ、僕が堅気の人間ではないことには、何となく気がついているようだったし、それならそれで尚のこと都合がいいのはむしろ僕の方だったから、互いに肝心なところには触れない奇妙な距離感の関係が、しばらくの間続いた。
ランチの約束にはじまり、映画やディナー、セントラルパークの池に氷を張ったスケートリンクに旧タイムズスクエアに現れた巨大なクリスマスツリー。普段の僕を少しでも知る人たちが見たら、スティーブン・スターフェイズによく似た他人に違いないと思ったことだろう。事実、僕が対人関係において我ながら人間じみていると思えたのは、後にも先にも唯一彼女に対してだけだ。

「スティーブンさんは、冷たいのね」
僕らがはじめてのキスをしたとき、彼女は僕の頬をひそりと撫でて言った。
「そうかい?君にはとびきりに優しくしているつもりなんだけどな」
「ううん、そうじゃなくて本当に、冷たいの。…まるで氷みたい」
まさかほんとうにそこから冷気を感じ取ったわけではないだろうけれど、妙に核心を突くのがうまい彼女は、そうやって時折僕を驚かせるのだった。驚くべきは、それらの言動について、彼女がまったくの無自覚であったことだ。そしてその直観力は、彼女を一新聞社の記者の卵から、HL随一のジャーナリストへと押し上げる。いや、押し上げる、はずだった。

あの日彼女が、どうしてあの場所に現れたのかは、今でもよくわからない。僕を尾けていたのか、あるいは、僕等の相手の正体を掴んでいたのか、今になっては理由などさまざま作れるけれど、真実はわからないままだ。たったひとつの真実にして揺るぎのない事実はこうだ。

彼女はあの日、文字通り僕の”目の前で”、死んだ。

Xデーはいつも前触れなく訪れる。多くの人にとっては大崩落がそれだったろうし、僕にとってはあの日がそうだった。
その日は、朝から小さなゴタゴタがやたらと続いた日だった。クラウスのお気に入りの鉢植えが昆虫みたいな異界生物に食い荒らされて、怒り心頭のボスを宥めるのに小一時間を費やしたし、二日酔いのチェインにちょっかいをかけたザップが質量調整を誤った彼女に見るも無惨にぺしゃんこにされたり、僕はといえば子供と喧嘩をしたらしく使い物にならないくらいに落ち込んでいるKKを励ますのに派手に失敗したりした。しかしそんな秘密結社の慌ただしさに比べて、街はすこぶる平和だった。けれどもそれは、嵐の前の静けさに過ぎず、僕らが妙にゴタついていたのは、虫の知らせとも言うべき予兆だったのだ。午後になって街の様相は一変する。
始まりは一本の出動要請コール。エンパイア・ステートビルディング跡地に血界の眷属の出現を確認。クラウスの血闘術を使わずとも滅殺が可能な下位存在だ。さっさと片付けて、ついでにランチでも済ませてくるさ、と僕は単身現場に赴いた。だって誰が想像できただろう、それが実に13体の血界の眷属の出現の始まりに過ぎなかっただなんて。
個々の力は大したことはない。問題はその数だ。
13体をまとめて相手する分にはさして苦労はしなかっただろうが、それらにHLのあちこちで気まぐれに暴れられたら僕一人ではいよいよ手が回らない。結局、今日に限ってほとんど使い物にならないライブラの面々を召集する羽目になり、僕のランチは当面の間お預けとなった。
5体を凍りづけにしたところで、チェインから現状報告のコールが入る。残りは8体、うち3体はザップとレオ、クラウス、K・Kとハマーがそれぞれ応戦中。となれば無傷なのは残り5体。ようやく終わりが見えてきたと息を吐き、しかしそれをゆっくり吸い込む余裕は無く次の現場へ文字通り飛んでいく。

そこは、5番街を少しはずれた狭い路地裏だった。今まで の華やかな偽物じみた思い出とは対照的に、薄暗くどこまでも本物で現実で、残酷な灰色をしたそこが、彼女の、いや、僕と彼女の最後の地となった。
血界の眷属は、僕の姿を見とめて鼻で笑うような仕草をした。いかんせん人の姿にもなりきれない下位存在だ。鼻がどこにあるのかもーいや、もしかしたらそもそも無いのかもしれないがー分かったものではない。が、そんな在るか無いかわからないものを探している暇は僕にはないのだ。さっきまでのやり合いで血を使いすぎていた。貧血の前兆のような頭痛がキイン、と不愉快な音で鳴っている。
余分なものには手をつけず、最小限の血と氷で通算9体目を氷像に仕上げ、そのまま路地裏のコンクリート壁にもたれかかった。チェインに報告コールをしなければと思うのに、身体はいまいち反応が鈍い。自分の手足がはるか遠くにあるようだ。のろのろとしか動かないそれらに舌打ちが出る。
携帯電話を探す右手が内ポケットを出る前に、僕の両の耳は嫌な音を聞いた。薄氷にひびが入る音だ。脳が考えるより早く、上半身が壁を離れ、僕は再び戦闘態勢をとる。はずだった。視界が真っ暗になり、重力がやけに大きく感じる。立っていられなくなって僕は荒いコンクリートの路地にしたたか腰を打ち付けた。血が循環していない体を無理に動かしたせいで、立ち眩みを起こしたようだった。
血界の眷属との戦闘は一瞬の隙が命取りだ。僕は自らの死を予見し、自分とライブラを結びつける全てを隠滅させるため、咄嗟に携帯電話に手を掛けようとした。が、来るべき痛みや衝撃が無い。代わりに生ぬるい液体のようなものが頭上から垂れ落ちている感触がした。

そうして、重い瞼を開けて見たあの光景を、僕は今でもまざまざと思い出すことができる。
まず目に入ったのは、赤だ。鮮烈な生の赤ではなく、黒々とした不吉な赤。それが僕の右眼にべたりと纏わりついていた。手の甲で深く拭ったこれは、死だ。この街に来てから何度も見てきた、死の赤だ。
「…スティーブン、さん…」
声がしてはじめて、僕は目の前にいるのが彼女だとわかった。何せ僕の知る、美しいあの彼女の姿は見る影もなかった。
彼女の華奢な手が伸びてきて、僕の頬を撫でる。おそろしく白いその指が、彼女自身の血の赤で汚れた。そう、これは彼女の死の赤だった。失血のせいで蒼白の顔面は飛び散った血の色だけがいやに鮮明で、ひときわ青白い唇は、あの日キスを交えたそれと同じものだとはとても思えなかった。そして。首から下、本当なら彼女の心臓があるはずのそこは、なにも、なかった。ぽっかりと空いた穴からは、そこを食い破った張本人の姿が、小さく見えるばかりだった。
それからはもう、ほとんど無意識だった。怒りに任せありったけの血を氷に変えて、今度こそそいつを氷像に仕上げる。蹴り砕きたい衝動を抑え、彼女の元へと駆け寄った。

ごめんなさい、と、彼女がか細い声で言った。何に対しての謝罪なのかは、彼女の次の言葉でわかった。その指先が、血のこびりついた僕の頬をふたたび拭う。
「貴方、を…汚しちゃっ、た…」
僕の方が心臓を握りつぶされたような心地だった。僕が彼女を巻き込んだ。僕と出会わなければ、彼女はここで死なずとも済んだ。こんな男を、身体を張って庇って死ぬこともなかった。

「君は…」
気がつくと僕は張り付いた声帯を引き剥がすようにして言葉を絞り出していた。何か言わなければと、彼女にひとこと、悪態のひとつでも言ってやらなければと何故だかわからないけどそう思ったのだ。
「君は…ほんとうに酷い女だ。僕に…僕に、自己嫌悪で死ねと、言うのか」
彼女の耳には、もう僕の声は届いていないようだった。僕は彼女の胸に空いた穴を氷で埋めて、せめてこれ以上の出血を抑えようと試みた。足に力を入れられずもはや自力では立てない彼女を膝の上に抱きかかえる。彼女の口元が、何かつぶやくようにかすかに動いた。耳を寄せ、彼女の声をすくい取る。
「…やっぱり、スティー、ブンさ…は冷た…、わ」
「今は…君の方がずっと、冷たいよ」
それが僕たちが交わした最期の言葉だった。絶命する瞬間、彼女は自らの幕を閉じるようにすうっと瞼を下ろした。それは思わずぞっとするほどに美しい所作だった。僕はどんどん冷たくなっていく彼女の身体を抱きしめて、その真っ白な唇に別れのキスをした。それは、あの日と何ひとつ変わらない、あるいは、何もかもが違う、キスだった。


ーー僕の話はこれでお終い。うん?いやだな、そんなに深刻な顔をしないでくれよ。昔の話だよ。どうして君に話したのかって?君が聞いたんじゃないか、忘れられないひとの話。
うん、だけどそれだけじゃあないよ、君が特別だからさ。彼女の話をしたのは君がはじめてなんだ。特別な君には知っていて欲しかったんだ。あれ?僕の話、ちゃんと聞いてる?…まあ、無理もないか。どうだい、血管に直接氷の針をぶちこまれた気分は。冷たさで息も出来ないだろう?彼女もそうだったんだ、どんどん冷たくなって、死んだ。君も同じになって死ぬがいいさ。君が殺した彼女と同じ苦しみを味わって、ね。
君があの日の騒動を引き起こした張本人であることを突き止めるのは本当に骨が折れたよ。なんせ君はただの人間だ。血の眷属をけしかけて僕たち牙狩りをあぶり出そうなんて真似、誰もただの人間の仕業だとは思わない。
本当は今日ここで君を殺すことは僕らの計画にはまるで無かったことだ。本来なら君は僕らライブラに捕まって、血の一滴まで残らず知っていることを喋らされるはずだった。土壇場での計画の変更は今後の予定にかなりの狂いを生じさせるかもしれないけれど、それでも、君の顔を見ていたら、君を生かしておくことなど、僕には到底無理だった。
今君を死なせることはもしかしたら今後の人類に大いなる不利益を生むかもしれないが、たとえそうだとしても僕はここで君を殺さなくちゃならない。それが、君の言う「忘れられないひと」への、僕なりの手向けってやつなのさ。

…少し喋りすぎたかな。さ、そろそろクラウスたちがここを突き止めている頃だ。ライブラの連中が来れば、僕は君を殺せなくなる。名残惜しいけれど、これでお別れだ。


おやすみ、とびきりの悪夢を。


神様を愛せない世界のこと/スティーブン・A・スターフェイズ

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