最後のひとくちのソーダ色が、"はずれ"と書かれた木の棒から、焦げた真夏の地面に落ちて行くのが、なぜだかスローモーションで再生された。涙のような空色が、"はずれ"を伝って彼女のしろい指先を汚す。
「辻くん…いま、なんて言ったの」
先輩の声は、へたくそなトランペットみたいに音程と音量がまるであやふやで、今にも泣き出すのではないかと俺はすこし期待したけれど、果たして彼女は切れ長の目を大きくひとつ瞬かせただけだった。
「俺は、あなたが好きです」
先輩が長い長い息をつくのを、相変わらず俺はただ見ている。
夏休みが目前に迫った、昼休みのプールサイドだった。先輩は白のペンキで3と書かれた褪せた水色の飛び込み台に座り、はだしの指先で水面を気まぐれに弾いている。たまにスカートが捲れるくらいに足を高く上げるから、俺はそんな先輩の斜めすこし後ろという立ち位置から動けないままだった。
「辻くんもそんな冗談、言うのね」
「冗談なんかじゃ、ありません」
「じゃあ、どういうつもり」
先輩がまたひとつ、水飛沫をつくる。水面に白い波が立ち、その波がまた小さな波を生んで思い思いの方へ広がっていく。この小さなプールにおいて、女神は彼女だった。
「つもりもなにも、言葉のとおりです」
「からかってるとしか思えない」
「どうして」
「だって、わたしは」

ゆうれいだもの。
きっとそう続くはずだった言葉を飲み込んだきり、先輩は25メートル先を見つめたまま動かなくなった。背中を少し丸めたせいで、真っ白なシャツの下を横断する下着の線が、淡く浮き出ている。目の遣りどころに困って俺はすこしうつむいた。
最初に彼女を幽霊と称したのは誰だったか。その透けるくらいにしろい頬とか、そのくせ底なしの穴のように黒々としたまるい瞳とか、そういう外見的な要素も手伝ったのだろうけれど、たぶん、いちばんは彼女にまとわりつくたくさんの噂と、それよりたくさんのどうしようもなく真実な事実のせいだ。
夜な夜な廃棄区画を彷徨う女の幽霊。彼女はあの日いなくなった友達を探している。ほんとうはあの日に彼女も死んだのに、それに気がつかないまま、友達を探し続けている。
噂が噂を呼んで、あるいは真実が噂の顔をして大渋滞を起こしている先輩の風評はみな、けれど口を揃えて彼女をゆうれいだと言う。彼女自身がそれを自虐的に自称するほど、明け透けに。

先輩と出会ったのは、深夜の警戒任務中、廃棄区画の家の中だった。見知った制服姿の彼女は、家主のいない廃墟のなかでおだやかな顔でねむっていた。耳を澄まさなければ聞こえないほどの浅い寝息と、ガラスのない窓から差し込む月明かりがそのしろい頬にぼんやりと反射して、まるで紺碧に沈む美しい死人のようだった。だから、その彼女が音もなく目をあけて、ゆっくりとその身を起こしたとき、俺には彼女がこの世のものとは、とてもじゃないけど思えなかったのだ。
彼女にまつわる噂のことは、その後知った。まさしく、ゆうれい。俺があの時に感じた寒気のようなものの正体は、恐怖だったのかもしれない。異界民を相手にしているときにも、感じたことのない感情を、たったひとりの女の人に、俺は抱いたのだ。

「先輩は、俺のことは嫌いですか」
「…ほんとうに、ずるいね君は」
先輩は首だけで振り向いてなぜかすこしさみしげに笑った。そうやって笑うと、先輩は18歳という年齢よりずっと大人びて見える。
「だいたい、辻くん、わたし以外の女の子とろくに喋ったこともないのでしょ」
「それは」
「"例外"と"好き"とをごちゃまぜにしちゃあ、だめ」
そう言って先輩はやさしく笑った。夏の日差しが目に眩しかった。眩しくて、目を細めると、先輩の姿が、太陽をきらきらと反射するプールの透明な青色に透けて見えた。はっとして、強くいちどまばたきをすると、さっきまで飛び込み台に座っていた先輩が、俺の目の前に立っていた。音もなく。
「でも、うん。ありがとう」
おそろしく冷たい唇が、俺の頬に落下する。塩素の匂いに混じる透明な青の残り香。

その日を最後に、先輩は俺の前から姿を消した。プールにも、図書室にも、学校のどこにも彼女は居なかった。廃棄区画に出るゆうれいの噂も、いつのまにかぱったりと止んでいた。
同じ学年の犬飼先輩に、彼女のことをたずねようとして、自分が彼女の名前すら知らなかったことに、いまさら気づいた。犬飼先輩は、覚えていなかった。廃棄区画でねむる彼女を保護した警戒任務、あの日犬飼先輩もおなじ任務中だったはずなのに、先輩は彼女について、何も知らなかった。
「辻ちゃん、ゆうれいでも見ちゃったんじゃないの」
犬飼先輩に冗談交じりに言われて思い出す。真夏の太陽のしたで汗ひとつかかない白い肌、おそろしく冷たい唇の淡い感触、およそ高校生には見えない大人びた淋しい笑顔。
それから。
彼女の制服の胸元に光る校章。今、三年生を含めた全生徒に配布されているのは、四年前の大規模侵攻で犠牲になった六頴館の女子生徒を追悼して作られたものだ。学校名の背景に、その女子生徒のイニシャルが刻まれている。先輩の校章には、それがなかった。

彼女が消えた今、真偽は確かめようがない。
それでも、とびきり暑い夏のあの日、俺は青色の透明なゆうれいに恋をしていた。

カシミアンブルーの亡霊 / 辻新之助

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