三門市への近界民大規模侵攻が一応無事に終結を見てから一週間とすこし。大学の休講がようやく解除され、わたしたち大学生にもいつもどおりの日常が訪れ始めていた。けれどもすぐに異変に気がついた。いつも講義室で見かける顔見知り何人かが、いつまでたっても姿を現さなかったのだ。狭いコミュニティの中、噂はすぐに広まり、いやでも耳に入る。
いなくなった子、ボーダーだったんだって。今回の大規模侵攻、一般市民に被害は無かったんでしょ?なのに行方不明ってことは、近界民にさらわれちゃったボーダー隊員だったってことなのよ。へえ、あの子ボーダーだったんだ。まだ訓練生だったからあんまり人には言ってなかったみたい。
噂、うわさ、ウワサ。大学中に蔓延するしろい霧みたいな噂の幕に、すこしうんざりする。例の記者会見からこっち、三門市内はその話題で持ちきりだったし、ボーダーへの入隊志願者も増えたという。大学構内でも今までになくボーダーへの関心は高まっているようだった。訳知り顔で言って聞かせる人たちほど、きっとボーダーとは無関係の一般市民なのだろう。わたしにはボーダーの知り合いはいないから本当のところはわからないけれど。
さて、今日の講義はこれで終わりだ。バイトもないし飲み会の予定もない。このまま一人暮らしの部屋に帰ってもよかったけれど、何となくあのしんとした暗い部屋に帰る気分ではなくて、ふらふらと歩くうち、たどり着いたのはゼミの研究室だった。今日はゼミの予定もないから、おそらく誰もいないはずだ。うちのゼミは適度に熱心で適度にゆるい。

「……諏訪さん?」
けれども、適度にゆるいはずのゼミ室には、一つ上の先輩がひとり、窓際で彼のトレードマークの煙草を口にくわえてぼんやりと外を眺めていた。ひと目で彼のそれとわかる派手な色のツーブロックの後ろ頭が、わたしの声に反応してゆっくりとこちらを振り返る。彼の顔を、ずっとひさしぶりに見たという気がした。たかだか数日ぶりのはずなのに。
「めずらしいな、2年も今日はゼミないだろ」
「うん。何となく、時間つぶし。諏訪さんは?」
「…俺もそんなとこ。煙草吸えるしな、ここ」
「いちおう構内全面禁煙だよ」
「いちおう、な」
うちのゼミは、教授自身がかなりの愛煙家ということもあり、禁煙ブームの昨今にあってはめずらしく喫煙者に優しくできている。ゼミ室のそこかしこに堂々と置かれている大小さまざまな灰皿、常に全開の大きな窓は空気の回りを良くするのにそこそこの働きをしたし、おまけのように小さな流し台にはちゃんと換気扇がついている。うちのゼミ室が通称・喫煙ルームと呼ばれるゆえんだ。おかげで毎年煙草が吸えるからという理由でこのゼミを志望する学生も多いらしい。かくいう諏訪さんだってきっとそうなのだろう。彼の学習態度は決して優等生とは言えないものだ。適度に熱心で適度にゆるい。うちのゼミのゼミ訓を地で行っているような人だった。
「諏訪さん、ちょっと元気ない?」
「あ?そうか?なんでだよ」
「だってなんか変。諏訪さんおとなしい」
「俺がおとなしくちゃ何か悪いかよ」
「うん、何かっていうか具体的に気持ちが悪い」
「テメエそれが先輩に対する態度かコラ」
それまでわたしを避けるように遠い方の手で煙草を持っていた諏訪さんが、眉間にしわを寄せながらいっぱいに吸い込んだ煙をこちらに向かって吐き出してくる。咳き込みながら薄目でのぞいた彼は、愉快そうに笑っていた。うつむき加減に喉を鳴らして笑う、いつもの諏訪さん。諏訪さんが吐き出した煙は、好き勝手にわたしを燻したあと、何事もなかったように空気にとけていった。諏訪さんの匂い。諏訪さんの吐き出す煙は、まるで諏訪さん本人のようだ。包まみこんで、好き勝手に染み付くのに、決してあとには残らない。はじめから無かったみたいにいつのまにか消えてしまう。
「べつに元気がねえわけじゃねえよ。ちょっと、一息つきてえなって感じだ」
「ボキャブラリーが貧困すぎて、よくわからないです先輩」
「お前そーゆーときだけ敬語使うのヤメロ」
椅子を引っ張ってきて諏訪さんの隣に並んで腰かけると、諏訪さんの手が伸びてきてわたしの頭をぐしゃぐしゃにかき混ぜた。制裁のつもりなのか、彼の指にわたしの髪が絡まるほど何度も何度も。両手でどうにか彼のおおきな片手を捕まえる。諏訪さんがくちを開く気配がないので、ゼミ室は息をひそめたように静かになった。換気のために全開にしている大きな窓から、さっきまでは気にならなかった外の喧騒がたちまち漏れ入ってくる。高校のとき化学で習った浸透圧を連想させた。ざわめく場所から静かな方へ。平衡状態に達するまでゆるやかにつづく拡散の原理。
わたしたちはわたしの頭の上で髪とお互いの指を絡ませ合いながらそれを聞いていた。時折うごく諏訪さんの指は、そのたびにわたしの指の節をなぞり指又を撫でて気がつけば包み込んで深く繋がれていた。窓枠に肘をついている方の手にはもうだいぶ短くなった煙草が細い煙を伸ばしている。

「諏訪さん」
「んー?」
「平和だね」
「…そーだな」
「同じ講義受けてた子が、いなくなってた。ボーダー、だったんだって。…全然知らなかった」
「隠してたのか、そいつ」
「命をかけて街を守ろうとしてる人がすぐ近くにいて、なのにわたしはそんなことも知らずにこんな風に平和だねって笑って生きてた」
「……それが普通だろ」
「…そうなのかな」
諏訪さんがわたしの頭から手を下ろした。絡まったままの指は一緒にわたしの手も連れて行く。椅子の下、しずかに繋いだ手は、何だか世界中の秘密のようで、誰に見られているのでもないのに、知らないふりをしなければいけないような気になった。諏訪さんもなにも言わない。黙って窓の外の景色を煙に巻いている。
わたしはボーダーのことをよく知らない。隊員に知り合いもいない。だからわたしには平和な場所で想像をするしかできない。
「なんつー顔してんだお前は」
「痛いいたい、諏訪さん痛い」
諏訪さんが繋いだ手に思いきりの力を入れたので良からぬことを考えていた頭の巡りはおかげですこし鈍くなった。
「さっきの話」
「うん」
「それでいいんじゃねえの。一般人が平和を当たり前だと思えるってのは、ボーダーがちゃんとこの街を守ってるって証拠だろ」
「それでボーダーの人が怖い思いをしたり、怪我をしても?」
「……そんなもん、始めっから覚悟してる」
「そう、なの?」
「あ、いや…たぶん、な」
諏訪さんが言葉を濁す。諏訪さんは嘘や誤魔化しがとても苦手で、彼がそれをするとき煙草の先がみるみる灰になる。彼の嘘は呼吸に出るのだ。誠実さを煙草の煙で隠す愛しいひと。
ゼミ室は、世界中から隠されたひみつの場所みたいにひっそりとしていた。ふたりでいるのにひとりとひとりのようなわたしたちは、でもきっとこれ以上は近づけない。わたしは諏訪さんの隠しごとをきっといつまでも知らないままだし、諏訪さんもその方がいいと思っているから言わないのだろう。

たとえば、わたしが何もしらないままでいることが、彼を傷つけているのだとしても。


遠くの方でサイレンが鳴るのが聞こえる。椅子の下でつないだ諏訪さんの手が、一瞬怯えたようにふるえた気がした。異世界のゲートは開かない。わたしはなにも知らないままだ。ふたりでいるのにひとりとひとり。浸透圧のゼミ室は、わたしと諏訪さんの呼吸で満たされる。
サイレンが完全に鳴りやむまで、わたしは彼の大きな愛しいその手を黙って握りしめていた。


- 終末は小指でむすばせて
キューブ化がトラウマになりそうな諏訪さんと何も知らない女の子

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