ながい夏休みとは無縁になって久しいわたしたちにとって、今日は土日でも祝日でもない唯の平凡な夏の終わりの平日だった。今日という日が持つ意味はあまりに稀薄ではあるけれど、朝起きたらなぜかいてもたってもいられなくなって、幼馴染を半ば無理やり引きずり見たこともない場所へ行く電車に飛び乗った。
わたしのあまりの形相に、あるいは今日という日が持つ稀薄な意味に、何かを感じ取ったのか、強引に連れ出されたのにも関わらず、彼は電車が動き出すまでなにも言わなかった。

やがて電車は名前も知らない駅に止まり、終点のアナウンスに押し出されて、わたしと静雄はちいさなプラットホームに降り立った。無人の駅に改札は無く、わたしは静雄の分も引き取って、行き場をなくした切符たちをそっと財布の隅に忍ばせた。出口と呼ぶべき場所はゆるやかな下り坂になっているホームの両端だけで、その先には荒く舗装されただけの道が延々と連なっているのが見えた。電車の後ろ姿がちいさくなってはじめて、蝉の声が池袋の何倍も聞こえるのに気づく。
「どうしようか、静雄」
「どうするって」
「どこに行こう」
「もうすでに遠くに来てるけどな」
「じゃあ誤差だね」
「誤差?」
「ここからどこに行こうと、誤差の範囲内」
そうだな、と答える静雄の声が軽くなった。我儘を行って連れてきたのはわたしなのだから、静雄には変に罪悪感や責任を感じてほしくはない。
気持ちを軽くしたらお腹が空いているのに気がついた。まずは、本能のままに動こう。

駅から少し歩いたところにあったちいさな商店街のなかでお蕎麦やさんを見つけてお昼を済ませた。狭いけれど小綺麗な店内は思いのほか冷房が効いていて、わたしは温かいきつねそばを注文した。傍の小皿にお稲荷さんがふたつ、ちょこんと鎮座している。しっとりと湧き立つ湯気のむこうで静雄はつめたい天ざるそばを啜っていた。細身の体で静雄はよく食べる。それがあの人間離れした力の源かもしれないと、貧弱なわたしは彼の真似をしてそばをもりもり口に入れた。
「お前、そんなに腹減ってたのか」
わたしの大食らいを勘違いした静雄が、自分の分のお稲荷さんをひとつ、わたしの方へ寄越してくれる。静雄は優しい。だからわたしはその優しさに甘えて、ささやかな逃避行の相手に彼を選んだ。静雄がそれを拒否しないことを、知っているから。

お腹を満たしたわたしたちは、お店の女将さんが教えてくれた展望台へ向かうことにした。ここらへんはなんにもないけど、あの展望台だけは私らの自慢なのよ。かっぽう着のよく似合う女将さんはそう言って目尻にしわを寄せて笑った。結婚してこの土地にやってきたという彼女は、ここでの毎日をちゃんと愛しているのだろうなと、その笑顔を見て思う。幸せな笑顔だった。
お店を出ると陽射しは少しましになっていた。相変わらず蝉の声は忙しいけれど、池袋にはもういない彼らの鳴き声は、夏の真ん中に帰ってきたような気がして懐かしささえ覚える。わたしと静雄は残暑の太陽にじりじり焦がされながらその中を歩いた。長いだらだら坂の向こうに、のっぽの白い展望台が地面から昇る熱でゆらゆらと揺れて見える。
途中、駄菓子屋さんを見つけた静雄がそわそわし始めたので、その手を引いてお店に入った。色とりどりの飴玉やチョコレートはどれも懐かしくとても魅力的だったけれど、結局暑さに負けたわたしたちはアイスを選んで、店先の青いベンチに並んで座って食べた。長い足をぽんと投げ出して座る静雄はソーダアイスの冷たさにすっかり虜になっている。よく食べるなあとそれを眺めながら、わたしも負けじとチョコミントのアイスバーをかじった。
やがて店先でアイスを食べている大人ふたりを見た小学生たちが、引き寄せられるみたいに次々お店にやってきたので、狭い店内はたちまち大繁盛になった。てんてこまいの店主にぺこりと頭を下げて、ベンチから立ち上がる。最後のひとくちを飲み込んだ静雄は空のアイス棒を見て首を傾げていた。
「当たんねえな」
「うん、わたしも」
そういえば大人になってから当たり棒にはめっきりお目にかかれていない。きっとアイスの神様は子ども贔屓なんだろう。大人になったわたしたちは、長い坂をまた、昔のように並んで歩く。

展望台はちいさな丘の上にあった。真っ白に見えた外壁は横長のタイルが敷き詰められていて、まるで白いれんが造りの塔のようだ。
「意外とでかいな」
「ほんとだ」
もちろん普段見ている東京タワーやスカイツリーはおろか池袋のそこらへんのビルにも及ばないくらいの高さなのだろうけれど、小高い丘のてっぺんにたったひとつ悠然とそびえ立つそれは、何だかとても大きく見えた。静雄も同じに思ったようで、感心した顔で白い塔を見上げている。
塔の上の展望台へは外壁をぐるっと一周している階段を使った。
「静雄、パンツ見ないでよ」
「お前スカートじゃないだろそれ」
「見えたら静雄が困るかなって」
「俺はお前がそこから落ちてくる方が困る」
わたしなんか軽々受け止めてしまうくせに、自分より三段くらい上にいるわたしを指差して静雄は言う。てっぺんはもうすぐそこだ。カンカンカン、とかかとを鳴らして階段を登りきって振り返れば、白い螺旋と緑の丘、低く見える空のさっきよりもずっと遠くに静雄が見えた。
それを眺めているうちに静雄が追いついた。広くはない展望台に、ふたりで並んで眼下を見下ろす。
商店街や駄菓子屋さんが10円玉ほどのおおきさにぽつりぽつりと見えた。ひとつずつを目で追っていると静雄がこちらを見ないまま聞く。

「マリッジブルーは、もういいのか」
「…気づいてたの」
「まあな。式、たしか明日だったろ」
「たしかって。ちゃんと静雄も出席してよね」
うん、だか、ああ、だかよくわからない返事を寄越す静雄の横顔は傾き始めた太陽に照らされてほんのりと朱が差している。やっぱり静雄には見抜かれていた。今日という日の意味も、わたしがその相手に静雄を選んだ理由も。
「別に理由なんかないの」
「そんなもんか」
「うん、そんなもんだよ」
「わかんねえけど、まあ、お前の気が済むなら、俺はそれでいい」
「強いて言うなら、」

貴方と見たい夏があるということ。結婚を決めた相手でも、他の誰でもなく、貴方と、静雄と、この夏の終わりを見たかった。悲しみでなく、嘆きでなく、諦めでなく、今までのような夏は、もうわたしにはやってこないから。その終わりの日には、静雄と一緒にいたかった。これから先も、夏を生きていくために。

「明日も、こんなお天気の日だったらいいな」
「お前、雨女じゃなかったか」
「…もう治ったもん」
「雨女って治るのかよ」

静雄が鼻の頭にしわを寄せて笑う。逃避行のち追い縋る夏。終着点は名前も知らないはじっこの町。夕日は水平線に傾いて、ほんのわずかに次の季節のにおいがした。

「でもまあ、大丈夫だろ」
「そうかな」
「…明日はお前の日だから」
「静雄」
「ん」
「ありがとう。だいすき」

すこし困った顔をする彼が愛しい。いつか言いそびれたその言葉で、わたしはこの夏を終わらせた。宝石みたいにきらきらとした逃避行も、これでお終い。夜をひとつ眠れば、わたしはあの人のものになる。


- 貴方と見たい夏がある

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