頭の奥の方で軽快なメロディが鳴っている。まるでサーカスを思わせるようなそれは、軽やかで妖しく悲しげな旋律で、夢の淵にうずくまるわたしを現実の方へ押しやる。そうして今にも転がり落ちるーもしかしたらもうとうに落ちていたのかもしれないがーというときに、メロディはぱたりと止んだ。
うすぼんやりとした視界だった。光度が曖昧だ。夕暮れか夜明けか、時計を探そうとして、そんなものがわたしの部屋にあるはずがないことを寝ぼけた頭が思い出す。秒針が無欲に時を刻む、あの音が苦手だった。なにかに追い立てられる気がしてならなくて、引っ越してきたその日に部屋中の時計を燃えないごみに分別した。
ガラステーブルの上の携帯を手に取ると、緑色のポップアップがメッセージの着信を軽やかに知らせた。差出人とたった4文字の短い本文が、鈍ったわたしの頭を覚醒させる。この曖昧な光度の正体は、待ちかねた、夜明けだった。

「おそい」
「…うん。ごめん」

出水は換装のままで、朝焼けを背にして立っていた。真っ黒な隊服の輪郭からこぼれる黄金色の閃光は、確かにわたしが待ちかねたはずの景色であり、けれどどこかが決定的に違う気もした。

「どうだった、遠征」
「普通に、きつかった」
「そっか」
「うん。きつかった」

飲み込むようにつぶやいた出水が、それから黙り込んだので、早朝の三門市は音という音をすべて朝焼けに吸い込まれたみたいに息をひそめていた。てっぺんを目指す朝陽だけが、そろそろと這うように冬の空の端をのぼっていく。わたしと出水は、互いの半身がその黄金色できらきらと飾られていくのを、じっと見ていた。

「なんつーか、さあ」
「うん」
「戦争って、こういうことなのかって」
「戦争?」
「うん、戦争」

わたしが聞き返すと、出水はそこですこし笑った。その笑顔は、17の男子高校生がつける仮面にしては、おそろしく不似合いだった。違和感が、ちくちくと痛みを伴ってすこしずつ大きくなる。体の中に押し込められた風船が、ゆっくりと膨らんでいく感じ。内臓が圧し潰されて、息ができない。喉の隙間からかろうじて彼の名前を呼ぶ。

「い、ずみ」
「うん?どうしたの、絢音さん」

出水は、何の躊躇いもなく返事をした。今や、この年下の男が醸す違和感の風船は、わたしの喉元まで膨らみきり、あとは破裂を待つばかりという具合に張り詰めていた。

「出水は、出水は何を、見たの?」

遠征部隊として召集されたことがないわたしにはわからない。出水が近界で、向こう側で、何を見てきたのか。何があって、ーー何を、してきたのか。

はたして出水はまたおだやかを装った笑顔で、ひとつわらっただけだった。

「何も」
「なに、も」
「そ。むこうに居たのはなんでもない、ただ普通に生活してる普通の人たち」
「普通の」
「俺たちとなーんにも変わんねーの」
「それなら」
「うん」
「なんで出水は、そんなに苦しそうな顔をしてるの」

仮面は、あっけなく外れた。出水は顔をくしゃくしゃにして、わかんねえ、と呟いた。何度も、何度も。

「俺、敵じゃない奴を、撃った」
「出水」
「絢音さん俺、人型を…人を、ころしたんだ」
「いずみ。やめて」

いつのまにか出水はまた笑っていた。眉をよせて、今にも泣きそうな顔で、笑っていた。その腕にはA級1位・太刀川隊のエンブレム。ボーダーの正隊員、そのトップチーム、隊長の右腕。出水が背負っているものは、きっと、高校二年生ひとりの背中には、重すぎる。

「ねえ絢音さん、俺、変わったかな」
「…いつもとちがう、とは思った。はじめはね」
「うん、そっか」
「でも、いまの出水は、わたしの知ってる出水だよ」
「ねえ絢音さん、」

出水はもう何度目かもわからないその呼び方でわたしを誘った。強い切れ長のつり目が妖しくきらめいている。頭のなかであの着信音が鳴った。軽やかで妖しく悲しげなサーカス。彼の手をとることにためらいはなかった。さっきまでわたしたちを黄金色に染めていた朝陽は冬のどんよりとした灰色の空に今にも飲み込まれそうに小さくなっていた。

「もし、俺が人をころしても平気な顔でいるようになったら、さ」
「…」
「絢音さんが俺をころしてよ」

繋いだ手のひらを自分の心臓に持っていきながら出水はわらった。どくんどくんとわたしの手を叩きかえすそこには、ばかみたいな量のトリオンと、出水のたったひとつのいのちが、並存している。

「わたしに出水はころせないよ。出水よりずっと弱いもの」
「できるよ。むしろ絢音さんにしかできない。こればっかりは米屋や迅さん、太刀川さんにだってできない」
「わたしは出水を、ころしたくない」
「わかってる。だからもしもの、話」

耳元でささやかれた「もしもの話」は、なぜかひどく妖艶な響きでわたしのなかに刻み付けられた。それから出水は思い出したようにただいまを言って、続いて耳の奥へねじ込むように放りこんだ熱っぽい言葉でわたしを赤面させた。照れ隠しに振り払おうとした手を、逆につよく握られる。ずるい、ずるい。そんなことを言われたら、わたしは、出水がどんな出水になっても、彼から離れられない。逃げられない。なんて、ずるくて、こわくて、悪い、ひと。

「ねえ絢音さん、」

「 貴方が罰になってください 」


出水くん初遠征のおはなし
くじらと夜商人さまに提出
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