俺はそのひとの名前を知らない。彼女が名乗らなかったからだ。名乗らないのを無理に聞き出すのは何だか気が引けて、俺は彼女を記号的に「先輩」と呼んでいた。綺麗な足に引っ掛かっている校内スリッパの色と適当に結んだのが見てとれる制服のリボンの色が、俺のひとつ上の学年を示していたからだ。俺が先輩に話しかけるのはたいてい二人きりの時なので、呼び名が無くてもとくに不便はなかったはずだった。

「赤葦」
「はい」
「赤葦ってバレー部なんだってね」
「なぜそれを」
「わたしのクラスにバレー部いるから」
「そうですか」

先輩は、自分のことはしゃべらないくせに、どこからともなく俺の情報を集めてきては、当の俺に自慢げに披露する。しかし何を隠そう俺自身のことなので当然ながら特に目新しさも無く、俺は口調のわりにあまり表情の変わらない先輩の顔を、椅子の上に立てた両膝に肘をついて観察した。

「先輩は」
「うん?」
「先輩はなんでいつもここにいるんですか」

先輩はのんびりと「そうだねえ」と言って本のにおいが染み付いた古い図書室をぐるっと見渡した。初めて先輩を見つけたときから、俺は先輩をここ以外で見かけることがない。だのに先輩が本を読んでいるところはいちども見たことが無くて、俺を捕まえて話相手にしているか、机の上に組んだ腕につっぷして寝ているかのどちらかだ。

「赤葦は学校、好き?」
「え、まあ。部活もありますし」

はぐらかされたのかとも思ったけれど、先輩は満足げに「赤葦はバレー部だもんね」とさっき披露したばかりの新情報を確認するみたいにつぶやいている。くちの動きに合わせて暗い茶色に染められた先輩の髪が肩の上でなんだか淋しそうに揺れた。俺の視線に気づいた先輩が顔をあげて髪を耳に掛ける。

「わたしね、ずっと短かったんだ髪」
「?そうなんですか」
「うん、赤葦とおなじくらいかなあ」
「なんで伸ばしてるんですか」
「もう短くする必要がなくなっちゃったから」

そこで先輩は制服の上から自分の肘のあたりをそっと撫でた。淋しそうな目。悔しそうにかみしめたくちびる。去年引退していったふたつ上の先輩たちが最後の試合でしていた顔によく似ていた。そして俺は気付く。先輩がいつも座っているこの席からは、外のグラウンドの様子がよく見えること。

「大した怪我じゃなかったの。運動はできないけど普通に生活はできるくらい」

けれどそれが、部活をする者たちにとってどれだけ大きなことか、俺にもよくわかった。だから何も言えなかった。椅子の上で両の膝を抱えてうつむきかげんの先輩をのぞきこむ。目だけでこっちを見た先輩は、すこしわらってみせた。小さなかなしい笑顔に、俺は心臓を掴まれたみたいに息が詰まった。

「ここは静かだよね」
「そうですね」
「あそことは全然違う。こんなに近いのに」

先輩が指した先では、体育の授業中の一年生が元気に走り回っている。歓声と笛の音がしずかな図書室に流れ込んだ。先輩が俺と同じように椅子の上に体育座りをする。俺は、紙のにおいのする図書室の空気を吸いこんでまた先輩を見上げた。

「俺は、もう来ない方がいいですか」
「うん?どうして」
「俺が運動部だって知って、嫌なことを、思い出しませんか」
「そうだね、はじめはそう思った」

先輩の手が伸びてくる。リストバンドの日焼けのあとが残る、綺麗な手。その手が、しょぼくれる俺の頭をぽんぽん、と撫でた。

「でも、赤葦といるのは嫌じゃないよ」
「それは、何と言うか、…よかったです」

同じことを思うことが、こんなにもくすぐったい嬉しさだなんて知らなかった。俺は背中を丸めて腕の中に顔をうずめた。赤葦照れてる、と先輩が笑う。今度のはさっきみたいなさみしい笑い方ではなかった。

「短い髪の先輩も、見てみたかったです」
「今より美人だよ」
「じゃあ今度写真見せてください」
「ごめん、うそです」

静かな図書室が、俺たちの呼吸でいっぱいになる。ふと、先輩の名前を知りたい、と思った。記号でなく、先輩を名前で呼びたいと思った。先輩のことだから、真正面から聞いてもきっとはぐらかされるのだろう。どうやって聞き出そうか。はやく、その名前を呼びたい。呼んで、先輩がまっすぐに返事をするのを想像して、俺はまた自分の腕のなかにもぐりこんだ。先輩が、俺の首筋をつついて笑っている。窓の外のグラウンドからは、相変わらず歓声と笛の音が俺たちの淋しさを試すみたいに鳴っていた。



即興二次創作参加作品/60min

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -