島の季節は東京よりも一足早くやってくる。それは今年の夏も例外ではなく、梅雨も明けきらないうちからじわりと滲んだ汗の粒が雫になって首元を垂れてゆく暑さだった。島唯一の商店で買い物を済ませ一人暮らしには些か大きすぎる古民家造りの我が家に帰ってきた頃には日も大分傾いてきたというのに流れる汗が下がらない気温を物語っている。
ただいま、と思わず言ってしまうのはただの癖だ。勿論返事を期待しているわけではないのだが、
「おかえりー遅かったね先生」
「…何故居る」
居間で足を投げ出して座っている少女はこちらに背を向けて縁側をぼやっと眺めている。年の近い美和やタマに比べて色白の素足はこの島では浮いて見えるのだろう。俺の邪な視線に気づいたらしい彼女はひょいと立ち上がるとこちらを振り返った。
「ごはん、作ってあげようと思って」
「ん?それは有り難いが…お前料理できたっけ」
「先生よりはね」
「そうかよ…というか何でまた」
「うん?」
少なくとも彼女と出会ってから今まで、俺が彼女の手料理に与ることなど無かったし、そもそも彼女が家事らしい家事をしているところも見たことがない。此処にきては俺の夕飯の郷長の奥さんの料理を摘んでお茶が飲みたいだの甘いものが食べたいだのとぶうぶう文句を垂れる姿しか思い当たらなかった。
「今日で、最後だから」
「…あー…帰るのか?…東京」
「うん、これ以上高校休めないし」
「そう、か」
「うん」
やけに表情の無い顔で彼女は頷くと、ようやくにこりと口元を緩めた。それが笑顔になっていないことに彼女は気付いているだろうか。俺は気の利いたことなど何も言えなくて結局、元気でな、という常套句だけが不自然に明るい声で紡がれて、ちぐはぐな空気の中へ落ちて行った。彼女の嫌に小さな頭を撫でようとした手が、空中で彼女の両手に捕らわれる。
「先生は、ヘタレだ」
「なにおう」
突然そんな風に貶されて顔をしかめると彼女はもう一度、先生はヘタレだよと呟いた。揶揄するような色はなく、彼女が必死に噛みこらえているものを俺は知る。
「…言ってもしょうがないことを言わないだけだ」
「大人だから?」
「そう、大人だから」
「じゃあわたしは大人になりたくないな」
捕らわれた右手に彼女の五指が絡んでわずかに力が込められた。それを振り払うことなんてとてもできなくて、俺はその低い体温を手の中に閉じ込める。
「…わたしは先生の言うことを拒めないのに」
「だからだ」
「やっぱり先生はヘタレだ」
「ああ。いいよそれで」
お前を縛って後悔させてしまうくらいなら、それでいい。後悔されてしまうことを怖がってお前を手放す俺は、きっと確かにお前の言う通り意気地がないのだから。甘んじてその称号を享受しよう。

ゆっくりと落ちて行く夕日のなか、彼女が涙を流すことなどなくて、島が最後の夜を迎えるまで、俺は彼女の冷たい手のひらをただ一心に握っていた。


120529 彼女は異国の海に似ている
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