わたしよりもずっと綺麗なその指が好きだった。目を伏せたとき頬に影をつくる長い睫毛が好きだった。見つめあった後にくちびるからこぼれるみたいにわたしの名前を呼ぶその声が好きだった。彼の何もかもが好きだった。まだ五分咲きの桜の下で、わたしが別れの言葉を押し付けたときの彼の驚きとかなしみに侵されたその瞳さえ、わたしは好きだった。

なぜだ、と緑間くんは聞いた。すこし古めかしいけれど綺麗な彼の言葉づかいも好きだった。その胸では真っ赤な造花が誇らしげに咲いていた。緑間くんがそれをつけてもらう様子を想像して、そうしてきっとわたしはその横顔も好きだったのだろうと思った。つまるところ、わたしはわたしの知らない緑間くんにさえも恋をしていて、その際限のなさに時々自分が怖くなった。そうしてわたしが自分におびえるうちにも、視界は日に日に狭まっていった。

向こうの方で、歓声が沸いた。振り向くと、わたしたちと同じように胸元に花をつけた学ラン姿が在校生たちの手によって宙を舞うのが見えた。そうして二度三度胴上げの洗礼を受けた彼は、そうだ、たしかバレー部の主将だった。
「緑間くんもバスケ部のところ、行かないと」
「…そんな場合ではないのだよ」
「だめ。バスケ部は緑間くんのいちばんでしょう」
「だからといって理由も聞かずにはいそうですかと頷けるわけがないだろう」
「たいそうな理由じゃあ、ないもの」
「大層かどうかはおれが決める」
「…言いたくない」
緑間くんは門出の日にまったく相応しくない大きなため息をついた。それでいいよ、そうやって、どうかかなしみなんて忘れてしまって。わたしのことで、綺麗な君がかなしむ必要なんてないのだから。
「おれが、嫌いか」
「ううん…大好き」
「だったら」
緑間くんがめずらしく請うような声を出した。来る者は拒み去る者は追わないひとだと思っていたのに、ああ、わたしの知らない緑間くんは、まだまだたくさんいる。そしてそれは、とりもなおさず、わたしが彼を好きになる余地が、まだまだあるということだ。
「…緑間くんは、底なし沼みたいね」
「なんだと?」
あまり響きのよくない言葉に緑間くんは潔癖そうな眉毛をわずかに額の真ん中に寄せた。むっとした顔さえ、緑間くんはきれいだった。
「ねえ、緑間くん」
「なんだ」
「あした、理由は明日話すのでは、だめ?」
「…そうする意味は」
「きっと明日は、桜がもっと咲いてる」
緑間くんは今度は困ったように眉を下げた。わたしの言葉の無意味さを指摘しようか迷っているみたいだった。明日になったからといって桜が急に咲き揃うわけはないし、そうだとしてもわたしと緑間くんがお別れする日にふさわしいとは思わない。けれど、花がふつふつとまばらに咲く桜の樹の下で、鮮やかな葉色の髪の背の大きな緑間くんがひとりでわたしを待っている姿は、わたしが緑間くんにお別れをする日にはとても、ふさわしい。彼はきっと、いつまでもわたしを待ってる。

「…わかった。明日だな」
「うん、ありがとう緑間くん」
「…」
「ほら。じゃあもう、行って」
きっとどこかで黒髪の人懐こい笑顔を湛えた相棒が、緑間くんをさがしてる。あの子はたぶん、緑間くんの前でだけ泣くのだろう。緑間くんは、どうかな。緑間くんが泣くのなら、それは明日だったらいい。今日とちっとも変わらない咲きぶりの桜のしたで、誰にも見られずにわたしのせいで泣いてくれたらいい。わたしはそれを見られないけれど、想像のなかのその緑間くんにさえきっとわたしは恋をする。わたしはあした、緑間くんへの最後の恋を、きっとする。
「絢音」
「うん?」
緑間くんが詰めていた息を全部はきだしてしまおうとするみたいにわたしの名前を呼んだ。その髪に薄桃色の花びらが着地する。ちいさな花冠を戴いた緑間くんのひとみに、もうかなしみは泳いではいなかった。代わりに、すべてを悟ったみたいに優しい緑色が、涙まみれのわたしの情けない顔を映している。
「卒業おめでとう」
「うん、緑間くんも。卒業おめでとう」
「ああ」
緑間くんが背中を向けて、真っ黒な学ランが小さくなっていく。その後ろ姿を見送るように、ひときわ強い風が吹いた。まだ咲きだしのうちから枝を離れた花びらが、煽られて薄桃色の弾幕を作る。わたしは制服の胸元に手を伸ばした。今朝見た占い、明日の蟹座のラッキーアイテム。衣ずれの音をのこして緩やかにほどけたスカーフが、桜の風に攫われていく。どうか明日の緑間くんへ、わたしは君の幸福をこころから祈る。
スカーフをなくした制服はなんだか少し物足りなかった。もう着ることはないのだから、問題はない。緑間くんをなくしたこころは、いったいどうなるだろう。失くしたはずなのに、いつもよりもずっと重たい気がした。明日はきっともっと、重いのだろう。
わたしは鉛のこころを引きずって、もうすぐ見えなくなる緑間くんの後ろ姿に背を向けた。

「バイバイ、緑間くん」

今日わたしは、秀徳高校から、緑間くんから、ーーこの街から、卒業する。




少しだけ風の強いよく晴れた日、五分咲きの桜の樹の下で、鮮やかな葉色の髪をした長身の男は、来ることのない面影を待ち続けた。優しい緑色のひとみからは、かなしみと愛しさがとめどなく流れていた。


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