月が薄い夜だ。昼間は春の風情に香る我が本丸も、この時間になればただひたすらにひっそりと闇の中に身を置く。早寝の短刀たちはもちろんのこと、晩酌にいそしんでいた大人たちも今はようやく引き上げて床に就いた。宴会場になっていた大部屋は散らかり放題のままだった。次郎と鶴丸が面白がって燭台切を酔い潰してしまったせいだ。片づけは明日の朝にしようと決めて、ひどい有様の大部屋から目をそらすようにわたしは縁側へ移動した。腰をおろして濡れ縁の途中にある柱にもたれかかると、ほろ酔いが時間差で回る気がした。おすそ分けと称して押し付けられた猪口では名残の酒がわずかな月明かりをその水面に映している。その様子がとても綺麗だったから、飲む気もないのに徳利を傾けて並々と酒を注ぎ入れた。

「おや。めずらしいですね。貴方が酒とは」

闇の中からふわりと香るように声がした。振り返ればあざやかな天色の髪が春の夜に埋もれている。この男は普段から、どこか輪郭が曖昧なところがあった。
「一期。ずいぶん遅かったね」
「申し訳ありません。道中で少々邪魔が入りました」
「他のみんなは」
「全員無事に帰っております。皆自室へ向かいました」
「それは何より。遠征お疲れ様」
「主たちは酒盛りでもなさっていたのですかな」
一期が大部屋を覗きながら朗らかに笑う。それから部屋に入っていって、床に転がる皿や杯を片付けようとするのでわたしはそれを声だけで止めた。
「そのままにしておいて、一期。遠征帰りで疲れているでしょう」
「しかしこのままでは、明日の朝餉がとれませんぞ」
なおも一期は笑う。その輪郭は月明かりの助けを失くしてますます曖昧さを増し、貼り付けられたような一期の笑顔と唯一あざやかさを失わない髪色だけが、薄闇の中で浮いて見えた。わたしはこうなった一期一振が苦手だった。良き兄であることに努めようとするあまり、自らの意思を殺してしまう。だのに彼の本質はといえば、実はとびきり自尊心が強く、弟ら以外には抱く情を持ち合わせない。穏やかな仮面から滲み出る真実の彼は高慢で冷徹だ。

「一期。今は弟たちの前ではないよ、良い兄を演じる必要はない」
「…それは、どういう意味でしょうか」

穏やかを装った一期の笑顔がすっと鳴りを潜め、細められたひとみが冷たくわたしを見下ろした。粟田口吉光が唯一の太刀。つまるところ彼の矜持のすべてはそこにあった。同派の短刀や脇差たちを弟として扱うことで保たれる、太刀「一期一振」としての強烈な矜持。
「お前は、本当はそういう顔なのね、一期」
「…貴方は意地悪なお人だ」
初めて彼の顔を見たという気がした。曖昧だった輪郭はくっきりと端整な顔立ちを描き、笑みのない瞳は、冷たく美しかった。磨りあげられ、焼尽し、再刃されても喪われぬそのうつくしさは、強烈で冷ややかな矜持に支えられていたのだと知る。
「…一期」
わたしは彼に魅入られていた。濡れ縁に上がって誘われるように彼の方へ足を伸ばす。ことり、という陶器の軽い音に続いてそれより少し重い音がした。冷たい感触が裸足の先から這い上ってくる。縁側の板張りは猪口と徳利から溢れる酒でひたひたと濡れていた。
「主、お怪我はありませんか」
一期が近づいてきて、手袋のまま濡れた板張りをさっと拭った。その所作は優雅で気配りに満ちたいつもの一期一振だ。
「…大丈夫。ありがとう」
「足も濡れてしまいましたね」
「平気よ、自分で拭くから」
「主のことですから、着物で拭うつもりでしょう。燭台切殿に叱られますぞ」
「……布巾を持ってきます」
「いいえ、それには及びません」
一期は濡れた手袋の先を噛んで両手のそれをするりと脱いだ。そうしてわたしの前にひざまずくと、酒に濡れたわたしの足を持ち上げて裸足のかかとを自分の額の前でうやうやしく掲げてみせた。わたしは柱に背中を押し付けて、足の付け根まで着物の裾が捲れ上がった格好をさせられる。
「…一期」
いつものように声だけで制するつもりで彼の名前を呼んだわたしを、一期は無視した。仮面の奥に冷たいひとみを秘めようとも、今まで一期がわたしに対して、主と刀剣という主従関係を踏み越えたことはなかったというのに。なるほど、彼の怒りの沸点は自尊心を傷つけられるところにあるらしい。
一期はわたしの膝裏まで手を伸ばして、内腿を伝っている酒の雫に顔を近づけるとおもむろに舌を這わせた。あたたかなその温度とは裏腹に、刃をあてがわれているような鋭さに思わず背中がふるえる。少しずつ付け根へと下がってくる一期の姿勢に合わせて、彼の羽織る紋入りの外套が肩口から垂れ下がりわたしの足をくすぐった。
腿を濡らしている酒をすっかり舐めとってしまうと一期は、今度はわたしの膝をすこし折らせて裸足のつまさきを自分の鼻先へと持っていった。嫌な予感に足を引こうとすると強い力で抜け目なく押さえつけられる。あっと思う間もなくまずは指先に口付けされ、その次のまばたきの後にはもう、一期の形の良い唇がわたしの裸足の指先を食んでいた。
「一期」
名前を呼ぶと、いちど指から口を離して一期は今度こそ返事をした。わたしの皮膚が一期の口の中に吸い付き離れがたく思う音が、ちゅ、と鳴る。こちらを見上げた一期の黄金色のそのひとみは、酒のせいかひたりと濡れていた。
「弟たちがいまのお前の姿を見たら、なんと言うだろうね」
「貴方がおっしゃったのですよ、今は弟たちの前ではない。良き兄でいる必要はないと」
「そうだったかしら」
「貴方はやっぱり、意地悪ですな」

一期は眉を下げて笑った。かなしげにも虚ろにもみえるその笑顔は、けれどくっきりと美しい輪郭を描いている。わたしは今のお前の方がずっと好きよ。その言葉を飲み込んだのは、主と刀剣の主従関係を踏み越えてしまうのが、怖いからだ。越えればきっと、わたしは彼に魅せられそして食われる。


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