昔から、我慢は得意な方だった。褒め上手の母親と厳格な父親を持ったせいもあって、この国の人間にしてはえらくお人好しな性格に育ったものだと自分でも思う。我慢は美徳。そんな言葉は、使い古されたモップより無用の長物だったのだ、この自由の国では。そして3年前からは尚のこと、我慢は美徳ではなく、正しくもなく、霧にくすぶるこの街においてはただ自分の寿命を刈り取るだけの死神の鎌に成り果てた。だのにわたしは、わたしを褒める母親などとうにいなくなったこの世界で、我慢強くもどうにか生き残っている。幼少期の刷り込みほど、やっかいで手強いものはない。それは、わたしにとっては母の言葉であり、父の背中だった。
いわく、筋金入りの我慢強さは、死神をも遠ざける。

「…聞いているかい、絢音」
「あ…ごめんなさい」
「どうしたの、ぼうっとして」
「いえ、なんでもないんです。スティーブンさん」
すこし前に馴染みのジャズバーで知り合ったスティーブンさんは、穏やかな笑みを絶やさない絵に描いたような紳士の物腰だけれど、左の頬に走る大きな傷と時折醸す氷のように冷たい空気が、彼が堅気の人間ではないことを物語っている。彼との出会いが偶然ではなかったのだと悟ったのは、彼と飲んだ夜、手帖に挟んでいた名刺と仕事用のメモに使っていたページが知らないうちに破かれて失くなっていたからだ。彼がどんな職業の人間かはわからないけれど、オフィスの末端にいるわたしから得られる情報など彼にとっても大した価値はないにちがいない。それでもスティーブンさんはその後もあのバーに現れては特に話をするでもなく演奏に耳を傾けながらわたしの隣でお酒を飲んでいたし、わたしはわたしで彼の企みに触れてなお彼を拒むでもなく都合の良い女のふりをしていたから、バーのマスターがわたしと彼の仲をしきりに勘繰るのも仕様のないことだった。

「でも、めずらしいですね。スティーブンさんがオフィスに来るなんて」
「ちょうど近くを通ったからね、たしかこの辺りだと聞いていたし」
差し入れ、と言ってスティーブンさんが差し出したのはダンキンドーナツの紙袋だった。あそこのドーナツはわたしには甘すぎるけれど、コーヒーの味は好きなのだと、前に話したような気もする。中身をのぞくと、思ったとおりプレーン味のドーナツとトールサイズのコーヒーの紙カップがふたつ、袋の底に並んでいた。
平社員のわたしに与えられた部屋はそう広くはない。ワークデスクと本棚を置けばそれだけでいっぱいになってしまう。その小さな部屋に、スティーブンさんと二人きり。彼にとってはこれ以上ない好機だろう。わたしが持ち歩く情報のあまりの貧困さにいい加減しびれを切らせたのかもしれない。もっとも、スティーブンさんが目的を持ってここへやってきたのだとしても、彼の求めるものが何かわからない以上、わたしにはどうすることもできないが。
「それで、さっきの答えは?」
スティーブンさんがコーヒーにくちをつけながら問うてくる。ファストフード店の使い捨てカップなのに、その姿はとてもスマートだ。彼はその優男の見てくれで、いったい何人の女性を使い捨ててきたのだろう。わたしと彼の時間は有限だ。彼がわたしから目的を得るまでの。
「絢音」
「あ、えっと…ごめんなさい何の話でしたっけ」
「今日はいっそうぼんやりしてるな、君は」
「いっそう?」
「そうだろ?」
「…はい」
わたしがむくれるとスティーブンさんは可笑しそうに喉を鳴らして笑った。彼の魅力は深い。ただの優男の顔をして、時々とても意地悪なことを言うし、わたしが困ったりすねたりするのを見てとても楽しそうに笑う。そのたびわたしは彼に惹かれてしまわないよう、踏みとどまる。堕ちてしまえばきっといいことなんて、何もない予感がするから。
我慢は美徳。
筋金入りの我慢強さは、死神をも遠ざける。
そう、わたしは我慢強く、あるべきだ。そうやってこの3年間、この街で生き残ってきた。

「来週の日曜、空いてるかって聞いたんだ」
「日曜…ええっと、はい、空いてます」
手帖を開いてスケジュールを確認する。空欄の日曜日から目をあげてスティーブンさんを見たけれど、どうやら彼はこの手帖にもう用はないらしく、コーヒーを飲みほしてニコリと笑う。
「オーケー。君が好きだって言っていたジャズバンドのライブがあるんだ。一緒にどうかな」
ジャケットの内ポケットからチケットを二枚出してひらひらと振る。それは、わたしが思い描けるかぎりの、最悪な結末への招待状のようにも見えた。
「あの、わたし」
「待って」
何かを察したのかスティーブンさんがわたしの言葉をさえぎった。そうしてまっすぐこちらへ歩んでくる。氷をおもわせる冷たい色の瞳に思わず後ずさった背中が、小さな部屋の壁にぶつかった。衝撃で、すっかり冷めてしまったコーヒーが、紙カップの縁から跳ねて、カーペットに茶色い染みを作る。その間にもスティーブンさんは距離を詰め、茶色い染みを革靴で踏みつけ、壁と共謀してとうとうわたしを動けなくしてしまった。目の前には鮮やかな色のシャツとネクタイ。見上げた彼の顔はいつもよりずっと近い。
「やっぱり今日の君は変だよ、絢音」
ため息みたいにそう吐き出したスティーブンさんは、コーヒーを持っているわたしの左手を、手首を掴み思い切り伸ばしたところで壁に縫いつける。紙カップが重力にしたがって落ちていった。空になった手のひらにスティーブンさんの冷たい手のひらと長い五指が這ってきて、ぬるりと絡みつく。背中がぞくぞくする。這い登るのは快感の熱だ。
「スティーブン、さん…わたし」
「なんだい?」
「わたしもう、スティーブンさんにあげられるもの、何も持ってないです。スティーブンさんだって、わかってる、でしょう?なのにどうして」
スティーブンさんは、ハッとした顔をして、わたしと絡めていない方の手のひらで自分の顔を覆った。彼にとって、わたしが彼の行動の意味を知っていることは予想外だったのだろうか。
「順番を間違うのは本意じゃないんだけどな…」
スティーブンさんがぽつりとつぶやいた。その真意を尋ねる間もなく彼の傷のある綺麗な顔が近づいてきて、くちびるがほんのりと重ねられた。くちづけて、離れる最後の最後まで彼を感じるようなキスだった。スティーブンさん、と名前を呼ぶと鼻先で留まっていた彼に上唇をちろりと舐められる。わたしを拘束する体温は低いのに、その吐息や舌やひとみは熱を持ってひどくあつかった。
順番を間違う、とはどういうことだろう。色落としの戦術は、件のライブの場で使うつもりだったんだろうか。
目の前がくらくらした。いっそ開き直ったスティーブンさんが、自分の企みを洗いざらいぶつけてくれれば楽になるのにとすら思った。どこまでも底が見えない彼の腹を探ることは苦痛でしかない。
それとも、またいっそ考えることをやめて、彼の罠に捕らわれたふりをしてみようか。少なくとも、わたしの本能の隅っこはそれを望んでいる。たとえ彼にどんな思惑があろうとも、彼に求められたいと。そしてそれに応じたいと、わたしは望んでいる。

「…絢音。僕は嘘をついていた。謝るよ、ごめん」
「……」
とうとうスティーブンさんはそう言って頭を下げた。とはいえ、彼は未だわたしを壁に縫い付ける手を緩めはしないし、さらに言えばいつのまにかわたしの両足の間には彼の足が割って入ってきていて、長くはないタイトスカートの裾をさらに持ち上げるようにひっかけていた。
スティーブンさんの下げた額は、わたしの額のすこし上に、こつりとやさしく当たる。
「嘘を、ですか」
いよいよスティーブンさんの思惑の核心に触れる時がきた。わたしは、これ以上彼の腹をむやみに探る必要がなくなることに安堵し、また、そうなれば彼はわたしの前に二度と現れなくなるかもしれないことを危惧した。どちらにせよ、わたしは彼に求められたいという自分の本能の要求に応えられなくなる。
それでも、昔から我慢は得意な方なのだ。
何も問題はない。
はずだ。

「近くを通ったなんて言ったけれど、あれは嘘だ。本当は君に会いに来た。重たく思われるのが嫌でくだらない嘘をついたんだ、ごめん」
スティーブンさんの告白は、わたしが身構えていたものとはすこし違っていた。彼はまだ、この関係を続けるつもりらしい。安堵と落胆が同時にやってくる。
「そう…ですか。それは、嬉しいです。とても」
「…そのわりに浮かない顔だね」
「そんなこと」
「…君は難しい。君を前にすると、僕は今までのツケが全部回ってきたんじゃないかとさえ、思うよ」
スティーブンさんの言葉は、なぜかとても淋しくわたしのこころを打った。それが彼の本音だったらいいのに。下げた眉のかなしみが、本当だったら、いいのに。

スティーブンさんは、わたしの頬にひとつキスをして、体を離した。彼に触れられていたところが内側から冷たい。血液に氷を流し込まれたみたいだ。
「じゃあそれ、渡したよ」
さっきまで彼の五指が絡み付いていた手のひらを指されて見ると、シャツの袖口にチケットが一枚挟まっている。
「スティーブンさん、わたし」
「待ってるから」
「……」
「待ってる」
有無を言わせない口調で、だけれどもスティーブンさんは笑っていた。それは淋しくも悲しくも、何か覚悟を決めた笑顔にも見えた。ひらりと手を振って、スティーブンさんが部屋を出て行く。ドアから漏れ入る外の空気のぬるさに、部屋の温度がなぜかぐっと下がっていたのに気付いた。
ドアを閉めカーディガンを羽織り、部屋から何も無くなっていないのを確認して、わたしはようやく今日はじめて呼吸ができたような気がしていた。デスクには、何も無くなっていない代わりに、スティーブンさんが持ち込んだドーナツと、それから一枚のチケットがひんやりとわたしを待っている。コーヒーはカーペットを侵す茶色の染みになった。
彼の言葉と顔と温度を、ひとつずつ思いだしてみる。そのどれからも、彼の本当を探り当てられないというのなら、わたしが当てにできるものは母の言葉と父の背中しかない。幼少期の刷り込み。手強く、やっかいで、今のわたしの根幹を作るもの。
この街で生き残るには、死神はあまねく遠ざけなければならない。



プレーン味のドーナツと、空になった紙カップ、それから未だひやりと冷たいチケットをひといきにダストボックスに放り込むと、なぜだかスティーブンさんのあの淋しい笑顔とそっと押し付けられただけの口づけの熱さが順繰りに思い出されて、よくわからないままに涙だけがこぼれた。
どうしてだろう、ずっと我慢は得意だったはずなのに。


眼窩の宝石/スティーブン・A・スターフェイズ
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